第3話 ネタバラシ
「あ……れ……? 私は……?」
深い眠りからルイーズは目覚めた。
久しぶりにこんなにも眠れた気がする。子供を出産してからは初めてのことだ。
まだ疲れは抜け切れておらず、体が怠重いけれど、それは深く眠ったせいもあるだろう。少なくとも気持ち悪さはなく、気力も幾分か回復した。
脳が働き始めたルイーズは、真っ先に考え込む。
どうして自分はベッドの上で寝ていたのだろう、と。
突然の義両親の来訪は覚えている。義母イビリーナにイビられ、吐き気を催したことまでははっきりと――しかし、その後の記憶は曖昧だ。
己が虚ろな人形のように誰かの声に従い、酸っぱい口の中を洗い、甘いリンゴジュースを飲んで、化粧を落とし、お風呂に入って、温かなベッドの中で目を閉じたことは、途切れ途切れながらも断片的に覚えている。
自分が寝るまでの流れは何となく理解した。でも、一つ疑問が浮かぶ。
――優しくお世話をしてくれたあの人は一体誰だったのだろう……?
ルイーズが目覚めたことに気づいて、専属侍女が声をかけてきた。
「おはようございます、奥様。ゆっくり眠れましたか?」
「んっ……おはよう。こんなにも人目があるのに熟睡していた自分に驚きよ……で、なんなの、この厳戒態勢は?」
睡眠の邪魔をしないよう少し離れた場所にいるものの、ズラリと並んだ大勢の侍女たちの姿はドン引きするほど異様だった。
ルイーズの一挙一動を見逃さない侍女たちの眼差しが気まずくて、寝起きには少し辛い。
「大奥様からのご命令でございます。そんなことよりも奥様、体調のほうがいかがでしょうか?」
「絶好調とは言えないけれど、だいぶマシになったわ」
ルイーズはテキパキと熱を測る侍女たちのされるがまま、差し出されたリンゴジュースをボケーッと飲む。
リンゴジュースがとても美味しい。弱った体に優しい甘さが染み渡る。
「お義父様とお義母様は?」
「大旦那様と大奥様はルネ様とミシェル様を見ていらっしゃいます。大層可愛がっておられましたよ」
「そう……私、どれくらい寝ていたの?」
「4時間ほどでしょうか。そろそろ夕食の時間でございます」
「そんなに寝ていたの!? い、行かなきゃ……!」
義両親に4時間も子供の面倒を見てもらうなんて嫁失格だ。ミルクの時間もある。ベッドの上でのんびりしているわけにはいかない。
「服の準備をお願い!」
「こちらにご用意しております」
「ありがとう……って、いつもの部屋着じゃない! こんなものを着た姿をお義父様とお義母様にお見せできないわ!」
「大奥様から『構わない』とあらかじめ言付けを受け取っております」
「お義母様の……」
それは実質命令に近い。
またイビられるのではないか、とビクビクするルイーズを侍女たちは手慣れた様子で着替えさせる。今度は化粧や香水、アクセサリーも無しだ。
貴族の夫人にあるまじき部屋着かつスッピン姿のまま、ルイーズは仕方なく義両親がいるという子供部屋へと足早に向かう。
扉をノックをして返事があったので、子供たちを刺激しないよう静かに入室する。
「失礼します――」
「体調はもういいのかな、ルイーズさん?」
真っ先に声をかけてくれたのは、孫のルネを抱いてソファに座る義父アーサーだった。義母でなかったことにルイーズは少し安心する。
「はい、お義父様。ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「まだ無理はしちゃダメだよ」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます」
「――いつまでそこで立っているの?」
聞こえてきた高飛車でキツい声にルイーズは無意識に体が硬直した。声を聞いただけでじっとりと冷や汗が吹き出る。
