ep.069 定命
外の空気を吸うのはいつぶりだろうか。いつの間にか、吹く風の温度は下がり、雨は雪に変わっていた。
赤茶色の髪がなびく。琥珀の瞳はやっぱり硝子のように透明でがらんどう。地獄で死を告げる天使、と呼ばれるほどに美しい少女の右手には、白い仮面があった。
ほたほたと雪が降っている。ぼたん雪だった。
ナタリアは雪色の仮面に視線を落として、じっと見つめる。第一位使徒の証だと言われて持たされたけれど、己が使徒でないことはナタリアが一番よく理解していた。
柔らかい雪の上で仮面を棄てる。音はどこまでも続く雪の大地に吸い込まれて聞こえない。耳が痛いほどの静寂に、真っ白な孤独の世界。
ナタリアが厳重に守られた檻の中から出されたのは、ある人間を始末するためだった。だから、鎖を解かれて、独りで外に放たれた。そして、フライハイトから国境付近へ移動し、現在は最後にその人間が目撃された戦場に来ている。レーヌエルベ、という名前の地だった。
二週間ほど前、レーヌエルベの要塞では激しい戦闘が行われた。暗殺人形に匹敵する殺戮兵器に対し、第七七中隊と特殊諜報部隊が共同で応戦。結果として、《
けれど、《
──《
白い雪の中、ナタリアは足跡を残して歩き続ける。降り積もる雪は自然に足跡を消すだろう。方角は分かっていた。あとは、進むだけ。
風はほとんど吹いていない。雪は真っ直ぐ落ちてくる。灰と白で描き出される視界も決して見通しが悪いわけではなかった。
そろそろ、レーヌエルベとシャデンの中間付近だろうと思われた頃、雪のカーテンの向こう側に小さな少年の影を見た。もう一度、レーヌエルベに仕掛けるのなら、この直線のルート以外は選ばないはずだ、と判断したナタリアは正しかった。複雑に物事を考えることをしない殺戮人形なら、一番早い道を選ぶだろう、と。
ナタリアの髪と同じ色の髪が雪で白くなっている。同じ色の視線が交わされた瞬間、殺戮人形は微笑んだ。まるで、天使のように。
「な、タ、り、ア?」
問われてナタリアは無機質な声で返答した。
「はい。わたしは、ナタリア・ガーデニアです。あなたの命を奪うよう、命令を受けました」
命令こそがナタリアをナタリアにする。命じられるままに、命を刈り取るのが使命。幾ヶ月も経て久々に与えられた任務は、ナタリアの暗殺人形としての感覚を呼び醒ました。けれどアリアに与えられた
「お、カあサん、ボくガ、なタりアにナったラ、なマえ、ヨんデくレるカな」
彼の言うお母さんが誰なのか、ナタリアには明白だった。そして、少年がナタリアと同じモノであることも。ボタンを掛け違えただけ。アリアの持つ残虐性を元々持ちえなかったナタリアとは逆に、少年はそれだけを持って生まれ落ちてしまったのだ。
「いいえ。それは有り得ません。あなたは暗殺人形ではないのですから」
「ナら、アんサつニんギョうニなル」
「不可能です」
少年の琥珀の瞳が揺れていた。濁った瞳の中で色々に光が渦を巻いている。好奇心、憧憬、あるいは微かな恐怖。ナタリアにはまだ、どれも分からない。そのまま、銃口を少年の心臓に向けた。
「……なラ、やっパり、ナたリアにナる」
「不可能です」
どウしテ。問い掛けが音になるより先に、殺戮人形はナタリアへ飛びかかった。一直線に、ナタリアの命を奪うために。けれど、ナタリアは眉をピクリとも動かさなかった。
銃弾は既に放たれている。少年が飛んだ瞬間にはもう引き金を引いていた。心臓を撃ち抜く軌跡、そこに殺戮人形は自ら飛び込むことになる。
新雪に鮮血が落ちた。
心臓を撃ち抜かれてなお、殺戮人形は止まらない。止まれない。身体が壊れ果てるまで殺戮人形が止まらないことをナタリアはよく知っている。刃のような手刀が少年の両手を切断した。
「ど、ウ、し、テ」
それが最期だった。ナタリアのもう一閃が殺戮人形の首を落とす。共和国軍と
