ep.072 親愛なる帝国に告ぐ

 殺戮人形が帝国を離れ、早ひと月。厳しい氷雪に閉ざされた帝国の地は、時折気温が上がることもあったが、依然として雪解けには程遠い。そして、エヴァン・リーゼンバーグ率いる反逆軍リベリオンにとっても厳しい状況は続いている。


「……」


 冷えた石の上に腰掛け、エヴァンは溜息を噛み殺した。今はバーレイグを離れ、帝都ソフィリアより南に位置するダーデンベルに身を潜めている。放棄されていた山城を修繕し、アジトとしていた。


「こんな遅くまで見張りご苦労さん。少しは休め、エヴァン」


 ちりん、と湯気を吐き出しているマグカップを鳴らしたのは、灰色の髪に橙赤色の瞳をした男──ヨゼフだった。古ぼけた石の見張り台で風に吹かれていたエヴァンは、マグカップを慎重に受け取る。指先はほんのり赤くなっていて、熱いはずのマグカップから熱が伝わるまでに時間がかかった。ホットミルクを冷ますために吐き出した息もやはり白い。火傷をしてしまわないようゆっくりと口をつければ、まろやかな甘みが喉を伝った。


「……ありがとう」


 ヨゼフは得意げに笑うと、エヴァンの隣に腰を下ろした。


「あのヤバいヤツがいなくなったってのに、お前は全然忙しいままだな」


「仕方ないさ。僕は、僕の作ったこの組織に責任を持たないといけない。これは誰かに代わってもらえるものでもない」


「そーだがなー、お前はもっと俺たちを頼れ。こちとら運動オンチの王さまを支える準備は万端なんだよ」


 か、とエヴァンの白い頬が真っ赤になった。


「……ヨゼフ! 僕は運動オンチじゃない! ……えっと、ちょっと、運動ができないだけで……」


 はいはい、とヨゼフが目を伏せてエヴァンの燃えるような赤髪を掻き混ぜる。エヴァンが口をへの字に曲げて唸った。


「子供扱いするな!」


「分かった分かった、陛下」


 おざなりな返事にエヴァンは一層顔をしかめる。赤髪はすっかりクシャクシャになってしまっていた。


「……まったく。ともあれ、ヨゼフが無事に帰ってきてくれてよかった」


 エヴァンは乱れた髪を指で梳いて直していく。ぴしりと曲げられた指に伏せられた目。何気ない所作にまで気品が滲むのは、エヴァンが受けた教育の賜物か。


「尾行とかされてないといいんだけどなあ」


 そう呟いた後、ヨゼフは一度黙り込んだ。


「……エヴァン」


 ヨゼフの緊張した声にエヴァンは視線を振った。


「どうした?」


 ただならぬ気配を感じてエヴァンは表情を引き締める。湖水のような翠の瞳を細めた。


「話さなきゃいけないことがある。もっと早く言わなきゃいけないとは思っていたんだが、……俺、臆病でさ……」


 眉を下げて申し訳ないという顔をするヨゼフは、けれどエヴァンの目から目を逸らさない。不意に、エヴァンの脳裏をルイスが首を括ってしまった日の光景が掠める。身体の髄まで凍りついてしまいそうな寒さの中、見上げた蒼白い顔を思い出す。硬く強ばった顔をどうにかしようと、エヴァンは熱いマグカップをぎゅっと握った。


「話してくれ」


 できるだけいつも通りの口調を心がけてエヴァンは言う。ヨゼフはふっと微笑んだ。


「俺の名前はヨゼフ・フェネアンじゃない。俺はヨゼフ・マクシミリアン。帝国軍情報部所属の中佐だ」


「……」


 エヴァンは唇を歪めた。現れたタイミングや有能さから軍の間者であることは考えていた。ある程度の身辺調査も行い、半ば確信があった。だが、ヨゼフが身をもって示した信頼をエヴァンは信じることにしていた。それに、間者のつもりならもっと上手くやるだろう。いくらなんでもヨゼフは目立ちすぎだし、命を懸けすぎた。


「今まで言えなくてすまん……。でも、誓ってエヴァンたちの情報は持ち出したりしてない。俺は腐敗した軍の方がよっぽど嫌いだ。お前たちに、お前に出会ってやっと、自分になれた気がしたんだ。だから、その! えっと! ……ああでも、その、俺が疑わしいっていうなら毒酒でも毒の皿でも食べるし!?」


 渾身の告白をしながらもオロオロしている中年男。あまりのみっともなさにエヴァンは思わず噴き出した。


「いいよ。僕はヨゼフを信じると決めたんだから。もし、お前が裏切ってたら僕は大馬鹿者だけど、いいんだ。ヨゼフがいなかったら、きっと僕はすべての臣下の命を使い潰していたと思うから……」


 エヴァンは冷たい風に目を細める。マグカップの吐き出す湯気がたなびく。ヨゼフに諭されなければ、エヴァンは化け物に成り果てていただろう。あの女アリアと同じになっていただろう。


「僕はヨゼフを信じるよ」


 あわあわと彷徨っていた橙赤の瞳がぱっと輝いた。


「お前、最高、ホント、最高」


 勢いよく抱き締められてエヴァンは目を見開く。体格のいいヨゼフに抱きすくめられてはエヴァンなんて子供みたいにすっぽり隠れてしまう。


「ちょ!? おい、飲み物こぼれる!」


 呻くように叫ぶと、ヨゼフはぱっと手を離した。


「すまん! つい……」


 エヴァンは首を横に振る。歪めていた唇には笑みがあった。ヨゼフの正体に当たりは付いていたけれど、本人の口から聞けたことで、エヴァンはヨゼフを疑う理由を真の意味で失くしたのだ。もちろん、良い意味で。


