終色
健やかなるときも病めるときも、汝、隣人を――
新しい朝が来た。十六歳になって、もう一週間が経つ。
いかに誕生日が特別な日だろうと、一日は一日だ。過ぎ去っていく時間は変わらない。
そう、あの一日は終わったんだ。
今思い出しても濃い一日だった。ミルクで薄めたいぐらいに。
でもその分、充実した日になったと思う。
一日で危ない橋を何本も渡った気がするが、こうして今日を迎えられたのだからもう充分だ。
「行ってきます」
通学バッグを手に俺は門の前に立ち、家の中に声をかける。
「おう」
居間から新聞越しにぶっきらぼうな返事が返ってくる。十六歳になったところでこの朝のやり取りは変わらない。きっとこれからもずっと続くことだろう。
「おはよう」
「おっはよう!」
玄関先で左側から二通りの声がかけられる。一つはおなじみの
「おはよう」
俺は手を上げて二人を見る。風の肩に手を回したまま花魚さんがひらひらと手を振り返す。
変わったことと言えば、風が花魚さんの隣に引っ越してきたことだ。
風は今、花魚家を挟んで俺の家の反対側に住んでいる。花魚さん家の右隣がうちで、左隣が風の家だ。しかもなんと一軒家に一人暮らし。ちょっと憧れてしまう。
「花魚さんの監視が
風は肩の上に載せられた花魚さんの手に、自分の手のひらをぎゅっと重ねていじわるく微笑んだ。
「私がそばにいないとこの子が寂しい寂しいって言うからー」
「言ってまーせーんー!」
ぶんぶんと首を振る花魚さんの動きにつられて、飴色の長い髪がなびく。からかっている風は楽しそうだ。たとえ前世のことだとしても、やっぱり親子と暮らすのはいいことなのだろう。
「あ、引っ越しそばなんだけどさ」
ぐわんぐわんと大きな娘に揺らされながら風はいつも通りのトーンで話す。
「そば? いや、いいよそんな気ぃ遣わんで」
「いやいや、違くて。食べたいから今夜うちに作りに来てくんない?」
「お前が食うんかい!」
じーちゃん、とんでもないやつが隣の隣に引っ越してきましたよ。
「ま、何はともあれ、これで私も花魚さんのお隣さんだかんね。よろしくね、
「ああ、よろしく」
ざるそばにするかかけそばにするか考えていると、後ろから誰かが駆け寄ってくる気配がした。ので、しかたなく振り返る。
「よっす! おはようさん」
朝っぱらからテンションの高い
「おはよう」
少しだけ面食らいながらも、上げられていた明次の手を軽く叩く。ぱん、と小気味のいい音が爽やかな朝に鳴った。
「花魚さん、おはようございます! あと
「おはよう、明次くん」
「おはよー。私はついでか」
花魚さんと風は明次に視線を向ける。
そして、明次は花魚さんに向けてもう一度挨拶をする。
「おっはよう、サキ!」
正確には花魚さんの内にいる友だち、紫の魔剣ディスパー・プルトーに。すると、花魚さんの体の中から凛としたソプラノボイスが返ってきた。
「おはよう、わが友よ。だが拙者は二度寝を所望する」
「そうか! じゃ、俺ら学校行ってくるから、花魚さん切ったりすんなよ?」
「それはこの女次第だな」
くあ、と意外にかわいらしいあくびをしてから、紫の剣は再び花魚さんの中で眠りについた。寝心地よさそうだなー。ちょっとだけ、いやだいぶ羨ましいぞ。
「ていうか明次、お前ん家は学校側だろ。ここまで来たら逆に遠回りじゃないのか?」
「いーんだよ! サキを一人ぼっちにさせないって約束したからな!」
と言いつつ、明次はちゃっかり花魚さんの隣に並んで立っている。
「俺がいる限り、サキに花魚さんのきれいな肌を傷つけさせやしませんよ!」
どんと胸を叩いた明次は、力加減を間違えたのかそのあと思いっきりむせ込んでいた。いい気味だ。
「まあ、でも、やっぱお前もいないとな」
「だろ?」
俺の独り言をちゃっかり聞きつけた明次は口の端を持ち上げる。耳ざといやつめ。恥ずかしいじゃないか。
「ほらほらみんな、遅刻しちゃうよ?」
「ならこの手を離してくださいよ花魚さん」
俺たちに呼びかける花魚さんだが、当の本人が風にべったりじゃ説得力がない。名残惜しそうに風を解放した花魚さんは、家の前の塀に立てかけていた箒を手にして俺たちに温かい眼差しを向けた。
「じゃあみんな、行ってらっしゃい。待ってるからね」
その様子を見た俺と明次と風は顔を見合わせ、花魚さんに笑い返す。
「行ってきます」
自然と三人の声は重なった。
俺たちは歩き出す。学校に行くために。そして、放課後に花魚さん家でお茶を飲むために。いつだって、この足は明日に向かって歩くんだ。
「おい、三歩」
と、そこへ後ろから呼び止める声がする。足を止めて振り向けば、じーちゃんが玄関先に出てきていた。
「あー、その、なあ」
じーちゃんは珍しく何かを言いあぐねているかのように頭をがしがしと掻いて、それからようやく口を開いた。
「今度、菓子の作り方教えてくれ。できれば緑茶に合うやつを。そんで、茶でも飲もうや」
「……ふふっ」
まるで初デートの誘いのような緊張が伝わってきて、俺は思わず吹き出してしまった。ほんと、あんなに強くて頼りになるのに、とことん不器用だな。
俺はじーちゃんに親指を立てた。
「今日、帰ってきたら一緒に作ろうぜ、じーちゃん」
「ああ、気ぃつけてな。なんかあったら俺を呼べ」
「わかったよ。じゃ、行ってきます」
「おう、行ってこい」
挨拶を交わすと、じーちゃんは家の中に引っ込んでしまった。これからまたちゃぶ台に座って新聞を読みふけり、緑茶をすすって一日を過ごすのだろう。
ただそれだけの時間が、今までは俺にとっては無色の日々に見えた。けど、じーちゃんにとってはちゃんと色のついた、実りある時間なんだ。
当分ボケる心配もない。なぜなら花魚さんのお茶会で、毎回必ずトラブルが起こるに決まっているからだ。
花魚さんの掃いた緑色の葉っぱが五月の風に吹かれて、学校へ向かう俺たちの前にひらりと舞う。それは手のひらの形をしていて、俺たちを陽気に見送っていた。
さあ、今日のティータイムが楽しみだ。今日はいったい何色の一日になるだろうか。
花魚さんのお隣さん 二石臼杵 @Zeck
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