最終話 次の嫁イビリ
ルイーズは、おかわりのお雑炊もあっさりと平らげ、久しぶりの満腹感で心も体も満たされていると、食堂の扉が開いて一人の男性が入室する。
「ただいま帰りました」
イビリーナとアーサーの息子でありルイーズの夫、ヴァロア辺境伯当主アレクサンドルだ。
こんなにも早い時間に帰宅とは珍しい。最近はとても夜が遅く、帰ってこないことも多いのだ。
何事か、と目をパチクリさせているルイーズの耳にイビリーナがそっと囁く。
「わたくしが帰宅を促しました」
なるほど、と頷いていると、アレクサンドルは疲れ気味の顔でネクタイを緩め、
「父上と母上が来ていると聞いて飛んで帰ってきましたが……ルイーズ! 目が真っ赤じゃないか! どうしたんだ!? 泣いたあとのように見えるぞ!」
「え、えっと……嫁イビリを受けまして……」
「嫁イビリ!?」
怒りの形相で両親を睨む夫の様子から、まだ彼はヴァロア辺境伯家の嫁イビリについて何も聞かされていないのだとルイーズは察する。
「あ、あの、これは違って……!」
「心配しなくていい、ルイーズ。父上、母上、ルイーズをイジメたのはどちらですか? たとえ実の両親でも許しませんよ」
慌てて説明しようにも上手く言葉にならないルイーズ。親子喧嘩を防ごうと思えば思うほど空回ってどうしたらいいのかわからなくなる。
しかし、こういう状況に慣れているのか、アーサーとイビリーナは肩をすくめたり、ため息をついたりするだけ。二人は阿吽の呼吸で目配せをし、代表でイビリーナが強い口調で息子に告げる。
「アレクサンドル……いえ、この馬鹿息子! 子育てをルイーズに任せきりにして、自分は仕事仕事仕事……それでも二児の父親ですかっ!? 恥を知りなさい! わたくしたちは実の息子でも許しませんよ!」
「は、母上……?」
「アレクサンドル。その場に正座」
「父上まで!?」
「「せ・い・ざ!」」
「……はい」
どんな時も温厚なアーサーすら厳しい眼差しをしていることに驚愕したアレクサンドルは、両親からの命令に渋々従い、食堂の床に正座する。
心なしか動作がスムーズだ。子供のころから説教されるときは必ず正座だったのかもしれないとルイーズは思う。
正座したアレクサンドルの目の前に立つイビリーナは、それはそれは美しい笑顔を浮かべ、伝説の悪女に相応しい威圧感をまき散らしている。
9割の人間が彼女の圧倒的な覇気に恐れおののくだろう。
昔から見慣れているはずの実の息子も若干顔色が悪い。
「アレクサンドル。弁明を聞きましょう」
「え、えっと、子育てなら少しは手伝っていました……夜遅いけど帰ったら子供たちの顔は必ず見に行くようにしていたし……」
「
その時、食堂にいる誰もがイビリーナの逆鱗に触れたことを理解する。
どこからともなくブチッと何かが切れる音がして、こめかみに青筋が浮かんだ彼女が怒りのまま息子を傲然と見下ろす。
「――子育てとは、
「っ!?」
ハッとしたアレクサンドルをさらに叱りつけるイビリーナ。その様子をどこか懐かしそうに見守るアーサーは、こっそり嫁のルイーズに囁く。
「懐かしいなぁ。実はボクもこうやって正座したんだよ」
「お義父様もですか?」
「アレクサンドルと全く同じことを言って叱られてねぇ……それからは心を入れ替えてイビリーナさんと一緒に子育てをするようになったんだ。『いろいろあって』と言ったでしょ?」
「それで抱っこがお上手だったのですね」
「ふふふ。抱っこの上手さはルイーズさんにもまだ負けないよ」
「ぜひご教授をお願いします、お義父様」
「もちろんいいとも!」
嫁に頼られてアーサーはとても嬉しそうだ。
「同じ道を通った先輩として、ボクも息子を説教してこようかな」
どことなく楽しそうなアーサーと入れ替わるように、一通り言い終えたイビリーナがルイーズの傍に立った。
「はぁ。まったく、我が息子ながら情けない……ごめんなさいね、ルイーズ」
「いえ。これもヴァロア辺境伯家の伝統でしょう」
「そうかもしれないわね……ルイーズ、貴女は明日からしばらく何もしなくていいわ」
「あ、これが嫁イビリですね!」
「そうよ。嫁イビリよ」
眼光が鋭いツンッとした義母の悪女顔。その口元には薄らと笑みが浮かんでいる。
『明日からしばらく何もしなくていい』――つまり『ルネとミシェルの育児はイビリーナとアーサーとアレクサンドルの三人が行なうから、しばらくは見守ることに徹して体力回復に努めなさい』という意味だ。
悪女な義母は嫁の肩に優しく手を置きながら、高圧的な口調で宣言する。
「これからもっと嫁イビリをするつもりだから、せいぜい覚悟することね!」
そして、茶目っ気たっぷりなウィンクを披露した。
――それから26年もの月日が経過した。
