第2話 嫁イビリ


「――嫁イビリ、ですか……?」


 突然の嫁イビリ宣言に困惑したルイーズは思わず聞き返してしまう。

 そもそも嫁イビリとは前もって宣言してから行なうものだろうか。予想だにしなかった来訪の内容に目を瞬くばかりだ。

 そんな彼女は、パチンッと勢いよく畳まれた扇子の音で我に返る。


「ええ、嫁イビリよ。ヴァロア辺境伯家は代々嫁イビリ、婿イビリを行なうのが伝統なの。わたくしも義母から受けた仕打ちをそっくりそのまま貴女にやり返すつもりだから、そのつもりで」

「な、なぜ……」

「なぜ嫁イビリを貴女にするのかって? したいからに決まっているでしょう? 八つ当たりよ、八つ当たり。わたくしがされたからやり返す、ただそれだけのこと。アハハハハッ! この日が来るのをずっとずっと楽しみにしていたの……ようやくわたくしも嫁をイビれるわ!」


 声と瞳に歓喜を滲ませて、義母イビリーナは悪辣に笑う。

 今なお語り継がれる社交界の悪女らしい邪悪さと傲慢さだ。


「この世は理不尽だらけなの。違って?」


 次期皇后と言われながらも半ば追放されるような形で辺境に追いやられた、かつて絶大な権力を用いて理不尽を振りかざし、そしてその身に返ってきた女性の言葉には、ルイーズには理解できない重みと苦しいほどの説得力があった。

 血のように赤い唇を吊り上げる義母の鋭い眼光に射竦められ、ルイーズの体がビクリと震える。


「っ!?」

「では、早速嫁イビリを始めるとしましょうか――」


 ソファからゆったりとした動作で優雅に立ち上がったイビリーナは、ルイーズの全身を品定めするように、正面、側面、背中、頭のてっぺんから脚のつま先に至るまで露骨にジロジロと観察する。


 今日の義母の装いは、動きやすい乗馬服に似た質素で飾り気のないパンツスタイル。しかし、醸し出す覇気に似た威圧感は健在だ。豪奢なドレスよりもこういうシンプルな服装のほうが、恐ろしさと美貌が際立つとルイーズは思う。


 義母からの視線を受けて、ルイーズは極度の緊張と怯えで吐き気を覚えていた。

 ただでさえ育児疲れで体調が悪かったのに、さらに姑からの詳細なチェックに心身が悲鳴を上げている。


 近くで見られれば、辺境伯夫人にあるまじき姿であることは一目瞭然だ。どんなに取り繕っても、社交界の花だった元公爵令嬢にして前辺境伯夫人の慧眼を誤魔化せるはずがない。


 内心のあれこれや吐き気を決して表に出さず、毅然とした立ち振る舞いをできていたのは、もはやほとんど意地だった。夫への愛と義母に負けたくない、認めてもらいたい、という想いだけでルイーズは立っている。


「香水をつけすぎね。酷く匂うわ」


 しかし、そんな彼女へとイビリーナは容赦ない言葉を浴びせかける。

 間髪入れずイビリーナは閉じた扇子の先でルイーズの顎下を持ち上げ、


「化粧が濃い」


 次に扇子でドレスを撫で、


「ドレスが合っていない」


 その次はルイーズに視線を向けたまま扇子で靴を指し、


「このヒールはなんなの? 他に靴があったでしょうに」


 そして最後に、愛する夫にプレゼントされたお気に入りのイヤリングやネックレスを扇子で揺らし、


「極めつけはこれらのアクセサリー……どういうつもり? 貴女本当に跡継ぎを生んだヴァロア辺境伯家の夫人の自覚はあるのかしら?」


 ことごとくダメ出しを受け、否定されたルイーズは、今にも泣きたい気分だった。

 ヒビが入りかけていた弱った心に、ピシッと決定的な割れ目が広がったのを彼女は自覚する。

 予想以上に義母からの嫁イビリは堪えた。


「申し訳ございません……」

「別に謝る必要はないわ。どうせこうだろうと思っていたもの」


 とことん呆れ果て、はっきり落胆されたほうがまだ良かったかもしれない。

 ルイーズは義母イビリーナに期待すらされていなかった。

 その事実が弱っているルイーズに深々と突き刺さる。


「も、申し訳ございません……お義母様……」


 再度謝罪しようと頭を下げた次の瞬間、猛烈な眩暈と吐き気に襲われ、ルイーズは倒れ込んだ。


 吐き気を堪えようとしても体が言うことを聞かない。過度なストレスに侵された体が勝手に拒否反応を引き起こして、お腹の奥から胃を押し上げてくる。


 得も言われぬ強烈な気持ち悪さ。しかし、吐けるものは胃の中に何も入っていない。せいぜい少し飲んだ水くらいだ。酸っぱい胃液が混ざった水を何度も何度も吐き出す。


「ゲホッ! う゛ぇっ! おぇ゛っ!」

「大丈夫。大丈夫よ。我慢しないで全部吐き出しなさい、ルイーズ……」


 苦しさと気持ち悪さに占められた意識の片隅で、ルイーズは義母イビリーナの優しい声を聞いた気がした。


 己の背中を撫でるの手がとても温かくて安心する。


 吐しゃ物にも物怖じせず、寄り添ってくれている温もりが心地よくて、吐き気が薄れていくのを感じる。


 眩暈と吐き気に襲われたルイーズが床に激突しなかったのは、咄嗟にが抱き留めてくれたからだ。


 そのというのは、半ば意識朦朧とするルイーズにはわからない。でも、とても優しい人だというのは考えるまでもなく理解できた。


「――誰か! 今すぐ水を持ってきなさい! リンゴジュースも用意しておいて! そこのあなたはお化粧落としと湯浴みの準備! あなたはベッドを用意しなさい。子供部屋から離れた部屋に。そして、お風呂でもトイレでも眠っていても、常に複数人でルイーズを見守りなさい。決して目を離してはなりません! これはわたくし、イビリーナの命令です。5分以内にすべての準備を整えなさい!」


 恐ろしいほど強い口調で使用人たちにテキパキと命令する義母の声を聞きながら、ルイーズの意識は暗い闇の中に沈んでいった。




<次回『第3話 ネタバラシ』>

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