ep.074 死の国
車の
リュエルが呼んだ第七七中隊はもう行ってしまった。壊れかけたフェンスの先は帝国領だから、共和国軍が足を踏み入れることはできない。
「こんな所まで、来てしまったわね……」
エルザはくすんだ金髪をなびかせ、フェンスの上から飛び降りた。雪片が舞うけれど、音は荒らされていない雪に吸い込まれて消えてしまう。そうして足を着けるのは帝国側。だからといって変わるものは何一つない。ただ、薄っぺらい感慨があるだけ。
「……いつかは、こういう日が来るとは思っていました。でも、実際に追われる身になると、やっぱりなんだか寂しいものがありますね」
と、フェンスをよじ登りながら言うリュエルは直後ぐらりと体勢を崩した。
「ひゃあああっ!?」
情けない悲鳴とともに雪に突っ込む。雪まみれになったリュエルが顔を上げれば、ルカがフェンスの向こう側から意地悪く笑っていた。
「センパイ不器用っすね」
「もう、私だって気にしてるの!」
曇った眼鏡を拭ってリュエルはもう一度フェンスを登り出す。キシキシと音を立てて乗り越えて、今度はちゃんと帝国領側に落っこちた。ルカは雪に埋まったリュエルをつつく。リュエルが唸った。
「……」
ナタリアは目を細める。ライをしかと抱いて、地面を蹴った。赤茶の髪が緩やかに揺れ、ふわりとフェンスを飛び越える。暗殺人形として編まれた肉体には、大の大人を一人抱えて跳躍するくらい造作もない。帝国の土を久方ぶりに踏んだけれど、ナタリアの心が波立つことはやはりなかった。
気を失ったままのライの銀髪がナタリアの頬を撫でる。傷はエルザが応急処置を施してくれてはいたが、早く寝台に横たわらせるべきだろう。
「リュエル・ミレット准将、これからどこへ向かうのですか?」
リュエルは濡れた眼鏡を押さえ、その奥にある蒼玉の瞳を細めた。
「リュエルでいいよ。私もナタリアと呼ばせてもらうね」
「了解しました」
「私たちがこれから向かうのはデアグレフだよ。地理的にそこが一番近い街だから」
デアグレフは帝国と共和国の国境にほど近い地域だ。ゲシュペンスト山脈が壁のように西にそびえ、帝国の国境を作っている。かつてはゲルデンシュバイク侯の領地であったが、彼が倒れた現在はマクシミリアン侯の領地となっている。
「とりあえず、街に入ろうと思います。そこで少佐を休ませてあげたい。そして落ち着いたら、帝国の転覆を狙う反逆軍に渡りをつけようと考えてます」
「確かに、反逆軍となら当面の利害が一致しそうね」
街へ向かうのなら、とエルザは下の軍服がしっかりと隠れるようにコートのボタンをすべて留めた。コートは共和国軍からの支給品だが、夜に近づく街では、すぐに気がつかれることはないはずだ。
ナタリアもまた共和国軍の軍服が隠れているか確認をする。もちろん、ライの方も。視線を落とせばライの端正な顔はすぐそこにあった。ただでさえ白い肌だというのに、それを青白くしている。鼓動がとくりとくりと伝わってくることがナタリアにライの生を感じさせた。
針葉樹の森を縫うようにしてしばらく歩き、デアグレフの街に入る。しんと静まり返った街の姿にナタリアはここが帝国であることを再認識する。アリアという名の女が帝国を狂わせ、帝国は囁きをこぼすことにさえ恐怖を覚えるほどの国になった。治安局が倒された一件でガンマが表に出て来るようになってからは、一層酷くなった。まるで事切れた屍のように、ただ、静寂に街は沈んで。
背の高い立派なホテルがそびえている通りを通り過ごし、リュエルはもう二本先の通りで曲がる。冬の寒さに凍てつく街並みは、静けさに包まれて氷像のように見える。その中に明かりがポツリとついていた。看板の傾いたオンボロホテル。隙間風が吹くか吹かないかの瀬戸際の、泊まるには少々心配な建物だ。
「センパイ、ここにするんすか……」
薄い氷に覆われて白くなっているドアノブに手を伸ばしていたリュエルは頷く。
「大丈夫。考えなしなんかじゃないから。ここを選ぶ理由はあるよ」
確かに思っていたよりも古いけど、とリュエルはルカに肩を竦めてみせた。
「しばらくこちらに泊めていただけますか?」
帝国金貨を五枚、ホテルのカウンターにちゃりんと置く。澄んだ金属音を奏でたのはリュエルの指先だ。不愛想なホテルマンは金貨が本物であることを確かめるようにカウンターの金貨を一枚一枚拾い上げる。彼はナタリアたちの方を見ずに部屋の鍵を二つ取り出した。五人なら、二部屋で足りると言いたいらしい。
「二泊三日だ」
ぼそりと言って、ホテルマンは鍵をカウンターに並べていく。そこまでの一連の動作をナタリアは琥珀の瞳でじっと見つめていた。不愛想なホテルマンの身体の動かし方は戦闘訓練を受けた者のそれだった。
「行こう」
鍵を握ったリュエルに促され、ナタリアたちは最上階にあたる五階の端部屋へ向かった。外のボロボロ具合からは意外なほど、内装は整えられている。深緑のカーペットには色あせた部分もあったり、壁にはひびが入っていたり、と確かに古い。けれど、手が入っているからあまり気にならない。
