ep.077 天使の囁き

 夜明けは少しずつ早くなって、夕暮れは少しずつ遅くなっていく。それでもまだ、木々は固く凍り付き、葉の代わりに氷柱つららをぶら下げている、そんな季節。ライとナタリアの生まれた帝国の、長い冬。


 しんしんと身体の奥底まで染み入るような寒さに、自然とナタリアは身震いをした。解いていた赤茶の髪がそれで震える。は、と冷えた部屋の中で息を吐いた。流石に息が白くなるほど暖房設備は死んでいないけれど、身体が温まるまでは滑らかな動きはできないだろう。


 ライの眠っている寝台の横、壁に背中を預けて一晩。ついと視線を向ければ、ライは昨日と変わらない姿でそこにいる。向かいの、ごわごわとした灰色のソファにはエルザがうつぶせになって倒れていた。くすんだ金色の髪があっちこっちに広がって、モップみたいになっている。エルザがいつも持ち歩いている銀のアタッシュケースは開いたまま、毛羽立っているカーペットの上に置き去りだ。ぎゅうぎゅうに押し込められていた包帯が転がり落ちていた。


 ナタリアはゆっくりと立ち上がる。音はない。気配もない。肩から赤茶の髪がするりと流れた。寝台のすぐ隣にある窓を覗くと、薄明の街がそこにある。


 石を積み上げて作った家々は淡い藤色に包まれて、目を覚まそうとしている。朱鷺とき色に染まる方が東。差し込み始めた朝日に細氷が煌めき出す。小さな小さな金剛石の輝きが、零度を優に割った空気を満たす。そう、これが帝国の冬の朝。


「きれい」


 ライから教わった言葉を呟く。口にするのならこの瞬間だろうと訳もなく思ったから。囁きほどの音量ではあったけれど、声にすればすとんと腑に落ちた。きれい、という言葉はきっとこの景色に相応しい。


 背後でしゅるりと布団が動く音がした。振り返れば、ライが寝台から降りようとしている。胸は包帯でぐるぐる巻きになっていて、折れている右足は木に固定されているというのに。


「ライ、だめです。動かないでください。あなたは身体に大きな損傷を受けたのですから」


「少しだけでいい、窓から外が見たいんだ」


 藍の瞳が輝いていた。夜空の中で星が騒いでいるような輝き。真っすぐで綺麗なその目を、ナタリアはずっと探していた。


「なぜですか?」


 氷輪を砕いたような銀の髪を持つ青年がふわりと微笑んだ。


「君が、きれいだと言った景色を俺も見たいんだ」


 ナタリアは琥珀の目を見開く。ライが見ているものをナタリアも見たいと思うのと同じで、ライもまたナタリアの見ているものを見たいと思っているのかもしれない。


 手を伸ばす。ライの脇下を支えるように手を添えて力を入れる。一瞬ライの身体が強張った。本来なら立ち上がることさえできないはずの怪我だ。いくら暗殺人形として研がれた身体であろうと、無茶をしていることに変わりはない。けれど、ほんの一歩だけ、とライの望みをナタリアは叶えることにした。


「……綺麗だ」


 ライが溜息と一緒に呟いた。朝日の中で細氷はやっぱり煌めいている。中空に縫い留められて、きらきらと。時が止まってしまったようにすら思えるほど、静謐に何もかもが動きを止めていて。窓の外は別世界のようだった。それでも、何よりも輝いているのはライの顔だとナタリアは思った。


「ライ、もう寝台に戻るべきです。エルザに怒られてしまいます」


 と、ライの返事を待たずにナタリアはライを寝台に放り込んだ。ライは寝台でしばらくの間、目を閉じたままでいた。先の景色を目に焼き付けようとしているようでもあるし、数十秒しか景色を見ることを許されなかったことを不服に思っているようでもある。


「帝国なんだな、ここは」


 ぽつりとライは言う。国境を越えたとき、ライは気を失っていたのだった。けれど、レンガ造りの家ばかりの共和国と、石造りの家ばかりの帝国では、街並みを構成する色から違う。


