ep.067 極星の導き
「久しぶりの出動だな、アルバ」
支給された紺のコートの袖に手を通し、ライは軍靴でとんとんと床を叩く。隣ではアルバがコートの胸ボタンをとめているところだった。
「ああ、怠けてる身体を動かしてやらないとな」
ハルバトアでの滞在にすっかり慣れきった面々は、病室だった部屋をそれぞれ勝手に使っていた。食堂は特殊諜報部隊の面々の溜まり場で、軍服を椅子に引っ掛けてのんびり食事を摂ることにも使われる。そうして今日は普段よりも早く、早朝からパンやらを紅茶で流し込んでいたわけだ。
エルザは常に持ち歩いている銀のアタッシュケースの中身をごそごそとまさぐって、最終確認している。どうせ、いつも通り手榴弾と包帯を同じ場所に入れているのだろうけど。ルカとは言うと、さっさと朝食を終えるなりどこかへ行ってしまった。
「……まあ、時間までには来るだろう」
呟いて、ライは装備の確認をする。歪みは許容範囲、弾倉の数も普段より多く持ったし、ナイフも数本用意した。あとは、暗器もいくらか。
これから、戦うのは共和国を震撼させた殺人鬼だ。殺人鬼はたった一人で一個中隊ほどの人数を一週間もかからずに壊滅せしめた。名前を奪うために殺すのだと報告にはあったけれど、ライには殺人鬼の容姿についての報告の方が気になっていた。
赤茶の髪に、琥珀色の瞳の少年。
ナタリアと同じ色だと知ってハッとした。高い戦闘能力を考えれば、ガンマに縁のある人物である可能性も高い。なら、彼を討つべきなのはライかもしれない。
ポケットに突っ込んだままの白銀の徽章を握った。この部隊の隊長である証のようなものだ。前に隊長をしていた誰からかの贈り物。それは人の命を奪ってばかりだったライの肩に、他人の命に対する責任を乗せていった。暗殺人形のままであればありえなかった重みに、ライは己が変わったことを確かめる。どこか輝かしいこの気持ちを、誇らしい、と呼ぶのだろうか。
「センパイ」
病室の扉にルカは呼びかけた。
ライたちには、ルカがいつものようにリュエルが眠る病棟の入口に佇んでいると思われていることだろう。そう思ってもらえるように、リュエルに呼ばれたあの日から病棟の入口でぼんやりする様子を殊更に見せるようになった。……まあ、もちろんリュエルの指示で、なのだが。
「おはよう、ルカ」
控えめな音を立てて扉が滑る。隙間からルカはするりと部屋の中に入った。リュエルは病人の着る簡易な服装のまま、ベッドの縁に腰掛けて微笑む。
「……センパイ、メガネ掛けなくて大丈夫っすか」
「あ! え! なんか今日ルカがボヤけて見えるなって思ったんだけど、そういうことだったんだ!」
「ちなみにメガネはセンパイの頭の上っす」
あわあわと手を動かして奇妙な動作をしていたリュエルは、ルカの助言に照れ臭そうに笑って咳払いをした。
「あはは……、ありがとうルカ……」
ルカはにやっと笑って八重歯を見せる。賢いのにリュエルがドジなのが不思議でならない。まあ、それがいいんすけど、と勝手に考えたのが、リュエルに伝わっていなければいいのだけれど。
「よし、これで本題に入れるね。閣下の采配で、特殊諜報部隊はカイル・ウェッジウッド率いる第七七中隊と手を組んで殺人鬼退治に当たることになった。……ここでいう殺人鬼はルカが共和国に呼び込んでくれた殺戮人形のことだね」
「早速色々暴れ回ってるみたいっすね」
リュエルの澄んだ水色の瞳が曇った。リュエルが本当は誰も死なせたくないと思っていることをルカはよく知っている。それでも、この手を打ったのはそれ以外に手がなかったからなのだろう。