アーサーの隣に座るイビリーナがミシェルを抱いて、眼光の鋭い瞳で真っ直ぐに嫁のルイーズのことを見つめていた。
「早く座りなさい」
「も、申し訳ございません……失礼いたします」
対面のソファに座り、彼女は気づく。人見知りが激しいルネとミシェルが一切泣いていないのだ。むしろ心地よさそうに祖父母の腕に抱かれて、うつらうつらと眠りかけている。
「わたくしたちが赤子を抱き慣れているのがそんなに不思議かしら?」
「あ、いえ、そんなわけでは……」
「わたくしたちは5人も育て上げたのよ。これくらい当然よ」
「でも、久しぶりだから少し戸惑ったよね、イビリーナさん。やっぱり赤ちゃんは可愛いなぁ。子供たちが小さかった頃のことを思い出すよ」
「お義父様も抱っこがお上手ですね」
「まあね。いろいろあったから」
前辺境伯の当主であるアーサーの抱っこは、新米ママのルイーズよりも上手かもしれない。
温和な彼は一層朗らかに表情を緩めて孫を可愛がり、
「孫はもっと可愛いね。そう思わないかな、イビリーナさん?」
「その言葉はもう何度目ですか、アーサー。いい加減、聞き飽きました」
「だって本当に可愛いから……あー、よしよし。ジィジの腕の中で眠っていいんだよー、ルネー」
「ミシェルはもう眠っていますのでお静かに」
「やっぱりバァバには敵わないなぁ」
「わたくしのことをバァバと言わないでくださいまし! 自分で言うのは許せますが、人に言われたくありませんの! 特にアーサーには!」
「えぇー? そうかな? バァバも可愛いと思うよ?」
イビリーナもさすがに孫の前では優しくて静かな声であり、そのことにルイーズはホッと安堵する。
息子と娘、イビリーナにとっては孫たちを拒絶されるのではないかと気が気ではなかったのだ。
自分が嫌われるのはいい。いくらでも嫌って構わない。でも、ルネとミシェルだけはヴァロア辺境伯家の一員として認めて欲しかった。
この様子ならルネとミシェルは認めてもらえたらしい。
「あっ! ミルクの時間!」
「大丈夫だよ、ルイーズさん。ボクたちが飲ませておいたから安心して」
「え? あの、ありがとうございます……」
「ルネは首が座ったばかりと聞いていていたのにもう寝返りしているんだね。コロコロ転がって目が離せないでしょ?」
「そうなんです。もう元気いっぱいで」
「ミシェルは甘えん坊さんね。誰かがついていないと泣いてしまうみたい」
「メロメロになったバァバも可愛かったよ」
「黙らっしゃい!」
甘えん坊で特に人見知りが激しいのがミシェルだ。しかし、今の彼女はほぼ初対面の祖母に抱かれて気持ちよさそうに眠っている。
母親であるルイーズが抱っこしてもここまで大人しく寝ることはない。やはり経験の差なのかなと思う。
それから少しして、夕食の準備が整ったことを侍女が報告に来る。
眠っている双子をベビーベッドに寝かせ、ルイーズたちは食堂へ移動。イビリーナたちがやって来たこともあり、いつもよりもさらに豪勢な料理がテーブルに並ぶ。
貴族の辺境伯家に相応しい夕食である。
「お義父様、お義母様、ぜひお召し上がりください」
料理人たちが丹精込めて作った美味しそうな料理の数々。湯気とともにゆらりと立ちのぼる食欲をそそる良い香り。今日のメインディッシュは、子牛のヒレサイコロステーキだ。
しかし、まだ体調が万全ではないルイーズには、美味しそうな匂いが不快な異臭にしか感じられなかった。再び吐き気が込み上げてくるのがわかる。
状態は『つわり』に近い。体が特に肉を受け付けない。
「いただきます……」
でも義両親の前だから、と半ば無理やり口に押し込む。
口の中に広がる濃厚なソースとジューシーな肉の味。美味しいはずなのだが、ねっとりと纏わりつく油に体が拒否感を訴え、ほんのわずかな肉の獣臭さや血の味まで鋭敏に感じ取ってしまい、猛烈に気持ち悪い。柔らかい肉の感触も、今の弱ったルイーズにとっては弾力のあるゴムに等しく、何度咀嚼しても噛み切れない。