「はい。デアグレフに来ています」


 そうか、と頷いて、ライはナタリアを手招いた。そして、もっと近寄るよう促す。指示の通りに身体を動かせば、ライの右手がナタリアの髪に触れる。確かめるように、結われていない赤茶の髪を梳いて、それからナタリアの手を握った。義手ではない方の手だから、温かい。


「……ナタリア」


「はい」


「ナタリア」


「はい。わたしはここにいます、ライ」


 そう言うとライは安心したように微笑む。あどけない少年のような笑顔だった。


「ずっと、君に会いたかったんだ。君がいないと、胸がすかすかしているようだった」


「わたしもです。何かがずっと足りていないような感覚がありました。ですが、今あなたを見て、言葉を交わして、足りなかったものがやっと埋まったようでした」


 ライの言った感覚がナタリアの感じていたものとよく似ていたから、思わず言い募る。とっくにナタリアはライのものだった。ライの命令だけを聞いていたい。使徒をつくったディエゴ・マクハティンではなく、暗殺人形をつくったアリアでもなく、ナタリアを壊したライがよかった。だから。


「間に合ってよかったです。リュエルの指示がなければ、わたしは──」


 リュエルに呼ばれなければ、今頃ナタリアはライの亡骸を抱いていたことだろう。もしも、そうであったのなら、ナタリアはどうしていたのだろう。起こらなかった事象について思考することは非効率的なことだと理解していたけれど、どうしようもなく考えてしまうのだ。


「また君に助けられたよ。ありがとう」


 ナタリアの意味のない思考を断ち切るようにライはそう言った。


「わたしは、ただ、命じられたように動いただけです。それに、アルバ大尉も逃がしてしまいました」


 アルバ、という名を聞いたとき、ライの顔が強張った。


「傷が痛むのですか?」


 エルザを起こそうかと視線で問えば、ライは首を横に振る。ナタリアの手を握る右手に力がこもった。


「……いや、違う。身体の痛みに俺たちは鈍い、そうだろう?」


「はい、暗殺人形はそのようにつくられていますから」


 ならば、ライはどこを痛めたのだろう。ナタリアは昨日のエルザとの会話をふと思い出す。あのとき、つきりと痛んだのは胸だった。


「こころが、傷を負ったのですか?」


 ライは目を大きくした。鋼鉄の左手を胸に当てれば、鼓動がある。アルバに心臓の真横を撃たれた。けれど、治療を施されて後は傷が塞がるのを待つばかり。時が経てば、肉体に刻まれた傷は消える。そのはずなのに、この痛みは消えそうにない。失ったものは何もないはずなのに。


 違う。


「……そう、か。俺は──、アルバを失ったのか」


 ライの知っていたアルバス・カストルは初めからいなかった。どこにも。


 アルバの裏切りは弁明の余地もないほどに明らかで、アルバは明確な殺意を持ってライを撃ったことも事実だ。それでも、ライはアルバを憎むことも恨むこともできない。まだ信じたいとでも思っているのか、この心というものは。


 あるのは、むしろ、ライに笑うことを覚えろと言いながら、レグルスが目の前で死んでいったときに感じたものと同じ感覚。冷たい水に沈んで溺れていくような、空虚で苦しいもの。痛くて、痛くて、胸が空っぽになっていく情動。


 その感情にライはあの日、名前をつけたのだ。


 ──悲しい、と。


 ライが感情の名前を呟くのをナタリアは聞いた。予想していた怒りという名ではなく、それはあまりにも寂しい響きの名。朝焼けを浮かべる窓に目を向けるライの横顔から雫が伝い落ちた。


 ナタリアの呼吸が乱れる。こういうときにどういう行動を取ればいいのか、戦うことしか知らないナタリアにはわからない。わからないという事実が胸を締め付ける。息が苦しい。


「泣かないで、ください」


 ライは虚を突かれた表情をした。


「俺が、泣いている?」


 はい、と頷く。ライは恐る恐る自分の顔に触れて、息を呑んだ。


「……ほんとうだ」


 ひび割れた声が痛い。ナタリアはライの頬に手を伸ばした。指先で流れる涙を拭って、けれど涙は止まらないから目を塞ぐ。ライのきれいな藍の瞳は哀しみに濡れているべきではなくて、さっきまでみたいに輝いているべきで。