「わたしの性能の方が、あなたの性能よりも優れているからです」
冷たい事実をナタリアの唇が告げる。事切れた殺戮人形には、届かない答えだけれど。
銀世界の中で、ナタリアの足元だけが紅い。ほたほたと積もる雪が少しずつ、少しずつ、少年の幼い身体から体温を奪い、覆い隠していく。
殺戮人形はぽっかりと目を開けたままでいたから、ナタリアはしゃがみこむと手を伸ばして目を閉じてやった。前にどこかでライがそうしていたから真似をして。触れた瞼から伝わる温もりの残滓が、ざわりとナタリアの胸を波立たせる。
暗殺人形でさえ、呼吸をする人間であるのだと、ライに教えてもらった。体温があって、鼓動があって、こころだって──。
なら、今ナタリアが壊したのは、小さな少年のこころもなのだろうか。ただ、アリアに振り向いて欲しかっただけの幼い弟の命を、こころごと握り潰してしまったのだろうか。
鋭く刺すような痛みが胸に走る。傷があるのかと何度も確認しても、どこにも傷は見当たらなかった。
「……わかりません」
呟いた声が震えたことを風雪だけが聞いていた。
「わからない、のです」
いたいのは、なぜ。
ナタリアはゆっくりと立ち上がる。頭にうっすらと積もっていた雪がこぼれて、少年の上に落ちた。
まだ胸は痛むけれど、ナタリアは独りで歩き出す。少しはライの助けになれただろうかと考えながら。
***
「……っ」
全身を駆けずり回る痛みに頭が割れそうだ。顔をしかめ、ゆっくりとアルバは目を開いた。白い天井に、点滴用のチューブが見える。
自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか。何もかもが曖昧で、分からない。分かるのは、悠長に寝ている暇など自分にはないということだけ。
包帯でぐるぐる巻きの身体を無理矢理動かして、身体を起こした。腕に突き刺さった点滴用の針を引っこ抜いて、寝台の向こう側に掛かっていた軍服を手繰り寄せる。少しだけ考えて、包帯も邪魔だと必要最低限だけを残して床に棄てた。紺色の軍服の袖に腕を通し、ネクタイもしっかりとしめて、立ち上がる。
「っ、さすがに、今回のは、キツいな……」
膝を折ってうずくまってしまいたくなるのを堪えて、アルバはゆっくりと息を吸って吐いた。壁に身体を半分預けたまま、扉を引いて病室を抜け出す。
見覚えのある廊下の様子に、ここがハルバトアの病院であることを理解した。殺戮人形に腹を抉られてから、ハルバトアに運び込まれたのだろう。
身体が軋んでいた。四肢を引き裂かんばかりの苦痛に顔を歪めて、浅い呼吸をする。せめて、鎮痛剤くらいは手に入れられたら。
咳き込むと、手のひらにべっとりと血が付いた。脂汗が額から滑り落ち、白くてつるりとした床の上に玉を作る。何かで手を拭くこともできないから、血を手の中に握り込んだ。
「……アルバ」
名前を呼ばれて背筋が凍える。壁に半分預けていた身体を起こし、ゆっくりと声の方を向き直った。血塗れの右手は背中に隠して。
「わー、見つかっちゃったー! 怒らないでエルザー!」
アルバはいつも通りの表情と声を作っておどけてみせる。けれど、エルザの顔にかかった灰色の雲は晴れる気配を見せない。
「──大量出血に、腹部切創、筋肉裂傷、内臓損傷」
「いやー、殺戮人形くんになかなか派手にやられたな、俺」
頭をかいて肩をすくめても、エルザの灰色の瞳は笑わなかった。首を横に振ったエルザはアルバの碧眼を見つめる。
「いいえ、殺戮人形からあなたが受けた傷は腹部の表層を抉るだけに留まっていたわ」
コツリコツリと軍靴が硬い床を叩く。エルザはもういつの間にかアルバの目の前にいた。アルバが背中に隠していた右手からぽたりと血が落ちる。