4人の子供に恵まれたルイーズ。
数年前に子供たちは全員成人し、子育てという母親の役目が一つ終わった。さらには、夫アレクサンドルは長男ルネに爵位を譲り、辺境伯夫人という地位も降りた。
現在は、たびたび子供たちの様子を見守りながら、夫とともにセカンドライフをのんびりと謳歌しているところである。
芳醇な香りが漂うお茶。甘さ控えめのクッキー。目の前には夫以上に慕う女性――
シワができたり白髪になったり老いた印象があるものの、未だに衰えぬ威圧感とカリスマ性、そして年月とともに深く磨き上げられた、見る者を恐れさせる圧倒的な美貌の持ち主である義母イビリーナと優雅にお茶をしていた。
「ルイーズ」
「はい。なんでしょう、お義母様」
9割の人間が緊張と恐怖で竦み上がるイビリーナの顔と声と視線だが、ルイーズはニコニコ笑顔で見つめ返す。
彼女の瞳に憧れの人を眺める熱っぽい輝きがあるのは気のせいではないだろう。夫が呆れ、嫉妬するくらいルイーズは義母のことを慕っていた。
イビリーナは、優雅にティーカップを傾けながら、限られた者にしかわからない慈愛の眼差しをルイーズに向け、
「ルネの子供が生まれたそうね」
「はい。私にとって初孫で、お義母様にとっては初曾孫ですよ」
「嫁イビリ、するのでしょう?」
「もちろんです。ヴァロア辺境伯家の伝統ですから。お義母様のようにたっぷりと嫁イビリをしてきます。今日はそのご報告に」
「そう。なら早く行ってあげなさい。わたくしは早く行かなかったことを一生後悔しているから」
「お義母様……」
ルイーズの視線から逃れるようにイビリーナはプイッと視線を逸らす。
これが不機嫌さを表す動作なのではなく、ただの照れの仕草だということをルイーズは知っている。
昔から変わらぬ義母の可愛さにルイーズの笑みはニマニマと深まる。
「嫁イビリに行くならこれを持っていきなさい」
ぶっきらぼうにそう言ってイビリーナが差し出したのは、アンティーク調の扇子だった。
「ヴァロア辺境伯家に代々受け継がれているものよ。絶対に必要になるわ」
「もしかして……」
「ええ。わたくしもルイーズを嫁イビリする際に受け継いだの。ルイーズ。次は貴女の番よ」
ルイーズの手の中で扇子がズシリと重みを増した気がする。
脈々と受け継がれてきた先代たちの想いが、この扇子に宿っているのだ。そして、次の時代を担うのはルイーズの役目。
「気負う必要はないわ。わたくしのようにやらなくていい。ルイーズはルイーズらしく嫁をイビればいいの」
「お義母様……」
「でもね――ヴァロア辺境伯家の者らしく存分にやりなさい!」
「っ!? はい、お義母様!」
悪戯っぽく微笑む義母に、同じく微笑む嫁が悪戯っぽく頷く。
こうしてヴァロア辺境伯家の嫁イビリは次の世代に継承された。
――数日後、ルイーズは夫アレクサンドルを連れて長男夫婦の屋敷に電撃訪問する。
部屋に通され、夫と二人でしばらく待っていると、長男ルネの妻マリンが慌てた様子でやってきた。
「お出迎えできず申し訳ございません! お義父様! お義母様!」
息を荒げたまま開口一番謝罪し、深々と頭を下げた彼女は、ボサボサの髪を一つにまとめ、化粧は濃く、ドレスを着て、アクセサリーをつけ、ヒールを履いている。汗の匂いを誤魔化す香水も強い。
やはり初めての育児に四苦八苦しているようだ。
昔の自分と重なり、冷たい威厳を纏うルイーズは顔が緩まないよう必死で表情筋を引き締めた。
今ならイビリーナの気持ちがよくわかる。
今日という日をずっとずっと待ち望んでいたのだ。ようやくこの時が来た。
懐かしさと感動、そして喜びなど、万感の想いで胸がいっぱいだ。
「別に挨拶に来なくてもよかったのに」
「え……? あ、あの、本日はどのようなご用件でしょうか……?」
いつになく冷たい表情のルイーズにビクビクと怯える嫁マリン。
さすがにもう我慢の限界で、ルイーズは継承したアンティーク調の扇子を開いて緩んだ口元を覆い隠した。
『――絶対に必要になるわ』
ふと耳に蘇る義母イビリーナの言葉。
本当にその通りだ。これは絶対に必要になる。
自分やイビリーナだけではない。先代たちもこうして堪えきれない笑みをこの扇子で隠してきたのだろう。
「今日、わざわざ赴いた理由は――」
笑いで震えそうになる声を必死に抑え、ルイーズは自分が初めて嫁イビリされた時のことを思い出しながら、世界で一番尊敬する悪女な義母のように冷たく高圧的に宣言する。
「実は私、嫁イビリに来たの。せいぜい覚悟しておくことね、マリン」
<完結>
悪女な義母の嫁イビリ宣言 ブリル・バーナード @Crohn
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