「……でも、マクシミリアンか。マクシミリアンは最高議会に名を連ねる家名だろう? どうして、こんなところに来るんだ?」


 ヨゼフの身体がぴくりと跳ねて、その顔が引きつった。


「あ、あはははは、あはははははは」


「……」


 夏でもないのにヨゼフは額から汗を拭っている。エヴァンはじっとりとした視線を送った。


「……仕事を、ずっとサボってて、その、親父にお払い箱にされました」


 しょぼん、と頭を下げたヨゼフにエヴァンは絶句する。間者に選ばれた理由があまりにも酷すぎる。だが、疑うにはヨゼフの情けなさ具合をエヴァンはもう知っているし、しおしおとしたヨゼフの顔はおそらく演技ではないだろうし。


「そ、そうか……。なんか、聞いて悪かった……」


 ふと、ヨゼフが息を詰めた。薄氷のように張った緊張感にエヴァンは目を鋭く尖らせる。


「どうした?」


「……すまん、俺はどうやら尾けられていたみたいだ」


 周囲に光はないはずの荒野に蛍火のような光が揺れている。砦は光が漏れないよう、地上部で明かりは付けないよう厳命してある。というのに、蛍火はゆらゆらと真っ直ぐ砦を目指していた。この辺りに住んでいる住人か旅人かが灯すくらいには小さな光。けれど、それにしてはあまりに揺れ方は規則正しい。このリズムはそう、行軍の。今夜帰ってきたヨゼフが尾行されていたのは明白だ。


「っ、動きが速すぎる」


 エヴァンはコトリとマグカップを床に置いた。この砦はまだ戦える状態にはない。人員は少なく、せいぜい二十人がいいところだ。その上、足の速い脱出手段は目立たないために用意していなかった。


「……俺が行く。なんとかできるかもしれない」


「いや、駄目だ。ヨゼフは絶対にあいつらに見つかってはいけない。僕が囮になろう」


 今にも飛び出してしまいそうなヨゼフの袖を掴んだ。なぜ、と問う視線にエヴァンは毅然とした視線を返す。


「僕がすぐに殺されることはないはずだ。僕は《茨の王スピーナ・レクス》、奴らは僕の握っている情報が欲しいはず。なら、一先ずは僕を拘束するだろう」


 思考は常に冷徹に、冷静に。できるだけ多くをための方程式を弾き出す。


「だから、今は僕が囮としてここに残る。ヨゼフは臣下たちを連れてここを離れろ」


「でも──!」


 食い下がろうとするヨゼフに向かってエヴァンは流麗に微笑んだ。


「お前にはやってほしいことがある」


 どんなときも冷ややかな光を湛えている翠の瞳がふわりと柔らかくなる。ヨゼフは思わず息を呑んだ。


「新月の夜にソフィリアのアイデクセという名前の居酒屋に行ってくれ。そして、ガンマの《魔弾の射手デア・フライシュッツ》に状況を伝えてほしい」


「は!? ガンマは敵なんじゃないのか!? それに、そんなこと言われても、俺にそいつを見つけられるとも限らないぞ!?」


 ふっ、と小さくエヴァンは笑いをこぼす。迷いのない翠の瞳が輝いていた。


「大丈夫。見れば、絶対に分かるから」


 早く行け、まだ地下通路を使う時間くらいは残っているはずだ、と口にしてエヴァンは走り出す。足音は隠そうとも思わなかった。


 こういう日がいずれ来ることは分かっていた。帝国軍とガンマ相手に逃げきることはどうしたって難しい。軍に掴まる日が少し早くなっただけ。想定済みだったからこそ、エヴァンは処刑台への階段を上りきる前に逃げ出す算段をずっと考えていた。まるで賭けみたいな危うい方法だ。けれど、今この瞬間、全員が助かる方法が見出せないのならば、やるしかない。


「以前の僕なら、臣下を棄てて独りで逃げただろうな……」


 暗闇の城中を一人、走っていく。行く先を照らす灯火はないから、何度も階段を踏み外したり転びかけたりした。壁に手を伝わせ、四苦八苦しながら前に進む。ごつごつとしたオンボロの石壁はひやりとしている。城門はすぐそこだった。錆びた鉄の門は開け放たれたまま。人が出入りしていることが傍目に分からないように、とあえてそのままにしていたのだ。


 蛍火のような儚さをしていた光はもはや目を刺すような強さになっていた。ざっざっ、と軍靴が凍った地面を踏みしめる音は近い。やがて行軍はエヴァンの前で止まった。数にしておよそ百人ほど。今のエヴァンたちが彼らに勝ちうるすべはない。


 暗夜に軍服の兵士たちは壁のように。ただ一人で城門に立つ少年と相対する。深淵が覗き込むような、ぞっとする感覚にエヴァンの背中が震えた。ぐっと、唇を引き結ぶ。


 エヴァンの隣には誰もいない。いつもそうだった。けれど、今回は違う。誰かの命を切り棄てて逃げているのではない。今回は、誰かの命を守るために足を止めた。己の正義を信じてもいいと背を押してもらったから。


 赤髪が揺れる。漆黒のコートの裾が翻る。不敵に翠の双眸を笑ませる。そして、この忌まわしき国の軍へと反逆の王たる名を告げる。


「僕の名は《茨の王スピーナ・レクス》。お前たちが探しているのはこの僕だろう?」




 ──さあ、賽子さいころはどの目が出るだろう。


 ねぇ、兄さん?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る