ep.073 貰い火

 街灯の硝子は曇り、ぼやけた光を宵闇にぽつりぽつりと浮かべている。骨の髄まで凍り付いてしまいそうなほどの厳しい寒さに浸る夜は、鋼の静けさを帯びていた。空を見上げたところで月は無く、星々の燭光だけがちらつく。


 は、と息を吐けば白い呼気が長く尾を引いて流れていった。色づいた鬼灯ほおずきのような色をした瞳を持つ男は、帝都ソフィリアの街を慎重に歩いている。灰色の髪をくしゅりと掻いて、無造作に手を外套のポケットにしまう。徘徊するようなふらふらとした足取りは、けれど自らの向かう場所を知っていると確かな歩みを刻んでいた。


 反逆軍の王エヴァン・リーゼンバーグの、うぬぼれてもいいのなら、腹心であるヨゼフ・マクシミリアンは数日前にエヴァンに告げられた命令を反芻する。


『新月の夜にソフィリアのアイデクセという名前の居酒屋に行ってくれ。そして、ガンマの《魔弾の射手デア・フライシュッツ》に状況を伝えてほしい』


《魔弾の射手》と口にしたときにふわりと僅かに和らいだ翠の双眸を思い出す。どんな意味があったのだろうと考えるけれど、答えは出ない。ガンマ最高の狙撃手とエヴァンが繋がっているという事実だけがそこにある。だからといって、《魔弾の射手》がヨゼフにとっても味方になるとは思い難いのだが。


 バーの並ぶ道を人々の流れに逆らわずに進む。皆地味な色合いの外套に身を包んではいるが、どれも上等なものばかり。これが噂の上流階級の溜まり場か、とヨゼフは目を細めた。外ではほとんど声は発されず、革靴が石畳を叩く硬質な音だけが鮮明だ。


 重苦しい空気に気圧されないようヨゼフは息を呑み込む。身分で言えば、最高議会に名を連ねる名門マクシミリアン家の長男であるヨゼフが気圧される道理はない。しかし、それとこれとは別の話。〝サボり魔の七光り様〟と呼ばれるまでにぐうたらしていたボンクラは、貴族の自覚とやらを犬にでもやってしまった。


 酒場街の端へ時間もかからずに辿り着く。さびれた風貌の店。一際弱々しい光を放つ灯りの下、古びた看板には黒い蜥蜴とかげが描かれている。蜥蜴アイデクセで間違いないだろう。


 ヨゼフは薄暗い店内に身体を滑り込ませた。老年のバーテンダーは来店客があっても顔を上げずにグラスを磨いている。店内では年季の入ったレコードプレーヤーが花のような口からクラシック音楽をこぼしていた。カウンター席の端でグラスを傾けていた男がヨゼフを手招く。まるで旧友に思いがけず出会ったとばかりの気安さで。


「あんたが《魔弾の射手デア・フライシュッツ》か?」


 ヨゼフは躊躇わずに男の隣に腰を下ろした。殊更に平然とした顔をして、バーテンダーにウイスキーを一杯頼んだ。暗い照明の中、男の髪の色は分からない。それに男は目を閉じていたから瞳の色も見えなかった。すうっとカウンターを滑ってきたグラスがヨゼフの手の中で、ちりんと涼やかな音を立てる。


「──その躊躇いのなさ、嫌いじゃない」


 男の唇が緩やかな弧を描く。ゆっくりと開かれた瞳は真っすぐにヨゼフを見つめていた。ヨゼフは目を見開いた。身体中を衝撃が雷のように走り抜けて、痺れたように男の目から目が離せなくなる。


 深い湖を思わせる静かで冷たい翠の瞳。エヴァンと同じ……。顔立ちもよく似ていることも考えれば、きっとその髪の色は燃えるような赤なのだろう。エヴァンが見れば絶対分かると告げた理由を今知った。


「あんたは……」


 男はニヤリと笑った。飴色の液体の入ったグラスを弄び、すらりとした指先が踊る。


「オレはエルシオ・リーゼンバーグ。ガンマ所属の《魔弾の射手デア・フライシュッツ》だ。そして、エヴァン・リーゼンバーグの兄でもある。ヨゼフ・マクシミリアン中佐、オレのことはエルシオと呼んでくれればいい」


「……俺のこと、知って──」


 エヴァンに自分の正体を打ち明けたのはほんの数日前のこと。だというのに、エルシオはヨゼフの本当の名前と階級をぴたりと言い当てた。エルシオは頬杖をついて唖然としているヨゼフに意地悪く視線を向ける。


「エヴァン、知らないふりしてたんだな。まあ、オマエが言い出すまで待つとか言ってたし」


「……ちょっと待て、エヴァンに俺の所属バレてたの!?」


 ああ、と軽くエルシオは頷いた。


「当然だろ。というか、簡単に分かるくらいオマエが有名人だったってだけだけど。そうだろ? 士官学校首席卒業したのち、色んな部署をたらい回しされるようになった妖怪、〝サボり魔の七光り様〟?」


 飲んでいた酒が気道に入り、ヨゼフは派手に咳き込んだ。こんな場所で自分の恥ずかしい過去を他人の口から聞くことになるとは思わなかった。カウンターの角に頭でもぶつけて死んでしまいたいくらいだ。


「でも──」


 エルシオは顔から笑みを消した。凛とした表情はエヴァンのそれと本当によく似ている。


「エヴァンを引き留めてくれたことに感謝する。アイツは真面目すぎるし、気負いすぎる。だから、潰れてしまう前に止めてくれたことに礼を言わせてほしい。……オレはアイツの側にはいられないから」