「ナタリア、何も見えない」


「……昨晩、エルザが泣いているのを見ました。それだけでも胸が痛かったのです。ですが、ライが泣いているのはもっと胸が痛いのです。あなたが泣くのをわたしは、理由はわからないのですが、目にしたくありません」


 口にしてから、それがどれほどの我儘わがままであるか気がついた。武器であるナタリアが、主であるライに何かを望むなどあってはならない。この思考は武器らしくない。棄てなければ。ぱっと手をライの顔から離した。


「申し訳、ありません。武器であるわたしがこのようなことを──」


 謝罪とともに頭を下げようとする。しかし、その動きは逆に利用されて、気づけばライに頭を撫でられていた。


「嬉しい。君が俺をそんな風に思ってくれていたことが、すごく嬉しい」


 ライが笑う気配があった。思わずナタリアは顔を上げる。ライは目の端に涙を浮かべたまま笑っていた。笑うと傷が痛むようで顔をしかめたりしていたけれど、先ほどの哀しみは洗い流されていったようだった。それだけでふわりとナタリアの胸が軽くなるから不思議なものだ。


「うれしい、です」


 そう口にしてみる。ライがくしゃりと一際眩しくわらった。ナタリアをぎゅうと抱きしめて、ついでに傷の痛みに呻く。


「──ライ」


 絶対零度の響きに心なしか部屋の温度が下がった。モップみたいな妖怪がライとナタリアを爛々と輝く灰色の目で見つめている。訂正、モップではなくて寝ぐせでぐしゃぐしゃの頭をしたエルザだ。目の下に立派なくまをこさえたエルザは、不気味に唇を吊り上げた。


「ライ、何してるの? 怪我人は絶対安静よ? ベッドに縛り付けておくべきだったわねぇ……。久しぶりにナタリアに会えて嬉しいのは分かるけど、はしゃいじゃダメよ? 私の名にかけて許さないわ」


 にっこり。エルザの手には包帯とハサミとグレネード。共和国と帝国が恐れる天下の暗殺者、死神と死天使を、エルザは容易く黙らせる。ライがナタリアから手を離し、ナタリアはライから一歩離れる。そして、エルザはライの胸に巻かれた包帯の上からもう一度包帯をきつく巻き、言葉通りに丁寧にライを寝台に縛り付けた。


「……エルザ、……動けないんだが」


 おかげさまで天井しか見れなくなったライが呻く。ナタリアは何もできずに沈黙する。怪我をしているというのに動こうとするのは確かによくないことだ。今はエルザの方が正しいだろう、と判断する。けれど、ライの温もりが遠ざかってしまったことに物足りなさも感じてしまう。ナタリアは頭を軽く振って、武器には相応しくない考えを振り払った。


「ナタリアも、今回ばかりはライの命令を聞いちゃダメよ。包帯取ってくれとか言われたら、まず、私に報告すること」


「了解しました」


 踵を鳴らし、完璧な角度の敬礼をする。視界の端でライが目を閉じた。







 それからおよそ二十四時間後。


「たのもー! ひぃ、疲れた! ……ふぅ、ちょっと無理かも俺」


 などと騒ぎながら、灰色の髪に橙赤色の目をした中年の男がオンボロホテルに転がり込んできた。しばらく騒いでから電池が切れたように男はホテルのロビーで寝落ちし、したがってホテルの中でも一番安い部屋に放り込まれることとなった。隙間風の酷い極寒の部屋。男はそこでいびきをかいて寝ていたが、やがてのっそりと起き出して、反逆軍の本部となっている地下室へと迷わず向かった。


 寝台に縛り付けられたままのライを除き、反逆軍リベリオンのデアグレフ支部とリュエルたち亡命組の全員が揃う中、灰色の髪の男は自らの身分を告げる。


 ──自分こそが《茨の王スピーナ・レクス》の副官、ヨゼフ・マクシミリアンであると。







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