坑儒の経緯と顛末

 さて盧生ろせい始皇帝しこうていいて申し上げました。


ほう方術ほうじゅつか)のなかに、『人主じんしゅ(皇帝、君主)は、時に微行びこうして以て惡鬼あくきを避ける。惡鬼あくきを避ければ、真人しんじんいたる。』とあります。願わくはじょうはおるところのきゅうを人をして知らしめなければ、しかるのちに不死の薬をえることができるようになるでしょう」


 始皇帝しこうていはおっしゃいました。


れ、真人しんじんしたう」


 始皇帝しこうていみずからを「真人しんじん」といい、「ちん」としょうされませんでした。そして咸陽かんようのかたわらの二百內の宮観きゅうかん(建物の名称)二百七十を、複道ふくどう甬道ようどう(トンネル?)であいつらね、帷帳いちょう(周りを囲むような美しい布)、鐘鼓しょうこ(鐘や太鼓)、美人びじんをしてこれらの宮観きゅうかんにあて、おのおの部署をあんじて移動させませんでした。


 御幸ぎょこうされるところがあれば、そのところをいうものがあれば、罪はとなりました。


 始皇帝しこうてい梁山りょうざん宮に御幸ぎょこうされたとき、山上さんじょうより丞相じょうしょうしゃがおおいことをられ、からずとされました。中人ちゅうじん宦官かんがんか)のあるものが丞相じょうしょうにこのことをげ、丞相じょうしょうのちしゃそんし、らしました。


 始皇帝しこうていは怒っておっしゃられました。「これは中人ちゅうじん漏洩ろうえいしたのだ」と。そして案問あんもん、裁判され、罪にふくするものはなかったので、この話をした時にかたわらにあったものを、ことごとく殺しました。これよりのち、御行ぎょこう所在しょざいを知るものがなくなりました。群臣の決事けつじを受けるものは、ことごとく咸陽かんようきゅうにおいてしました。


 人民を動かす大事業をたくさんおこない、果断かだんといえばいいですが、独断と専行がみられるようになったのかもしれません。


 侯生こうせい盧生ろせい(共に道士どうし)はあいともに始皇帝しこうてい譏議きぎそしののしる)して、そして亡去ぼうきょ(逃亡)しました。始皇帝しこうていはこれを聞き、大いにいかっておっしゃいました。


盧生ろせいらを、れが尊賜そんしすることはなはだあつし、今はそうであるのにわれ誹謗ひぼうす。諸生しょせい(学者・道士どうし)の咸陽かんようにあるものを、れは人をして廉問れんもん詰問きつもん)させよう、あるものは妖言ようげんをなして黔首けんしゅ(国民)たちを乱すからだ。」


 ここに御史ぎょしをしてことごとく諸生しょせい(学者・道士どうし)を案問あんもんさせました。諸生しょせいはつたえてあい告引こくいんし、そこでみずからのがれようとしました。きんおかすとされるもの、四百六十人のもの、みなこれを咸陽かんようあなめにし(こう)、天下をしてこのことを知らしめ、もってのちらさせました。


 ますますたく、罪人でしょうか、を発してへん(辺境)にうつしました。


 始皇帝しこうてい長子ちょうし(長男・嫡子ちゃくし)・扶蘇ふそいさめて申し上げました。


諸生しょせいはみな孔子こうし誦法じゅほうじゅし法とする)しています。今、じょう(皇帝)はみな法をおもくしてこれをじょうされました。


 臣は、天下のやすんぜざることを恐れます。」と。


 始皇帝しこうていは怒り、扶蘇ふそをして北に蒙恬もうてんの軍を上郡じょうぐんかんさせました。


 盧生ろせいについてはせいえんにいた方術ほうじゅつ士で、それらの同類がここではこう、あなうめにされたと『通鑑つがん』はとりつつ、一方で扶蘇ふその言葉を引き、これらが孔子こうしの徒であった、とも書かれています。


 扶蘇ふそ儒者じゅしゃとうとぶべきだと主張して、蒙恬もうてんのいる上郡じょうぐんへと異動させられていますが、儒学じゅがくしんでどうとらえられていたかをふくめて、興味深いところです。

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