ナタリアたちはまず角部屋に入り、ライを一つしかない寝台に横たわらせた。ぎぃ、と寝台が悲鳴を上げる。埃の匂いが部屋中に充満しているのはご愛嬌と思うしかない。狭い部屋に全員入ると、動ける空間はほとんどなかった。ナタリアは寝台の隣を確保し、エルザの横に立つ。ほんの須臾さえ、ライから目を離したくなかった。目を離したら、死神の青年は消えてしまいそうに思えたから。
髪を一つに結ったエルザがライからコートと軍服を剥ぎ取った。露わになったライの胸に巻かれている包帯はもう赤く染まっている。エルザは針と糸を用意し、消毒を済ませて手慣れた手つきで皮膚を縫っていく。
「ライは、死なないですか?」
唇からこぼれた問い。エルザは振り返らずに答えた。
「大丈夫よ。だって、アルバはライを撃てなかったんだから」
致命の傷を負わせるはずの弾丸はナタリアが斬った。ナタリアとリュエルが戦場にやって来るまでに時間はあったにも関わらず、胸の傷を除いてアルバが与えた傷はどれも命を奪うには至らないものだった。
ナタリアは胸を押さえた。燃え落ちるリンツェルンの街でライを撃てなかったナタリアと、アルバは似ている。ナタリアだって、銃に残っていた最後の弾丸が不発弾でなければライを殺していただろう。ナタリアとアルバを分けるとすればその後だ。ライの隣を選んだナタリアと、ライの隣を去ったアルバ。その意味を、ナタリアはまだ知らない。
「……よし、これでひとまず大丈夫ね」
額に滲ませていた汗を拭ってエルザが立ち上がった。それを見計らって、ルカが口を開く。
「そろそろ説明してもらうっすよ、センパイ。なんでここにしたんすか?」
リュエルはこくりと頷いた。
「まず、大きなホテルの近くだからこのホテルの客入りは悪いはず。しかも、古いから。本来ここは、二泊三日の代金に金貨が必要な値段ではないけど、収入のあまり多くないこのホテルとしては無視できないと思ったの」
「無理を通すための料金ということかしら?」
「はい、そうなりますね。こんな夜中に現れたヘンテコな五人組を泊めてもらうには、これくらいしないと」
でも、もうひとつ理由があるんです、とリュエルはわずかばかり声を大きくして口にする。エルザは眉を動かし、ルカは唇を歪ませた。
「以前から私は反逆軍について調べていました。反逆軍は帝国各地に拠点を置いていますが、このホテルはデアグレフにおける拠点の候補地のひとつです」
ナタリアはふとホテルマンの身のこなしを思い出す。
「受付にいた男は戦闘訓練を受けた者のようでしたが、関係があるのでしょうか?」
リュエルの瞳がきらりと輝いた。
「あるかも! 内装が異様に整えられていることを見て、当たりかもしれないと思っていたんだけど、ナタリアが見たホテルマンの動きがそうなら、やっぱりここは反逆軍の拠点かもしれない!」
「──ねぇ、リュエル」
エルザの落ち着いた声が間に差し込まれる。
「はい?」
きょとんとしたリュエルにエルザは眉を寄せた。
「あなたは誰? 記録係? それとも、リュエル・ミレット?」
不思議な問いかけに、ナタリアはぱちりとまばたきをした。目の前の女は、リュエルの顔をして、リュエルと同じ動きをしているというのに、何を疑うというのだろう。
「……確かに、そう疑うのも分かります。私でさえ、戸惑ったから」
リュエルは銀縁の眼鏡を押し上げる。
「記録係、という存在が私の中にあった、らしいですね。ですが、私は記録係を知りません。それでも、何かが、私の中から消えたことだけは分かります。目を覚ましたあと、私は《
リュエルの切れ味が鋭くなったのは、記録係がいなくなったからというよりもむしろ、人を殺すことを知ってしまったから。刃として研がれてしまったからには、剝ぎ落されたものもきっと多い。
「だから、私は前の私とは、もう違うんです。……ごめんなさい、答えにあまりなっていなくて」
いいわ、とエルザはゆるやかに首を振った。背の高いエルザはリュエルの肩にそっと手を置く。
「今までよく頑張ったわね」
リュエルはふにゃりと相好を崩した。
「はい、エルザ中尉」
「エルザ、でいいわ。帝国に来て階級つけて呼ぶのは変だし。ナタリアもよ」
ライの隣で置物のようになっていたナタリアは敬礼をした。
「了解しました、エルザ」
思えば、特殊諜報部隊の元に帰ってくるまでにかなりの時間が空いている。鋼の檻で枷を繋がれて独りで息をしていたから、人間の温かさを忘れていた。交わされる言の葉ひとつひとつに温度があることが不思議だ。
不意に部屋の扉の向こう側に気配を感じた。数は──
「──五人、いや、六人っすね。センパイ、この客どうするっすか?」
耳のいいルカがナタリアよりも先に口を開く。告げた数はナタリアの感じた気配の数と同じだ。
「扉を開けてあげて」
「はーい」
ルカは勢いよく扉を開ける。満面の笑みは、覗いた八重歯と死んだ魚の目のお陰で凶悪そのものだ。扉の向こうで銃を持っていた男たちの中には顔を引きつらせている者もいる。上々だ。ルカは得意になって夜の挨拶をしてみる。
「こんばんはっす! えーっと──」
しまった名前が分からない、とルカの声は尻すぼみになる。ぱっとルカがリュエルの姿を探せば、リュエルはルカのすぐ隣で微笑んだ。
「──
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