第4話 嫁イビリの真実


 ポカーンと口を開けてパチパチと目を瞬くルイーズの耳に、義母イビリーナの悔やむ声が届く。


『こんな状況になっているとは思ってもいなかったわ……。もっと早く押しかけるべきだったわね。ルイーズのことだから、どうせ一人で我慢して何も言わなかったのでしょう? 本っ当に頑固で意地っ張りなんだから……そういうところも可愛いのだけど!』


 貶されている? それとも褒められている?

 義母の声音に少なくとも否定的な感情は感じられない。むしろ『仕方がないわね』と呆れに似た親愛の感情で満ち溢れている気がする。


『どういうこと?』とルイーズは目をパチクリとさせ、同じく盗み聞きしている義父アーサーに視線を向けると、彼はニコニコと満面の笑みを浮かべていた。

 彼は妻が可愛すぎて堪らないようだ。


『あなたたちもあなたたちです! いくら我慢強くて可愛いからといって、一切泣き言を言わないルイーズに甘えてはなりません! 双子を出産したばかりで大変な時期に周囲の者が支えなくてどうしますかっ!? 反省なさい!』


 厨房から叱責されて謝罪する料理人たちの声が聞こえてくる。しかし、イビリーナの怒りはまだ鎮まらない。


『今日は残業せずに帰り、結婚して子供がいるなら妻に、独身ならば母に、どちらも無理なら屋敷の子持ちの侍女に、産後に食べていた食事を聞いてきなさい! そして、わたくしの可愛いルイーズにコース料理を振舞っていたと告白して怒られてきなさい! いいわね?』


 イビリーナが言う『わたくしの可愛いルイーズ』とは、一体どこのルイーズなのだろう?

 ルイーズ本人の頭にはクエスチョンマークが浮かんで、それが自分のことだとは未だ結び付いていなかった。

 そんな彼女の肩をポンポンとアーサーが叩く。


「ルイーズさん。そろそろ戻ろうか」

「あ、はい……あの、お義父様? お義母様は一体……」

「そのことは食堂で話すよ。まあでも、一つだけ先に言っておくなら――」


 義父は茶目っ気たっぷりなウィンクとともに告げる。


「――ボクの可愛い妻イビリーナさんは、ルイーズさんのことが大好きで仕方がないんだよ」

「え? えぇっ……!?」


 食堂に戻ってもルイーズはあまりに衝撃的な事実から立ち直れていなかった。

 悪女のようにイビってきた義母が、本当は自分のことを大好きであると言われても素直に信じるのは難しい。揶揄われているのではないかと思う。でも、義父アーサーは、妻イビリーナに関して絶対に嘘をつかない人である。


「さてと、まずはごめんね、ルイーズさん。少し追い詰めちゃって。ああ見えてイビリーナさんは演技派だから余計に怖かったよね。まさかルイーズさんの精神がこんなにも疲弊してるとは思わなくて、もう少し早く来るべきだったと後悔しているよ」

「演技……?」

「うん。ヴァロア辺境伯家に代々伝わる嫁イビリや婿イビリ――それはね、イビッているように見せかけて、子育てのお手伝いをするんだよ」

「子育てのお手伝い、ですか……?」


 そうそう、と義父は頷き、


「この家に嫁ぐ女性というのは、みんな真面目というか、責任感が強いというか、謙虚というか、意地っ張りというか、頑固というか……真正面から手伝いを申し出ても断る人ばかりでさぁ」

「う゛っ!?」


 心当たりのあるルイーズは小さく呻いて視線を逸らす。

 実際、アーサーたちから育児の手伝いの申し出はあった。しかし、意地になって断ったのは、何を隠そうルイーズ本人だ。

 義両親の手伝いは必要ない。断った手前、頼ることもできない。そして何でも一人でやろうとした結果がこのザマなのだ。


「だから嫁イビリと称して育児の手伝いをするのが初代様から続くヴァロア辺境伯家の伝統なんだ。本当は『こんなこともできないの?』と言いながら、ルイーズさんが育児に専念できるように、ボクたちが雑事を受け持ってサポートする予定だったんだけど……遅くなってごめんね。双子の育児は大変だったよね」

「で、でも、お義母様はダメダメな私のことを否定なさって……」


 アーサーは穏やかな瞳でルイーズをじっと見つめた。


「いつイビリーナさんがルイーズさんを否定したかな? 何を言われたのか教えてくれるかい?」

「え? その……お義父様たちがいらっしゃったときに、お義母様は『挨拶に来なくてもよかったのに』と」

「うん。『育児で疲れているだろうから休んでいてよかったのに』という意味だね。イビリーナさんのことだから『家族なんだから訪問客みたいにわざわざ挨拶しなくていいわ』という意味もあっただろうね」

