春の海で風を受けながら考える何かと誰か

坂原 光

春の海で風を受けながら考える何かと誰か

 強く吹いていた風が止まって砂浜から飛んでくる砂が窓に当たる音が消えた。カーテンを小さく開けると曇り空の下、随分と静かになった波が砂浜に静かに寄せている。


 こんなに短い時間でも、見える景色は変わるものなんだな。荒々しい波と強い風が吹く冬の海も好きだけれど、春の海も穏やかでいい。夏は人が多すぎて、人のいない海が好きな僕には居心地が悪い。なんだか、知らない場所のように感じる。


 携帯電話と財布を持って部屋を出る。平日ということもあり、宿泊客は少ないらしい。宿を出て、道路の左右を見る。誰も来ないことを確認してから渡り、目の前にある砂浜に降りていく。さっき窓から見えた時と同じように波は静かで、絶えることなく寄せては返している。


 僕はしばらくそんな海を眺めていた。誰もいない夜の海を。春とはいえ、まだ夜は冷える。いや、春だから、夜は冷えるのだろう。上着を着てこなかったことを後悔したが、しばらく、こうして海を見ていたかった。


 どうして海には、こんなにも人の心に訴えてくる何かがあるのだろうか? 僕はやっぱり海を見るのが好きだ。こんなに僕が海に惹かれているのは、単純に今、そういう気分だからなのだろうか? それとも?


 出るはずの無い答えを考えていたが、流石に寒くなってきたので部屋に戻ることした。海のすぐそばの旅館、僕は一人でここに来ている。本当なら、彼女と二人でここに来るはずだったが、どういう事なのか、僕が一人で泊まりに来ることになってしまった。


 彼女とは、喧嘩をしたわけでもなく、些細なことで言い合いになったわけでもない。ただ、いつもと同じように会って、二人の時間を過ごしたというだけ。でも、次の日に来た連絡には、『旅行には行けません』とだけ書かれていた。それがどういう意味なのか、僕は、彼女(だった人)に聞く勇気はなかった。多分、僕がそれを一番分かっていたからだろうと思う。



 部屋に戻って、窓の外から海を見る。小さく、切り取られたような海岸。でも、その先はどこまでも繋がっているんだ。そんなこと、今の僕にとっては何の助けにならないけれど、そういうことこそ、今の僕には大切なのかもしれない。


 受けとれること、認めること。僕は窓際の椅子に腰かけて、暗い海の先を眺める。冷蔵庫から買っておいた氷を取り出して、ウイスキーをグラスに注ぐ。僕は普段はあまり酒は飲まないのだけれど、今日はどうしてか荷物に入っていて、気が付けばそれを手に取っていた。


 現実逃避? 違うだろう。だって、逃避すべきものなんて何もありゃしないんだから。



 グラスに入れた量が減っていき、氷は解けて、夜は更けていく。何をするでもなく、ただ、窓から暗い海を眺めていた。不思議と、楽しかったことだけが思い出されてくる。どうしてだろう、付き合っている時はそんなこと、ろくに思い出さなかったのにな。



「ねえ、浩司くん」

 浩司とは僕の名前だ。生まれた時からずっとついて回っている僕の名前だが、彼女が呼ぶとその名前に色が付く気がしていた。良い大人がこんな中学生みたいなことに感動するのは可笑しいか? でもしょうがないよな、それは僕にとっての本気だったんだからさ。恋愛という魔法、現実というマジック。


「なに?」

「浩司君が、小さかったころってどんな子供だったの?」


「小さい頃って、どのくらい?」

「どのくらいでも、浩司くんが、そう思う頃」


「そう言われてもな……。普通の、よくいる子供だったよ。でも、もし自分に子供ができたとしたら、ああはなってほしくはないな」

 彼女はそれを聞いて笑った。

「……そうね、そういう未来もあるのかもしれないね」



 これはいつの記憶だったろう? 二年前、いや一年くらい前か。もしかしたらこういった会話にも今の状況が示唆されていたのかもしれない。気が付かなかった僕が間抜けなのか。


 この間、彼女と最後に会った時だって、感覚としてはこんな感じだったはずだ。でも、この時と最後とでは、何かが決定的に違っていたのだろう。あの時も、確か海が見えるところに行ったはず。公園か港か。どちらだったのかな……そういう、忘れてしまったことにきっと……。いや、もういいだろう。


 べっこう飴のような色、綺麗な液体の入ったグラスを傾ける。……カラン、と氷がグラスに当たって鳴る。まるでさっきまでの、砂が当たる窓ガラスみたいに。



 そういえば、こんな話もしたな。

「海と山、どちらが好き?」


 僕たちは都内にある公園で、ベンチに座りながら大きな池を眺めていた。お互い休みを取ってここで待ち合わせた。昼時ということもあり、周りは平日にしては沢山の人達で溢れている。スーツを着ている人たちは多分サラリーマンだろう。僕と同じ。そのほかの人達は何をしているのだろうか。学生か、それとも……。子どもを連れた人達は、とても幸せそうに見えた。そんな一時に彼女が僕にそう聞いたんだ。


「そうだな……海かな」

「私もそう……」


 そんなささやかな会話でさえ、僕たちにとってはきっとプラスだったに違いない。僕たちは二十五歳の時に出会い、そして僕が二十八になる前に別れた。純粋に恋愛を、恋愛として出来ることなんて、もうないのではないかと、そんなことを考えてしまった。



 ピッと、デジタル時計の音がした。鞄に入れておいた、普段使っている自動巻きとは別のデジタル時計が時刻を示している。今日は昨日になり、明日が今日になった。ウイスキーはまだボトルに半分残っている。


 グラスの氷はもう溶けてなくなってしまった。僕たちが、過ごした時間の様に。グラスをテーブルに置いて、窓を開ける。……波の音が響く。海はどうして……これはずっと思っていたことだな。それも彼女の台詞だったか。思い出せない。


 ぼやけた頭を抱えたまま、敷いてある布団に滑り込んだ。僕の思い出も、夢までは入ってはこれやしないだろう。眠る前に、誰かの声が聞こえた気がした。



 窓からの朝日で目が覚めた。……どんな夢を見たのかは覚えていなかった。昨夜と同じように携帯電話と財布を持って部屋を出る。道路を渡ってまた海に行く。昨日と同じように見えて全く違う海に。多分、僕だって昨日とは少し違っているはずだ。


 穏やかな海を眺めている時くらい、普段の僕を忘れたっていいだろう。日差しが暖かい。すぐにまた新しい季節が始まるだろう。春が去って夏が来て……今は、会社もこれからの人生も、そして今まで出会って別れてしまった人達だって何も関係が無い。ただ、そこにあるだけ。そして僕が今ここにいるだけだ。それだけなんだ。



 どれくらいの時間そうしていただろうか。そろそろ部屋に戻って帰る支度をしようかなと考えた時、僕の耳に誰かの声が届いた。……これは夢か? それとも現実か。声のした方を向くと僕と同じくらいの年齢だと思われる女性が立っていた。


「昨夜もここにいらしてましたよね?」

 僕は頷く。


「海が好きなんですよ、夜も昼も、嵐の時だって、そうです」

 僕が、自分の声とは思えない声でそう言うと、その人は柔らかく微笑んだ。

「私もです」


 そう言うと、彼女は真っ直ぐ海の先を見つめた。僕も同じところを見てみた。相変わらず海しか見えない。でも、それでいいんだ。僕は何かを言おうと思ったけれど、どうしても言うべき何かを見付けることが出来なかった。大事な時に大事なものはいつも見つからない。今までもそうだったし、これからもきっとそうだ。

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