ep.076 こころの在処

 イリーナたちの姿が廊下の向こうに消えてしまったことを確認し、リュエルは薄っぺらい木の扉を閉じる。ふぅぅ、と重い溜息を吐き出しながら、毛羽立っているカーペットに座り込んだ。


「センパイ、お疲れっす」


 ルカが座り込んでしまったリュエルの頭をぺし、と叩く。そんな二人に落ちた影はエルザのものだった。


「二人とも、バーレイグの件って、何かしら? 説明してくれるわよね?」


 名前を出しただけで、反逆軍がざわめくほどの何かをリュエルがしたというのなら、それを知らずに反逆軍の元にはいられない。


「……確かに、エルザさんとナタリアには説明するべきですね」


 座り込んだまま、リュエルは静かに語り出す。


 殺戮人形によって危機に陥った反逆軍をルカを送ることで救ったこと。殺戮人形の探している相手は帝国ではなく共和国にいるとルカに伝えさせたこと……。


 偽らずに殺戮人形への伝言まで告げたのは、実際に殺戮人形と交戦したことのあるエルザは、ルカに殺戮人形を退ける実力がないことを知っているからだ。ルカが殺戮人形を倒したと嘘をつけば、容易く看破されることが見えていた。


 話を聞いているエルザの顔は険しい。ナタリアは窺うようにエルザとリュエルの間で視線を往復させた。


「……リュエル、それはつまり、あなたが殺戮人形を共和国に呼び込んだということ?」


 嵐の前の空のような灰色の瞳がリュエルの双眸を見つめる。ちり、と肌に触れる空気が放電したように思えて、ナタリアは手のひらを握り込む。



「っ!」


 はっきりと、リュエルは言い切った。そして、エルザの肩が跳ねる。


「……あなただったのね。あなたが、殺戮人形を共和国に呼び込んで、大勢を死なせた。カイルさんたちも大きな犠牲を払ったわ。私たちも戦闘に駆り出されて……」


 無謀な作戦に、第七七中隊のカイル・ウェッジウッドはライに手助けを求めた。手を組んで戦ったが、カイルは副官のロレンス・ガーデナーを失い、ライたちも怪我を負った。


「ねえ? あなたはそうなると知っていたの?」


 否と答えてくれ、とエルザは懇願するように尋ねる。それでも、立ち上がったリュエルの目は揺らがなかった。



「──っ! 知っていたなら、どうして──!」


 エルザのくすんだ金髪が揺れる。震えているエルザの前でも、リュエルはのっぺりとした表情を崩さない。


「ナタリアを取り戻すためです。そして、殺戮人形を葬る能力を有するのは、少佐とナタリアの二人だけだと判断したからです」


「現実は遊戯ゲームなんかじゃないのよ! 人は駒じゃない! あなたは──!」


 エルザの右手が風を切る。リュエルはまばたきもしないまま、泣き出しそうなエルザの顔を見つめていた。


 ぱしん、と乾いた音が響く。エルザの手のひらがリュエルの頬に届く前に、ルカがその手を捕まえていた。


「それはダメっすよ」


 ルカの言葉にエルザは目を大きく見開いた。ルカに掴まれた右手を呆然と見つめ、己が何をしようとしたかを遅れて理解をする。エルザの唇が戦慄わなないた。


「私は……、今……。ごめん、なさい……、今の私は、たぶんどうかしてる……」


 リュエルは萎れた微笑みを浮かべた。


「疲れているからですよ。気にしないでください。もう休みましょう」


 メッキの剥がれそうなドアノブに手をかけて、リュエルは部屋を出ていく。茶色の髪がふわりとリュエルの動きについていった。以前は肩口で切りそろえられていたリュエルの髪。今は肩よりも少し長い。ルカがリュエルを追っていなくなり、部屋にはナタリアとエルザと眠るライ、それから重苦しい空気だけが残された。


 エルザが虚空に伸ばしたままの手をぱたりと下ろす。口から出ていった言葉は決して戻ってこない。リュエルをなじる資格はエルザにはないのに。それどころか、窮地を救ってもらったことに感謝すべきなのに。