「あ、あれ……?」


 言われてみればそう受け取れなくもない言葉だ。

 貴族ならば言葉に裏の意味を持たせることはよくある。誉め言葉、取引、結婚や婚約の打診、嫌味の応酬――言葉の真の意味を読み取ることが貴族には必須技能だ。


 妊娠と育児で余裕がなく、社交界をしばらく離れていたこともあり、ルイーズはすっかり貴族社会のことを忘れてしまっていた。


 ルイーズの強い思い込みに綻びが生じる。

 義母イビリーナに否定されたと思っていた数々の言葉も、もしや他の意味が込められていたのだろうか……。


「お義父様、お伺いしますが、今回のご訪問に前触れがなかったのは――」

「ルイーズさんに余計な気遣いをさせないためだね。ずっと身構えて気が休まらないだろうから……って、イビリーナさんが」


 ニコニコ笑顔でアーサーは答えた。

 確かにそうかもしれないとルイーズは思う。

 突然の訪問のほうが驚きや焦りは大きいけれど、その分、長々と義両親の来訪に身構える必要はなかった。


「で、では、香水を注意されたのは……」

「汗の匂いを誤魔化すためだろうけど、ルネやミシェルのような乳児にはダメだよ。匂いが強すぎるからね」

「ならお化粧も……」

「うん。似たような理由かな。『ルネやミシェルがいるのに濃すぎるわ』とイビリーナさんは言っていたね」

「ドレスのことも……」

「ルイーズさんはドレスで子育てができるかな? しかも高いヒールだったよね? 『ルイーズさんに合っていない、似合っていない』という意味じゃなくて、『子育てしている状況に合っていない』という意味さ」


 そういえば、訪問した義両親は乗馬服に似たシンプルで質素な服を着ている。装飾はなく、ボタンも少ない。イビリーナに至ってはスカートではなくパンツスタイルだ。

 動きやすく、清潔で、かつ汚れてもいい服――。

 イビリーナもアーサーも孫たちのことを第一に考えていたのだ。


「アクセサリーも……そうよ。あれは似合わないという意味でも、辺境伯家の夫人に相応しくないという意味でもなくて、『』という意味……!」

「そうだね。イヤリングを引っ張られてルイーズさんが怪我するかもしれない。知らないうちに床に落ちてしまうかもしれない。ルネやミシェルが呑み込むかもしれない……特にルネはもう寝返りをするからね。これからハイハイをして動き回ることを考えたら、アクセサリーの類は仕舞ったほうがいいよ。赤ちゃんってなんでも口に入れてしまうし」

「そ、そんな……私は今までお義母様のことを誤解して……!」


 嫁イビリの真の意味が次々に露呈して、ルイーズは別の意味で泣きたくなってきた。

 義母イビリーナはただ頭ごなしに否定していたのではない。全部子育て中の母親ルイーズのためを思って注意していたのだ。


 体調不良で倒れた後、4時間もぐっすり眠ることができたのは、義両親が子供たちの面倒を見てくれたからだ。


 彼女はようやく義両親、特に義母の優しさを理解する。

 一方的に怖がって委縮していた自分がとことん情けない。合わせる顔がない。

 反省と後悔で心が苛まれているその時、彼女はあることに気づく。


「私が倒れそうになった時、咄嗟に支えてくださったのはもしかしてお義母様……?」

「あの時のイビリーナさんの動きは素早くて格好良かったよ。覚えてないかもしれないけど、ルイーズさんが寝るまでお世話して付き添っていたのもイビリーナさんだね」


 ずっと撫でて、支えて、寄り添って、寝るまで傍にいてくれた優しい――朧げに記憶に残るぼやけた顔と声がイビリーナのものと一致する。


「あぁ……お義母様……! 申し訳ございません! 私は……私はとんでもない誤解を……!」

「うんうん。イビリーナさんの本当の顔を知ってくれてボクは嬉しいよ。イビリーナさんは見た目が高圧的で怖いでしょ? でもね、実は不器用で言葉足らずで甘えん坊な可愛らしい女性なんだ。ちょっと人見知りなところもあってね、そこがまた何とも――」


