ep.071 ダブルクロス

「なんで……、どうして、撃った!?」


 ふらりと身体を揺らし、ライは震える声で叫んだ。ぼたぼたと鮮血が胸からこぼれる。知りたかった、アルバがライを撃った理由を。


 アルバは答えなかった。地面を蹴って、ライとの間合いを詰めに来る。放たれた弾丸が動きの鈍いライの頬を掠め、緋色の線を頬に刻む。アルバがにやりと嘲るように嗤った。


「知ってるか?」


 鋭い蹴りがライの頭があった場所を薙ぐ。距離の詰め方、意識の空白を見切った攻撃。中距離からの援護を得意としていた姿とは、全く違う。近接距離でアルバが暗殺人形に比べても遜色ないほど戦えるとは知りもしなかった。


「──俺が一番得意な距離はお前と同じなんだよ。そして、この間合いなら、俺の方がお前よりも……強い」


「ぐっ!?」


 アルバの突きがライの胴を正面から捉えた。身体が地面に強く叩きつけられる。肺から息が抜けて、一瞬呼吸が止まる。見上げれば、ぞっとするほど凍えた双眸がライを見下ろしていた。


「……な、ん、で」


 倒れたライにも容赦なく蹴りが降る。攻撃の激しさに立ち上がることを許されない。今ライが内腑を潰されずに済んでいるのは、辛うじて攻撃を見切って避けているからだ。しかし、それも後どれくらいつか。


「お前に流れてる血がマズいんだってさ。だって、そうだろう? ラインハルト・アフトクラトル・フォン・アイゼナッハ皇弟殿下」


 藍の瞳を見開く。薄汚れ、血に汚れた銀の髪は頬に張りついて離れない。


「帝国の皇位継承権第一位なんてもんを持つお前はもう要らないんだって」


 銃弾をすんでのところで躱し、ライはアルバから転がって距離を取る。


「まー、そんなことはどうでもいい」


 はあ、とアルバの吐いた息は重かった。長い旅路に疲れ果てた旅人のような、鉛色の溜息。


「……最初からずっと、お前が大嫌いだったんだよ。友達ごっこももうウンザリだしさ。なんで、俺が暗殺人形なんてもんの面倒見なきゃいけないんだよ?」


 アルバの一言一言がライを切りつける。傷は身体のあちらこちらに刻まれている。けれど、本当に痛むのは身体の傷ではない。痛い、痛い、いたい。ライにはどこが痛んでいるのか、分からなかった。ただ、浅くなろうとする呼吸を無理にでも落ち着けようとする。


「どう、して?」


 何を言われても、理解したくできなくて。幼子のように同じ問いかけを繰り返す。なぜ、と。


「まだ分からないわけ? 軍が暗殺人形を野放しにするわけないだろ。俺は、お前を監視し、必要がなくなれば処分する、そのためだけにここにいた」


 ライは握った銃の引き金を引いた。撃鉄が落ち、硝煙が風と消える。けれど、ライの撃った弾はアルバの髪をほんの少し攫っただけ。千切れた明るい金髪が冷風に散った。


「じゃあ、……何もかも、嘘だったのか!?」


 碧眼が淡く笑んだ。


「ああ。俺は嘘つきなんだ」


 そして、アルバの刻んだ笑みが歪む。


「だから、お前がバカで本当に、よかった」


「っあ」


 息ができない。聞きたくない。なのに、ライは動けない。


「お前に色んなことを教えたのは誰だ? お前に人を信じることを教えたのは誰だ? 全部、俺だろ。何にも知らないお前は素直に全部を呑み込んだ」


 決してアルバに対してライが疑いを持たないように……。すべては特別甘い遅効性の毒のように、ライを蝕み続けていたのだ。暗殺人形としての能力を発揮できないほどにどろどろに溶かされてしまっていたのだ。


 仲間、という言葉をライに教えたのも、俺がお前の最初の友達だと言って笑ってくれたのも、戦争のない世界があるのだと示してくれたのも、全部アルバで──。あの日々のすべてが偽り。積み上げてきたすべてが砂上の楼閣。


