始皇帝の死、扶蘇への使者

 さて三十六年(B.C.二一一)になりました。


 墜星ついせい東郡とうぐん(旧・えいの地方)におちることがあり、地にいたっていしとなりました。黔首けんしゅ国人こくじん)のあるものがそのいしきざんでしるしました。


始皇帝しこうていして、けらる」。


 始皇帝しこうていはこのことを聞き、御史ぎょしをつかわして逐問ちくもん尋問じんもん)させましたが、ふくするものはありませんでした。ことごとくいしのかたわらの居人きょじん住人じゅうにん)をめしとり、それらをちゅうしました。そして焼いてそのいしをけずりました。


 ぼくうらない)により、河北かほく榆中ゆちゅうの三まんうつし、しゃくきゅうたまいました。


 しん始皇帝しこうていの三十七年(B.C二一〇)になりました。


 ふゆ、十がつ癸丑きちゅう始皇帝しこうてい出游しゅつゆうしました。全国をめぐる旅にたわけです。左丞相さじょうしょうしたがい、右丞相うじょうしょう去疾きょしつ留守るすまもりました。


 始皇帝しこうていには二十の子がありましたが、少子しょうしすえの子か)の胡亥こがいがもっともあいされており、したがうことをいました。じょう始皇帝しこうてい)はこれを許しました。

 

 十一がつ一行いっこう雲夢うんぼうに至り、虞舜ぐしゅんいにしえしゅん帝)を九疑山きゅうぎさん望祀ぼうししました。


 長江ちょうこうかわかんで(船にてか)くだり、藉柯せきかを観て、海渚かいしょを渡り、丹陽たんようをすぎ、錢唐せんとうにいたりました。浙江せっこうかわにのぞみましたが、水や波が不調で、西に百二十移動して、陿中きょうちゅう狭中きょうちゅう餘杭よこうにあるという土地)より渡りました。會稽かいけい山へのぼり、大禹たいう、つまりいにしえの帝を祭り、南海なんかいうみぼうし、いしをたててしんとくしょうしました(會稽かいけい山のうえには帝のあなびょうがあるといいます)。


 かえりて、をすぎ、江乘こうじょうから渡りました。あわせて海ぞいをのぼり(北上ほくじょうし)、北へいって琅邪ろうや之罘しふにいたりました。巨魚きょぎょをみて、その一つを射殺しゃさつしました。海西かいせいをいって、平原津へいげんしんにいたってついに(始皇帝しこうていが)へい(病気か)になりました。


 始皇帝しこうていをいうことをにくみ、群臣ぐんしんにあえてのことをいうものはありませんでした。やまいはますますはなはだしく、そこで璽書じしょをつくり公子こうし扶蘇ふそたまわって申しました。


そうかい咸陽かんようにあずかりてほうむれ(葬儀そうぎ朝会ちょうかい咸陽かんようにとりおこないほうむれ)。」


 そう書いてありました。しょはすでにふうじられ、中車ちゅうしゃ府令ふれい趙高ちょうこうこう事所じしょにありましたが、まだ使者ししゃにはさずけられませんでした。


 あき、七がつ丙寅へいいん始皇帝しこうてい沙丘さきゅう平台へいだいほうじました。



 丞相じょうしょう李斯りしじょう皇帝こうてい)がほうぜられたのにそとにいるため、しょ公子こうしと、天下てんかに、それぞれへん謀反むほん)があることを恐れ、そこでこのことをしてはっしませんでした。ひつぎ轀涼車おんりょうしゃの中にのせました。


 轀涼車おんりょうしゃについてはちゅういていますが、自分では説明しきれないのではぶきます。


 もとさいわいをこうむっていた宦者かんじゃ参乘さんじょう(同乗)しました。いたるところで、しょく(食事)をのぼしました。百官ひゃっかん奏事そうじはもとのままで、宦者かんじゃがそのたびにしゃちゅうよりその奏事そうじに「」をあたえました。ひとり、皇子おうじ胡亥こがい趙高ちょうこうさいわいせられた宦者かんじゃ、つまり宦官かんがんの五・六人のみがこのことを知っていました。


 時代は、しん二世にせい皇帝こうていの時代にはいっていきます。


 激動の時代です。

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