「――何を言っていますの、アーサー!? 黙らっしゃい!」


「あ、イビリーナさん。おかえり」


 のほほんと微笑む夫をキッと睨むイビリーナ。大人でもビビる威圧的な悪女顔だ。

 しかし、よくよく見ると彼女の耳が真っ赤になっていることにルイーズは気づいた。どうやら照れ隠しで声を荒げているだけらしい。


「無駄話をしていないで、ほら食べなさい」


 素っ気なくそう言ってテーブルに置いたのは、湯気が漂う素朴なお雑炊だった。

 溶いた卵や細かく刻まれた野菜が入っていて、先ほど振舞われたコース料理よりも遥かに美味しそうに感じる。明らかに胃に優しいだろう。

 ほんのりと香る醤油の匂いが心地よく、ルイーズの食欲が無性にそそられる。


「イビリーナさんの手作りじゃないか。いいなー。美味しそうだなー」

「まずはルイーズが先ですっ!」

「ふふっ。ボクのぶんは後からなんだね。なら楽しみにしておこうっと。ほらほら、ルイーズさん。ボクたちのことは気にしなくていいから先にお食べ。ボクたちは一食抜いたくらいどうってことないけれど、ルイーズさんはそうじゃないんだから。ルネとミシェルのためにも栄養をつけないと。こう見えてイビリーナさんの得意料理はお雑炊でね――」

「そんなことを言ったら、この子は無理をして全部食べようとするではありませんか! ルイーズ、この馬鹿な夫の言葉は無視しなさい。貴女が食べらるものを、無理のない範囲で食べなさいな。これも無理そうならスープだけでもいいから」


 義母に対して今まで感じていた高圧的な印象はない。

 生まれ持った美貌と声には確かに他者を威圧するものがあるが、思い込みが消え去った今なら、イビリーナの優しさが痛いほどわかる。

 イビリーナが厨房へ向かったのはきっとこのお雑炊を作るため。料理人たちへの説教はついでだ。


「いただきます……」

「ゆっくりよ。熱いから火傷しないように。ガツガツ食べちゃダメ。よく噛んで食べなさい」

「はい」


 お雑炊をパクリと口に含んだ次の瞬間、愛のこもった優しい味がじんわりと体に広がっていく。

 こんなにも美味しいものがこの世に存在していたのか。

 心身の緊張が解け、妊娠している最中からずっと張っていた気が完全に緩む。


「う゛ぅっ……!」

「ど、どうしたの!? また気持ちが悪くなったのっ!?」

「ち、違いま゛ずぅ……お雑炊が美味じぐでぇ……う゛うううぅぅっ!」


 泣きながらパクパクとお雑炊を食べるルイーズの姿に、イビリーナもアーサーもホッと安堵の息を吐き、温かい眼差しで見守り続ける。


「美味しい゛ぃ……美味じぃでず、お義母様゛ぁ……!」

「もう! 泣くか食べるかどっちかになさい」

「む゛、無理でずぅ……ズビッ! わ゛、私ぃ、お゛義母様に謝り゛だぐでぇ……」


 食べるのを一旦止め、ずっと隣に寄り添ってくれているイビリーナに抱き着く。一瞬驚いたものの、涙や鼻水で汚れるのを厭わず、イビリーナもルイーズを優しく抱きしめ返した。


「はいはい。どうせ誤解してたんでしょう? まあ、今日はわざとツンツンしてたから余計に怖かっただろうし……わたくしのほうこそごめんなさいね。生まれつきこんな悪女顔だから、誤解されなかったことが無いの」

「ボクは誤解しなかったよー」

「黙らっしゃい!」


 仲のいい夫婦のやり取りにルイーズはクスッと笑う。

 久しぶりに笑った気がする。最近はいっぱいいっぱいで我が子を見ても笑っていなかったような……義両親が嫁イビリに来てくれて感謝しかない。


「わたくしの可愛い可愛いルイーズ。もうお腹いっぱいかしら?」

「……まだ食べます……ズビッ!」

「まったく。こんなに目を真っ赤にしちゃって。ルネとミシェルが見たら泣くわよ」

「そういえば、イビリーナさんも初めて嫁イビリされた時は目が真っ赤だったような」

「そんな昔のことをいちいち思い出さないでくださいましっ!」


 また笑いながらルイーズはお雑炊を食べ、気が付けば完食してしまった。

 いつも食べる量をとっくに超えているのに、しかし今日はまだ体が食べ物を欲している。


「お義母様……」

「どうしたのかしら?」


 慈愛に溢れていても相変わらず悪女顔な義母をルイーズは恥ずかしそうに見上げ、


「あのですね、その……お、おかわりを頂いてもよろしいでしょうか……? お義母様のお雑炊がとても美味しくて……」


 キョトンと目を瞬かせたイビリーナは、耳を真っ赤にさせてプイッと顔を逸らす。


「はぁ。まったく。何を言い出すかと思ったら。仕方がない子ね! わたくしがついていないと本当にダメなんだから!」

「イビリーナさんは相当照れて喜んでいるね」

「お義母様、お可愛いです……!」

「あぁもう! 何を言ってるのっ! 今すぐ持ってくるから少し待ってなさい!」


 逃げるように颯爽と食堂から出ていく義母の照れた背中を、ルイーズは親愛と憧れの眼差しで見送るのだった。




<次回『最終話 次の嫁イビリ』>

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