 リュエルは強くなった。けれど、エルザはいつまでたっても弱いままだ。


「エルザ、どうしたのですか?」


 エルザの顎から雫が伝い落ちていた。降り始めの雨のようにぽつりぽつりと落ちていく。目からこぼれていく雫の名前を、涙と呼ぶことをナタリアは知っていた。


「〝悲しい〟のですか?」


「……わからないの。でも、なぜかしら、涙が止まらなくて」


 人は悲しいときに涙を流すと聞いたけれど。分からない、ということなどあるのだろうか。人は皆、自分の感情の名前を知っているのだと思っていたけれど、違うのだろうか。


「エルザはなぜ、先ほどリュエルに対して怒ったのですか? リュエルの言葉はとても合理的なものだと思ったのですが」


「……ナタリア、それはね、リュエルのしたことでたくさんの人が犠牲になったからよ」


「ですが、殺戮人形はどこにいたとしても大勢を殺したでしょう。ならば、殺戮人形を殺すことのできるわたしとライの元に誘導する判断は正しいです」


 エルザはぎこちなく頷いた。


「ええ、そうよ。リュエルは正しい……。けれど、ね、私は、リュエルが仲間である私たちやカイルさんたちを危険に晒す真似をしたことが、許せなかったのだと思う」


 こんなのは私のエゴにすぎないのにね、と力なく微笑むエルザにナタリアの胸がちくりと痛んだ。


「……今、胸がわずかに痛んだように思います。これは、どういったことなのでしょうか。以前からそうしたことはありましたが」


 ナタリアは胸に手を当てる。血の一滴だって流れていないのに、確かに痛んだ。暗殺人形は痛みを感じにくくできているのに、この場所だけは柔らかいとでもいうのだろうか。


「医学的にも心がどこにあるのかは、まだ解明されていないの。頭にあるという人もいるし、胸にあるという人もいる。身体全体が心をつくっているという人もいるし、心は身体にはないという人もいる。でもね、私たちは嬉しいときには胸が躍るし、悲しいときには胸が痛むの」


 エルザもそっと胸に手を当てた。


「ここが私たちの心と大きな関係があるのはたぶん、本当。ナタリアの胸が痛んだのは、ナタリアに心があるからよ。でも、それがどんな感情から生まれる痛みなのかを私は教えてあげられない」


 なぜですか、と目で問いかける。


「私たちは私たち自身の心さえ分からない。まして、人の心なんて分かるわけがない」


「では、なぜ、人は分かり合っているように装うのですか? 分からないのならば、なぜ分かると他者に言うのですか?」


「なぜ、でしょうね……。決してすべて分かり合うことはできないと知っていても、どうしようもなく他者を知りたいと思う。言葉を交わして、分かったつもりになりたがる。それは、人のさがとも呼べるものなのでしょうね。けれど、私たちは自分自身を通してしか他者を見ることはできない。だから、勝手に裏切られたのだと思って感情をぶつけてしまうこともある。さっきの、私のように……ね」


「よく、わかりません」


 大切な話をされていることは理解している。けれど、掴もうとしても言葉が逃げていくばかりで肝心なことが理解できない。それはやっぱりナタリアが人ではないから?


「きっといつか分かるわ」


 そう言ったエルザはとても優しい顔をしていた。


「人は誰しも自分の心に生まれた感情に自分自身で名前をつけるの。だからね、ナタリアもこれからひとつずつ名前をつけていくのだと思うわ」


 微笑むエルザの目頭にはしわが寄る。涙が一雫転げ落ちていくのをナタリアは見た。悲しいときに人は泣くのだと聞いていたけれど、今のエルザの涙は悲しみから生まれたものではないように思えた。







 ナタリアたちの部屋の右隣。やはり薄い木の扉を開いてリュエルは中に転がり込んだ。明かりもつけずに倒れ込むように。


「は……ぁ……」


 掠れた息を吐いて、眼鏡の下に両手を滑らせた。目頭が熱くなって、鼻がつんとする。けれど、泣かない。泣かないように、深呼吸をして心を落ち着ける。隣にルカが座り込む気配があった。扉のすぐ横の毛羽立っているカーペットの上、明かりもつけずに背中を壁に預けて二人きり。何か言ってくるかと思いきや、ルカは一言も発さずにリュエルの隣にじっと座っていた。それがひどく心地いい。