「ここの薬品室に向かっていたんでしょう? 鎮痛剤と包帯を使っていたのは、あなただったのね、アルバ。だって、数が合わないのよ」
「……」
少しずつ、アルバの顔から表情が消えていく。
「女の子と遊んでる、っていつも言っていたけれど、それは嘘ね? だって、あなたの身体はもう──」
「……やめてくれ」
低い声で呟いた。これ以上、暴かないでくれと願う。エルザが唇を震わせるのが、視界の端に映り込む。
「あなたの身体は、もう……。いいえ、初めから、戦える身体じゃないわ。このままずっと、病院のベッドに縛り付けておきたいくらい。立って歩けていること自体が不思議だもの」
「やめろ、やめてくれ、エルザ」
後ろ手にした右の指先から血が
「抵抗、しないのか?」
ぽろりと口から疑問の言葉がこぼれる。銃口を押し付けられてなお、エルザの顔に満ちる悲哀は消えない。
「……そんな身体を隠してでも、ここにいなければならない理由があなたにはあるんでしょう? なら、まだ、あなたは私を殺せないわ。それに、別に言いふらすつもりもないから……」
ははっ、と乾いた笑い声がこぼれた。
「甘いな、ホントに……、あまい」
けれど、エルザの言葉はどうしようもなく正しかった。今はまだ、この引き金を引くことはできない。
「……後悔するぞ」
エルザは眉を下げて微笑んだ。あまりにも寂しい笑みだったから、アルバは思わず息を止めた。
「そう、かもしれないわね。でも、今くらいは休んでいて。少しでも、治療をすれば良くな──」
銃を下ろして薄く笑う。呼吸ひとつでずきずきと身体が痛む。一刻一刻、時を刻む度に身体は壊れていっている。エルザなら、自分の言っていることが間違っていることくらい分かっているはずだ。一度ひっくり返した砂時計。砂は流れ落ちるだけで、もう二度と元には戻らないことを。
「──これはもう、治らないんだよ」
雨が降り出す前の空の色をした瞳が大きくなった。エルザがアルバに向かって手を伸ばす。けれど、その手は透明な壁にぶつかったみたいに途中で止まった。力なく落ちたエルザの手をアルバは目で追う。
「……なら、教えて」
泣き出しそうな掠れた声でエルザは問うた。
「あなたは……、アルバには、あとどのくらい残っているの?」
時間の話をしているのだと、主語がなくても分かる。アルバはほんのちょっとだけ考えるフリをしてから、口を開く。
「……一年、はもう無理だろーな。あーあ、最期まで騙しきるつもりだったのに、バレちったかぁ」
立ち尽くすエルザには、いつもの軽口は届かない。まるで世界が終わると告げられたような顔でアルバを茫然と見つめている。見ていられなくて、目を逸らした。
アルバは重い身体を引きずって、その場を後にする。後ろ目にエルザを見れば、彼女は氷の彫像みたいに立ち尽くしたままだった。壊れてしまいそうなのは、アルバでなくてエルザの方みたい。
それだけの心配をしてくれているのだ。そして、それを知っていたからこそ、余計に
「……困っちゃうなぁ」
呟いてみたけれど、とても薄っぺらく聞こえて自嘲した。
もうあまり時間はない。アルバの身体には確然としたタイムリミットがある。
──かつて、アルバがした選択の代償はあまりにも大きかった。
***
からからと車椅子の車輪が回る。共和国軍の頭脳の一部としてつくられた第二位使徒
「今日の軍議では色々なことが動くじゃろうな」
車椅子を押す手を休めないまま、キリクが肩をすくめる。
「動かすのはあなたでしょう、ソフィア」
「まあ、そうじゃ。根回しは済んでおるからな」
ふつりと会話が途切れ、ソフィアとキリクは重い扉を開けてくぐった。貴族の屋敷を思わせるような内装の部屋だ。壁には金の額縁で飾られた地図がかかっている。額縁も地図も年季が入った様子だ。