吐き気を堪えてなんとか呑み込み、さっきから一口も手をつけない義両親にルイーズは作り笑いを懸命に浮かべる。
「美味しいです……」
「……貴女、いつもこんな料理を食べているの?」
「はい。もちろんです。お義父様とお義母様がいらっしゃったので、多少豪勢ではありますけど……」
「――下げなさい」
「え? お義母様……?」
「聞こえなかったのですか? 料理を全部下げなさい。今すぐにっ!」
イビリーナが高圧的に使用人たちに命じる。
ビクッと恐怖で震えた使用人たちは、ルイーズの顔色を窺いながら前辺境伯夫人の命令におずおずと従う。
「お、お義母様……?」
「アーサー。この場は任せます」
「うん、わかったよ。行ってらっしゃい、イビリーナさん」
ルイーズの呼びかけには答えず、怒気をまき散らしながら立ち上がったイビリーナは、颯爽と食堂を出ていく。
残されたのはルイーズと義父アーサーだけ。
義母が出て行ってようやく彼女はハッと我に返る。
「あ、あの、お義父様、私に何か至らぬ点があったでしょうか……? お義母様があんなにも怒って……私は、私は……!」
義母イビリーナを怒らせてしまった。失望させてしまった。でも、何が原因かわからない。
もう訳がわからず、ポロポロと涙を流し始めるルイーズ。
懸命に隠していたけれど、さすがにもう無理だ。精神が限界。心が軋む音とともに涙が溢れて止まらない。
アーサーは、ひたすら嗚咽を漏らす彼女の頭を撫でながら優しい声で慰める。
「落ち着いて、ルイーズさん。君は可愛らしくて素晴らしいお嫁さんだ。驚くほどよくやっているよ。自信を持っていい。誇っていい」
「でも、でもぉ……! お義母様は私のことを嫌っていらっしゃるから……ご期待に応えられるようにと思っているのに、私は何もかも全然ダメで……拒絶されて……うぅっ……!」
「あちゃー。少しイビりすぎたかな? もともとイビリーナさんは誤解されやすいし……」
困った様子で頭を抱えたアーサーは、何やら一人で頷き、
「ボクの可愛いイビリーナさんがこれ以上誤解されるのはよくないね。うん。もうそろそろいいか。ボクの判断でネタバラシするとしよう」
「ネタ……バラシ……?」
「ルイーズさん、歩けるかな? ちょっとついてきて欲しいところがあるんだ。無理にとは言わないよ。立てないなら車椅子を用意させるけど」
「いえ、歩けます。でもどこに……?」
涙で濡れるルイーズは、上手にエスコートする義父に問いかけると、彼はニッコリと笑う。
「もちろん、イビリーナさんのところだよ――」
到着した先は、食堂から近い屋敷の厨房だった。
厨房から漂う混ざった料理の匂いに吐き気が込み上げてくるものの、ルイーズは己の足でしっかりと立つ。
義父アーサーは、体調が悪いルイーズに配慮してか、厨房の中に入るつもりはないらしい。出入口近くで口に指をあて、静かにするようシーッと合図をする。
すると中から料理人たちを叱りつけるイビリーナの高圧的な声が聞こえてきた。
『――産後の一番大切な時期にあのような料理を出すなんて、一体何を考えていますのっ! ルイーズの体調が悪いと報告が来ているはずです! なのに豪勢なコース料理にサイコロステーキですって? いい加減になさいっ! それでも誇りあるヴァロア辺境伯家の料理人ですかっ!? 辺境伯家の格式や見栄なんかよりも、産後間もないわたくしの可愛い可愛いルイーズに栄養を取らせることを最優先すべきでしょう!?』
「お義母……様…………?」
<次回『第4話 嫁イビリの真実』>
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