 リュエルは息を深く吸って吐いて、一緒に思考を巡らせる。目まぐるしかったこの数日間を思い出していく。


 檻を壊して外へ出た。ナタリアの居場所をどうにか見つけて合流し、暗殺人形の出す速度に耐え抜き、本来なら移動だけで数日かかる距離を踏破した。そして、カイル・ウェッジウッドとの交渉と移動を敢行。最後は帝国までこうしてやってきてしまった。何もかも、《無名の魔術師アンシャントゥール》でなければできなかったことだ。


『そなたの頭脳は妾と同じものが見える』


 魔女ソフィアからの教え通りにほんの少し頭の使い方を変えただけで、リュエルの見る世界は一変した。先の先を見ることのできる類稀な才能。未来視ではないけれど、あらゆる情報を元に演算する結果みらいは限りなくそれに近い。けれど、誰よりも先を見ることのできる才を開花させたということは、もう二度と普通の人と同じものは見られないということだ。そんなリュエルを理解し得る人間は《智恵の魔女ミネルヴァ》だけ。今となっては何の意味もないことだが。


「……私は、間違えるわけにはいかないんだ」


 先を見ることができるのはリュエルだけだから。ここにある大事なものを守るためなら、計算ミスを招くような心も甘さも殺すべきだ。


「……センパイは、それでいいんすか?」


「え?」


 ぽつりとルカが呟いた。リュエルが棄てようとしているものにルカは気がついているようだった。


「今センパイが棄てようとしてるものを棄てたら、センパイはセンパイでいられるんすか?」


 拗ねているような、そんな声をルカはしていた。


「……でも、甘さで誰かを守ることなんてできない」


 リュエルがミスをすれば、今度は本当に誰かが死んでしまうかもしれない。次は間に合わないかもしれない。なら、間違わないようにしないと。大事なものを守るためならば、心をべるに値する。


「棄てないと。そうじゃなきゃ、強くなれない」


 ──本当に?


 そう囁いたのはリュエル自身か、それともルカか。リュエルは膝に顔をうずめた。眼鏡がぎゅうと顔に押し付けられて痛いけれど、構わない。


「センパイはボクたちのことを舐めすぎっすね。今までだってなんとかやってきたんす。それに、ボクたちはそこら辺の雑魚よりもよっぽど強いっすよ。むしろ、センパイの方がそこら辺の雑魚より弱いんすから、気をつけるべきっすね」


「そう、かな……?」


 そうっすよ、という返事はなぜだか深くリュエルの底に響いた。そうして、波のように強い眠気が打ち寄せる。何かを言おうとしていたけれど、落ちていく瞼には逆らえなくて。底なしの眠気に身体も意識も絡めとられていく。身体からふっと力が抜けた。


 顔をしかめたまま意識を失ったリュエルの顔をルカは暗闇の中で眺める。頭をそっと、リュエルの方に乗せてみた。寒い部屋の中なのに、リュエルの体温は随分と高かった。


「……あんたはどんだけ無理したんすか。ナタリアを特務から奪って、中隊まるっと連れてきて、反逆軍と交渉して。数日でやることじゃないんすよ」


 土気色の顔をしていることにさえ気づかないほどに追い立てられて、消耗して……。非情になることに向いていないのに、何でもできるフリをして虚勢を張っていた。このままでは、リュエル・ミレットは壊れてしまう。


 ルカはくたりと自身の肩に寄りかかっているリュエルを抱き上げた。全身から力が抜けてぐったりとしているせいで、腕にかかる重さが増すように感じられる。深く深く眠っているリュエルはきっと、ルカがリュエルを寝台に乗せたことには気がつかない。


 リュエルの規則正しい寝息を聞きながら、ルカは寝台の端に腰をかけて窓へ視線を向けた。部屋の方が暖かいせいで曇っている窓を。


「あんたは甘いままでいいんすよ」


 どうか、ルカたちのいるところまで堕ちて来ないで。どうか、何も棄てないで。






 ──ボクがあんたの代わりに手を汚すから。







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