 エルシオは胸に手を当てて頭を下げてみせる。指先にまで気が配られた美しい所作は帝国貴族のものだった。リーゼンバーグは帝国の剣と誉れ高かった帝国の大貴族の名。ガンマによって存在していた証すらも拭い去られても、その意志を継ぐ者はいる。


「いや、礼には及ばない。むしろ感謝すべきなのは俺の方だ。あいつのお陰で俺は生き方を思い出した」


 同じように帝国貴族式の礼をすると、エルシオはふっと笑った。


「エヴァンの人を見る目は確かみたいだな。今まで、エヴァンがオレが生きていることを伝え、オレに引き合わせようとしたヤツはいなかった。前の副官もそうだ。だが、アンタのことは随分と信用しているみたいだった。正直、エヴァンに取り入るスパイだろうと決めつけていたんだが、そうでもなさそうだ。エヴァンがオマエを気に入るのも分かる」


「もし俺が裏切ってたらどうするんだ?」


 抜き身の刃のように研がれた視線がヨゼフを貫く。


「ガンマの《魔弾の射手デア・フライシュッツ》が直々にオマエの脳天を撃ち抜いてやるよ。光栄に思え」


 銃を向けられてもいないのに、銃口を向けられたときのぴりぴりとした感覚がヨゼフの身体を刺す。そして翠の目は据わっていた。冷たい汗がヨゼフの背中を流れていく。冗談でも口にするんじゃなかった、と激しい後悔に苛まれる。


「兄上、ものすごい弟君のこと好きじゃん……」


 ポロっと呟くと、エルシオは盛大に顔をしかめて舌打ちをした。


「今の話、絶対エヴァンには言うなよ。分かったか?」


 へい、とヨゼフは気の抜けた返事をする。が、内心ではにやにやとしていた。気分はそう、親戚の叔父さんといったところか。


「……本題に入ろう。いつもはエヴァンがここに来るんだが、オマエが来たということはエヴァンの身に何かがあったということだな?」


 ヨゼフの脳裏に数日前の出来事が蘇った。エヴァンだけを砦に残し、地下道を仲間とともに逃げた。エヴァンの働きによってか、捜索の手は地下までは伸びず、無事に誰一人として欠けずに難局を乗り切った。だが、エヴァンは──


「エヴァンはたぶん、軍に掴まった。ダーデンベルの砦に戻る時に俺が尾行されたんだと思う。新しい砦だったから色々手が回ってなかったのもあって、臣下を逃がしてアイツは城に残ったんだ。そして、あんたに会いに行けと俺は命じられた」


 ヨゼフは絶対にあいつらに見つかってはいけない、という言葉の真意を察せないほどヨゼフはだてに年を積み重ねていない。ヨゼフが軍属である事実が双方に露見すれば、軍では裏切者と断罪され、反逆軍では間諜として責められる。あの一瞬でエヴァンはヨゼフを守るためにリスクを負ったのだと気づいてしまった。たった一人で逃げることだって選べたのに。


 けれど、俺のせいだという自責の言葉は吐かない。それはとっくに済ませたし、自分を責めればエヴァンが戻って来るわけでもない。ならば、ヨゼフがやるべきはくれた信頼に応えることだけだ。だから、エルシオから目を決して逸らさずに言葉を待った。


「そうか。……そうまでして守りたいものができた、そういうことなんだろうな」


 エルシオは視線を氷を残すばかりとなったグラスに落とす。穏やかな表情だった。唇は確かに微笑んでいるというのに、寂寥感が拭えない。


「エヴァンを助けたい。手を貸してくれないか?」


「当たり前だ。エヴァンは助けを求めたんだからな」


 何とも言えない含みのある言い方だったが、望む言葉を貰えたわけだ。ヨゼフは深く息を吐き出した。軍の内情に詳しい様子のエルシオからの協力があれば、エヴァンの救出も行いやすくなる。


「助かる。ありがとう」


「ただ、オレはほとんど動けない。ここでアンタと会話することだって正直かなり無理をしているんだ。オレはガンマで在らなければならない。そういう契約をしている。だから、代わりのヤツを紹介する」


 エルシオは声量を落とし、慎重に名を告げる。ヨゼフは橙赤の目を大きく見開く。あまりにもよく聞き知った名だったから。


「つい先日、帝国領に入ったところを確認した。このことを知っているのはおそらくオレだけだ。おそらくだが、アイツらもオマエらを探しているだろう。デアグレフへ向かうといい」


 そう口にして、エルシオは立ち上がった。外套の袖に腕を通しながらヨゼフの後ろを通り過ぎていく。店内で一番明るい光に照らされて、エルシオの髪が燃えるような赤い色を閃かせる様子が視界の端に映り込む。


「エヴァンを、頼んだ」


 互いに振り返らないままエルシオは店を出ていった。カウンターには紙幣が残されている。エルシオの分とヨゼフの分、ぴったりの金額だ。ヨゼフは苦笑いをして、グラスに入っていた酒を干した。からんころんと氷が硝子にぶつかる音を奏でる。こちらが持つつもりだったというのに、先手を取られてしまった。


「……ま、譲ってやるのも大人ってやつだもんな」


 エルシオの置いていった空のグラスの隣に自分のものも置いていく。本当はもう一杯飲んでいきたい気持ちもあったのだが、長居している場合ではない。一刻も早くエヴァンを取り戻すために行かなければ。


 凍えるような夜気の中に身を沈め、ヨゼフは歩き出した。星は瞬くけれど、探したところで月は見つからない。


「──《死神グリムリーパー》か、こんなところで名前を聞くとは思わなかった」


 共和国最高の暗殺者が味方になどなってくれるのだろうか。


「でも、《魔弾の射手デア・フライシュッツ》だって、エヴァンの兄貴だしな。そういうこともあるか……」


 色々な意味ですっかり思考が毒されているのだが、残念ながらヨゼフは気づかない。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る