「……もう、やめて、くれ」


 絞り出した声は囁きくらいの音量で、雪花の混じる風に無惨に引きちぎられた。


「どう? 大人しく殺される気になった?」


 アルバはライを大嫌いだと、必要ないと、言う。なら、ほんとうにそうなのだろうか。それに、役に立たない要らない武器が廃棄処分されるのは当たり前だ。


「お……れ、は……」


 銃がライの手から滑り落ちた。火事のせいでほとんど雪の積もっていない地面に、鉄塊が死体のように横たわる。


 アルバの蹴りで、ライの視界はぐるりと反転した。灰色の空と灰色の煙、壊れた家屋。どこまでも、灰色だった。ごきり。右足の骨が折れる音すら響いた。本当の意味で立ち上がれなくなったライは凍りついた硬い地面を転がる。ひたひたと、地面に触れた場所から身体を寒さが這い上がる。


「……だからあの時言ったろ、どうなっても知らないって」


 銃口が煌めくのを、ライはぼんやりと見つめた。


 たぶん、長い夢を見ていたのだろう。暗殺人形だったライは色々なことを知って、人形ではなくなったのだという夢を見ていた。けれど、それは泡沫の幻で、目の前にいるこの人が見せてくれていただけだったのだ。


 ──魔法はもう、解けてしまったけれど。


「あ、るば……、それでも、やっぱり、おれ、後悔なんて、してないんだ」


 感覚のほとんどない身体では手は伸ばせなかった。代わりに、がんばって覚えた笑みを作ろうと唇に力を入れる。ライは、ずっと、アルバみたいになりたかった。人を簡単に笑顔にさせる姿に、憧れていた。そうなのだ。


「こんなに、胸がいたいのは、おれに、こころがあるから、なんだろう? きみが、おれに、こころを、くれたんだ。だから、後悔なんて、するはずがない」


 たとえ何もかもが真っ赤な嘘で塗りたくられていたとしても、アルバはライに一番大切なものをくれたから。


「──!」


 アルバが目を見開いたのは刹那の間。動揺の色もすぐに消える。五年もかけてライに嘘をつき通したアルバには、動揺を殺すのもきっと簡単だったろう。ライがこれ以上言い募る前に、躊躇わずに引き金を引いたから。


 ライは身体から力を抜いた。ふっとまぶたが落ちる。この距離にこの傷では避けられる可能性は万に一つも存在しえない。



















「いいえ、ライは死なせません」



















 戦場に天使が舞い降りた。


 それは、赤茶の髪に琥珀の瞳を持つ特別美しい少女。しなやかな肢体が踊る。ナタリアは、放たれた弾丸がライの頭蓋を突き破る前に斬り捨てた。


「……っ!」


 アルバが後ろへ跳んでナタリアから距離を取る。たとえライよりも強くとも、第一位使徒のレプリカには到底及ばない。第一位使徒、全能を冠する女の精巧な模造品だ。身体に莫大な負債を抱えるアルバでは勝ち筋はない。


「あなたを止めに来ました、アルバス・カストル大尉」


 ナタリアでない声がした。ざっ、と地面を軍靴で削り、銀縁の眼鏡の女が立ち止まる。以前よりも髪が長くなったリュエルの視線は、気を失っているルカとエルザの上を通ってライとアルバに注がれた。


「リュエル……、起きてたのか」


「はい。私は《智恵の魔女ミネルヴァ》の右腕として活動していました」


「いました、ってコトは、もう違うんだな」


 はい、とリュエルは胸の階級章に手を当てて頷いた。銀の輝きを見たアルバは目をすがめる。


「それ……。お前は誰だ?」


「私は、リュエル・ミレット准将です。《無名の魔術師アンシャントゥール》の名を耳にしたことはありますか?」


「ああ……、誰だろうなーと思ってはいたけど、リュエルのことだったのかー」


 ライを撃ってなおアルバの話し方は普段通りのままだった。


「はい。昇級したての新米ですが。……そして、私もあなたに同じ質問を返します」


 アルバの碧眼よりも淡く明るい色の瞳に躊躇いはなかった。何がリュエルを変えたのだろう、とアルバでさえ一瞬考えたくらいに。


「──あなたは、誰ですか?」


 喉を鳴らしてくつくつ嗤い、アルバは明るい金の髪を掻き上げた。


「俺は、第七位使徒 アルバス。階級は特務大佐だ」


 ナタリアは琥珀の双眸でアルバを見た。使徒であり特務大佐であるということは、特務部隊所属ということ。以前から特殊諜報部隊と特務部隊は関係性が良くなかった。それには特殊諜報部隊が不用意に特務部隊の管轄に踏み入ったことにも端を発しているが、ナタリアにはどうでもいいことだ。大事なのは、アルバス・カストルが裏切ったという事実のみ。