中央の机に並ぶ人間は、共和国軍の上層部の中でもさらに上のひと握り。文官であるディエゴ・マクハティンはここに席を持たないが、この席に座る資格のある人間はいずれも共和国の趨勢を定める決断を行う力を持っている。
六つある席はすべて埋まり、空白をひとつ残していた。席の埋まり具合を見れば、ソフィアが最後に入室したことは明らかだった。
「皆揃ったことだ。始めよう」
そう言って口火を切ったのは、老年の陸軍大将、ギリンデル・ワルドだった。
「我々共和国軍は帝国軍兵器、殺戮人形によって辛酸を
「《
割り込みも甚だしく、レヴィン・マイルズ海軍大将が声を上げた。小さな目でねめつけるように陸軍の面々を睨む。話を遮られたギリンデルは渋面を作った。
「まあ待ちたまえ。我々は《
よく整えられた髭を弄りつつ、ヨアヒム・ベステラチオ陸軍大将が発言する。《
「試験データ及び遺伝子調査の結果から、《
「ああ、私もそう聞いている。かなり慎重にデータ収集が行われたことも踏まえれば、かなり信憑性は高いだろうな」
思い思いに《
「……《
老年の男ばかりで構成された議論の場で、ソフィアの高い声はよく響く。だからこそ、その発言で議論の流れを誘導するのに向いている。
「元はと言えば、《
「それに、《
「そうだ、《
いかがかな? 彼の上官としては。
と、いささか意地の悪い質問のあと、ソフィアの上に視線が集まる。金の瞳を細め、ソフィアは微笑んだ。
「《
ギリンデルが顎を撫でて頷く。
「その一環として、貴官の部隊にハルバトアでの謹慎措置を取ったことは記憶に新しい」
「じゃが、《
地図が掛けられているのとは逆の壁に全員の視線が移る。そこに据え付けられたモニタに、番号が振られた扉の並ぶ通路を歩くライの姿がぱっと映し出された。
ざわり、と動揺が走った。ソフィアは無表情の裏で彼らを嘲笑う。
ここにいる誰もが帝国の兵器を恐れている。暗殺人形を軍に置くことを誰よりも恐れた人間たちだ。いつ牙を剥くかと震えながら生きているのだから、滑稽だ。しかも、従順なうちはどれだけでも使い潰してやろうと考えるのだから、愚かしい。
「《
「これで分かったはずだ! あれを所持するのには無理があったと!」
「特務に今からでも押し付けたいところだが」
「やつらにまた力を与えるのか? こちらで処分する方が妥当だろう」
ソフィアの微笑みが深くなる。彼らの恐れが導くのが、ソフィアの求めた答えだ。
しばらく落ち着きのない議論、というよりは疑念と不信が渦を巻いていただけなのだが……、が交わされた。そうして、再び静けさが部屋に戻る頃には結論が出ていた。ソフィアはただ、それまで見守っていただけ。撒いた毒が回るのを高みから見物していただけ。
ギリンデル・ワルド陸軍大将は重々しく口を開いた。
「《
そして、自己保身に忙しい彼らがソフィアに委ねるところまでも想定内。
「承ろう。既に手は打ってあるゆえ、あとは妾が
──そう、賽は投げられた。
からからと少女が嗤う。今、とても気分がいい。だってそうだろう、何もかもが自分の手のひらの上なのだから。悦に入って、部屋に戻ってからは、キリクの淹れた紅茶にいつもよりちょっぴり多めに砂糖を入れた。まあ、普段から砂糖は溶け切っていないので、最後のじゃりじゃり分が増えただけなのだけれど。
「あとは、第七に動いてもらうだけじゃな」
ふう、と息をついて高ぶっていた気持ちを落ち着ける。甘ったるい紅茶も感情を平らげるには役に立つ。
「少し……、性急じゃなかったですか?」
紅茶のカップを傾けながらキリクが呟く。補足しておけば、キリクの紅茶は無糖だ。
「確かに、本来なら帝国の
ソフィアがティーカップを揺らせば、砂糖の塊が底で崩れた。紅い水面にソフィアの顔が映り込む。
「……じゃが、武器にも寿命があろうて」
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