 気を失っているライの前に立ち、拳銃を構える。裏切者には死を以て代価とする。ライが傷ついている、と認識しただけでナタリアの身体はどこかおかしくなった。呼吸と鼓動が平常ではない。早く、裏切者の息の根を止めねばと気がはやる。


「ナタリア、待って。私はアルバ大尉──いえ、特務大佐にまだ確かめなきゃいけないことがある。少佐のためにも」


 リュエルに制され、ナタリアはしぶしぶ飛び出すのを堪える。帝国と共和国の双方において最高の暗殺者である《死天使ヘルエンジェル》が、リュエルの命に従った。その事実にリュエルは身震いをする。命令ひとつでナタリアはことごとくを屠るだろう。彼女にはそれだけの力がある。 


 リュエルが心で否定しようとしたところで、酷なまでに冷徹に研ぎ澄まされたリュエルの頭脳はナタリアを兵器と見る。途方もない全能感。いくら呑まれまいと思っても、ひとたび己の手綱を手放したら溺れてしまう。自らの元に束ねられた力の誘惑に抗い、そして余さず正しく使わねばならない。これが、将帥の背負うべきもの。


 リュエル・ミレットはそういう世界に身を投じた。階級章を身に着けて鳥籠を出たそのときから、後戻りはもう許されなくなった。


「あなたは、ソフィア閣下の駒ですね? だから、少佐が本部に行くことを止めもせず静観し、証拠として提出した。少佐の抹殺命令が下されるようお膳立てをした。そうですね?」


「そうだ。ま、元々俺はそのためにここにいたわけだし、やっとメンドクサイ任務を終わらせられる……と思ったんだけどなー」


 なぜだろう。アルバの物言いはいつもと同じ声色であるはずが、ナタリアの肌をちりちりと刺してくる。疾くその脳天に風穴を開けて沈黙させねばならないのに、リュエルは待機命令を撤回しない。


「まさかナタリアちゃんが来るなんて。そっちも中隊呼んできてるみたいだし、この勝負は五分だな」


 伏せていた兵を見透かされ、リュエルの返事がわずかに遅れた。


「……そうですね。互いにそれが一番だと思います」


死天使ヘルエンジェル》さえいなければアルバが勝っていた。小隊規模の特務に加え、ライを下す実力を備えた第七位使徒。たとえリュエルが一般兵で構成された部隊を用意したところで敵うはずがなかった。完璧な布陣と言えるだろう。ただし、ナタリアがいなければの話だ。当てが外れた以上、アルバにはリュエルたちに挑む選択肢は取ることができない。また、ナタリアがいるとは言ってもアルバの目的がライの抹殺である以上、リュエルの方も下手に動くことはできなかった。そして、睨み合いもいずれは終わる。


「また、ライを殺しに行くよ」


 くるりとアルバが踵を返した。


 アルバと特務部隊の兵が雪原に溶けるまで誰も動かなかった。リュエルが硬い凍土にへにゃりと座り込む。


「なぜ、わたしを止めたのですか? わたしならばアルバ大尉を討てました」


「うん……、討てたとは思う。でも、特務の兵は普通の兵じゃないんだよ。持っている武器だってぴかぴかの最新式。いくらナタリアでもあの数じゃ無傷じゃ済まない」


「ですが……」


「大丈夫だよ、少佐は守れたんだし」


 リュエルの視線を追えば、血だまりに横たわる青白い顔のライが目に映った。どくん、と心臓が跳ねる。あの時みたいだ。浜辺で左腕を潰されたライの姿と今のライの姿が重なる。ナタリアはライの側にしゃがみ込んだ。


「ライ」


 返事はない。ナタリアは唇を引き結んで止血を始めた。けれど、胸の傷がだいぶ深い。じわじわと滲み出す血がナタリアの両手を染める。小さく上下する胸の動きも、いつ止まるともしれなくて。


「ナタリア、私に、任せてくれるかしら?」


 振り返れば、エルザが銀のアタッシュケースを持って立っていた。ナタリアは小さく頷く。今、ナタリアにできることはそのくらいしかないと理解していた。


「……せん、ぱい。なんで、ここに……。いや、そんなワケないっすよね……、センパイはハルバトアにいるはずっすから。これは、幻覚っすね。うん、こんな都合のいいことあるワケないっすよね……、だって、センパイが膝枕して──」


 せっかく優しく起こそうと思ったのに、とリュエルは口をへの字にする。


「ルカのばか」


「へ?」


 ぺしっと情けない音のデコピンが弾けた。ついでに膝に頭を載せていたルカをほっぽり出して立ち上がる。ゴッとルカが地面に頭を打つ鈍い音が響いた。


「いてッ!? え、幻覚じゃない? センパイ、なんで!? 危険すぎるっすよ!?」


 勢いよく立ち上がったルカに肩を掴まれ、リュエルは眉を下げて微笑む。


「でも、私が動かなかったら、少佐は、もしかしたらルカたちもみんな、殺されてた」


「大尉が、ってことっすよね……?」


「うん。でも、その背後にいるのは《智恵の魔女ミネルヴァ》閣下だよ」


「は? どういうことっすか? なんで、だってボクらは閣下の直属──」


 ルカの疑問はもっともなものだった。特殊諜報部隊は《死神グリムリーパー》ライ・ミドラスを中心に構成されたソフィアの駒だ。指揮権のない彼女が唯一自由に動かすことのできる部隊のはずだった。……それとも、ソフィアは自由に動かせる駒を他に手に入れたということか。はみ出し者、厄介者ばかりの部隊を棄てて、特務部隊と手を組んだということか。証拠に、第七位使徒を名乗ったアルバは自分がソフィアの駒であると首肯した。


「……どんな理由があったとしても、これだけははっきりしてる。閣下は私たちを裏切った。そして、私は《智恵の魔女ミネルヴァ》を敵に回した」


 ルカが息を呑んだ。リュエルは肩に置かれていたルカの手からするりと抜け出す。


「ひとまず、移動しよう。少佐の治療をしないと」




 応急処置を済ませたライをナタリアが運び、雪道を歩く。リュエルが用意したという中隊はすぐそこにいた。


「私の無理な要求に応えてくれてありがとうございます、カイル・ウェッジウッド大尉」


 棚ぼた部隊、もとい第七七中隊の隊長はリュエルに敬礼を返す。


「いえ、当然のことをしたまでです。みなさんは俺たちの恩人さまですからね! レーヌエルベに急ぎましょう」


 しかし、ナタリアたちがレーヌエルベの雪を踏むことはなかった。カイルに向け、ソフィアからライたちの捕縛命令が下されたのだ。通信機をへし折らんばかりに握りしめ、唇を噛む。カイルはソフィアとともに共和国解体の片棒を担がされている。己で選んだ道だ、そこに後悔はない。だが、ソフィアは今、交わした盟約を武器にしてカイルの喉元に突き付けている。ライたちを引き渡さねば、国への翻意を暴かれて大罪人に堕とされる。部隊まるまるだ。


「大丈夫です。初めから、その覚悟はしていました。だから、あなた方を選んだんです」


 リュエルは落ち着いた声で告げる。ソフィアに背くとはこういうことだと分かっていた。いつ、どこで、誰が敵に回るか分からない。だからこそ、ライに大きな恩がある部隊を選んだのだ。ソフィアに心臓を握られていても即座に敵に回らず、なおかつソフィアが簡単に切り捨てられない部隊を。


「……すみません、お力になれなくて。でも、それなら、あなた方はどこへ行かれるんですか?」


 リュエルの中で答えは既に決まっていた。ナタリアは腕にライの体温を感じたまま、じっとリュエルの澄んだ水色の瞳を見つめる。


 ──帝国へ。


 リュエルの突拍子もない言葉にナタリアはぴくりと身体を動かした。ぽかんとしている面々もリュエルの目にはまるで映っていないようだった。彼女の双眸はずっと先を見通して。


「なら、俺たちは国境付近までお供します」


 最初に衝撃から立ち直ったのはカイルだった。


「は? 隊長、正気ですか!? 馬鹿なんですか!?」


 カイルの発言に副官のイシュア・ザルツバルグ中尉が目を剥く。捕縛対象の護衛などどうかしている。


「んー? だって、捕まえろって言われてるんだろ、だから国境付近まで一緒に行ってさ、それで追いかけたけどダメでしたって言えばよくないかな?」


 至極もっともそうにカイルは言う。その顔にイシュアは言い返す気力を失った。


「……はあ、ええ、いいんじゃないでしょうか」


 副官の承認を得られたと顔をぱっと輝かせるカイル。


「よーし、そうと決まったら急ぐぞー!」


 おー!、と中隊の兵士たちは楽しそうに野太い声で叫んだ。雪原合同ピクニックなんかじゃない、と怒鳴りたくなるイシュアだったが、声を上げるのもなんだか面倒だ。はあ、と溜息をつく。もういいや、うん。


「ありがとうございます! すごく助かります。……正直、私たちだけで雪の中を進むのは──わっわわ!?」


 つるっとリュエルが滑った。思い切り新雪に頭を突っ込む。うんうん唸りながら頭を引っこ抜けば、眼鏡は真っ白だし傾いているし。一応、この場で最も階級が高いのは准将であるリュエルなので、中隊の面々は百面相をして笑い出すのを堪えている。が、リンダが噴き出してしまってはその努力も水泡に帰した。


 リュエルやエルザ、ルカまでも笑っている。ナタリアにはよく分からなくて、けれどたぶん良いことなのだろう。そう思ったら、ふっと吐息がわずかにもれた。


「……ふ、ふう。あ、で、では行きましょうか!」


「はい。では、帝国へ」


 氷雪に閉ざされた死神と天使の生まれた地へと。




 ***




 かひゅっとアルバの喉が変な音を立てた。咳き込めば血がべっとりと手のひらに。身体が引き裂かれるような痛みに脂汗が止まらない。ずるりと壁に背中を委ねて座り込む。ここは、フライハイトにある特務部隊の本部、第七位使徒であるアルバに与えられた私室だった。


「……くそッ! やっぱ、時間制限タイムリミットが──」


 ライには近接戦闘では自分の方が強いのだと告げたが、それはあくまで限定的な話だ。とうに限界を迎えている身体では全力で戦えるのは五分がせいぜい。それを超えての全力での戦闘は不可能。アルバが自滅するだけだ。


「あそこで、ライを仕留めきれなかったのは、痛い、な」


 手札を見せてしまった上、向こうにはナタリアがついた。正直、アルバには切れる手札が残っていない。それに、ライばかりにかまける時間的余裕もない。ふと、笑顔を作り損ねたライの顔が脳裏をよぎった。教えた通りにライが笑おうとしたことに気づかないほど、アルバは愚鈍ではない。ぐっと拳を握りしめた。


「……ライ、ごめん。それでも、俺は──」


 たとえ何を裏切りあざむこうとも、やらなければならないことがアルバにはある。


 こんこん、とくぐもったノック音にアルバは立ち上がった。血の痕跡を拭い去り、軽薄な笑みを顔に貼り付ける。扉を開いて、外に出た。


「俺に何の用かなー?」


 仮面をつけた白金の髪の女がアルバを見上げている。仮面の隙間から、桃色の瞳が不安そうに揺れるのが見えた。


「大佐、第二位使徒様がお呼びです」


「オッケー、ありがと、十七ディセット。行って来るよ」


 副官に背を向け、ひらひらと手を振る。何にも気づいていないふりをして。


「……で、第二位使徒サマ、俺に言わなきゃいけないことない?」


 第二位使徒ソフィアの執務室にて。キリクに淹れてもらった紅茶を味わいもせず雑に飲み干し、アルバは涼しい顔でクッキーをむさぼるソフィアを睨んだ。


「なんじゃ。妾に罵ってもらいたいのか? 駄犬」


 凄まじい殺気がアルバの身体から立ち昇る。キリクが刀の柄に手をかけた。


「ふん、冗談じゃ、冗談。聞き流せ。……まあ、余裕があればそなたも流したじゃろうな」


 ソフィアが声を低めた。


「ふん、分かってんだよ、それくらい、俺だって……」


「そうじゃな……。すまぬ。《死天使ヘルエンジェル》の介入を許したのは妾のミスじゃ。リュエル・ミレットも存外にやりおるな」


 思いがけない殊勝な謝罪にアルバは一瞬動きを止める。少しくらいはこのロリババアも反省しているらしい。


「俺は再びライを追う。他にも戦力を回してくれると助かる」


「頼む」


 最後に茶菓子を口に放り込んで立ち上がったアルバにソフィアは声をかけた。


「そなた、仮面はもう被らぬのか?」


「ああ、もう必要ないから」


 使徒の白い仮面。八番以降のナンバーの実験体に被るよう渡されるものだ。アルバは潜入任務をしていたので、念のために身に着けていた。地下に囚われていたナタリアに会った時も。


「──それに、髪の色を変える必要ももうない」


 さらりとこぼれる白い髪。それが、アルバスと名付けられた所以だった。







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