「……うん。閣下はこれをきっかけに、革命軍に特殊諜報部隊を組み込むための手段として共同戦線を張ることを提案された。カイル・ウェッジウッドの理想は私の理想と同じ。だから、この手順は私にとっても必要」
「なるほど。何かボクにできることはあるっすか?」
「今回は特別頼むことはないよ。でも、気をつけて任務に行ってきて。私には閣下が何を考えているか、まだ分からない。何かが仕組まれている可能性だってある。そうでなくても、殺戮人形は危険すぎる」
ルカに不安を与えないように毅然とした口調で話していたリュエルだったけれど、最後の一言はほんの少しだけ震えた。もしも、殺戮人形にルカが殺されて、そしてあの少年がリュエルにルカと名乗ったとしたら……。テキトーにつけた名前でもそれは嫌だとルカは思う。
「大丈夫っすよ。隊長も大尉も中尉いるんすから。困ったら全部隊長に投げるっすから。そのための戦力っす。隊長に
「それは確かに……」
くすっと笑ってから、リュエルはルカを手招いた。
「ん?」
何も分からないまま、言われた通りに距離を詰める。えいっ、という可愛らしい掛け声のあと、ルカの身体は温もりに包まれた。ルカは死んだ魚の目だとか言われる黒い目をいっぱいに見開く。
「は、はい、お、おしまい! に、に、任務がんばって!」
ルカの頬をリュエルの髪が撫でて、身体に回されていた腕が解かれる。ぽかんとしたルカを残して、温もりが冷めていく。
「せ、んぱい? 今、何を……」
耳まで真っ赤になったリュエルは手を振る。さっさと出ていけということか。はっ、と浅く息を吐いて、ルカはふわふわとした足取りのままリュエルの部屋を出た。
頬に手を当てると、なんだか熱い気がした。
***
カイル・ウェッジウッド率いる第七七中隊が駐屯しているレーヌエルベの前線基地。ライたちがそこに着いたのは夕方近くになった。
風花が傾いた陽の中で煌めく。レーヌエルベの要塞は氷雪に覆われた地面に長い影を引いていた。
帝国と共和国の国境に位置するレーヌエルベは基本的には荒地であり、遮蔽物も少ない地域だ。この地に陣取る要塞は、共和国の中で最も
ライは目を細め、太陽が地平線にとぷんと沈む姿を見送る。残照の温もりですら誤魔化せないくらいに空気は冷えていた。ここは帝国との国境近く、つまり共和国最北。寒さは帝国ほどではないにしても、真冬のレーヌエルベは真っ白に化粧されている。
「さみぃーっ! やだー! かえるー!」
お子さまもかくやとばかりにアルバが不平を鳴らす。エルザが白い息を吐きつつ、アルバの耳を引っ張っている。ルカはといえば、軽い足取りでてんてんと雪に足跡を刻んでいた。
「ここまで来てくださってありがとうございます、特殊諜報部隊のみなさん!」
ライたちを出迎えたのはカイル・ウェッジウッド……と、たぶん抜けている上官を放っておけなかった部隊の面々だった。四、五十代に見えるしかめっ面の男、ライより少し歳上らしき褐色の肌の男。紺青の髪の男はなぜか眠そうで、短い髪の小柄な女性兵士は蜂蜜色の瞳を好奇心で爛々と光らせている。
「……こりゃまた愉快そーな」
ライの隣でアルバが呆れ半分で呟いた。エルザがその背後で肩を竦めたのだが、アルバは少しも気がついていないようだった。
要塞を案内された後、作戦室でライたちには温かいレモネードが振る舞われた。さっぱりとした甘さと程よい温度に腹から身体が温まる。
「おいしい……。用意してくださって、ありがとうございます」
一応、公的に第七七中隊との共同作戦を行うわけなので、ライは言葉を選んだ。カイルがにへらっと笑って、首を振る。
「いいえ、こちらこそ。俺たちの頼みに応えてくれてありがとうございます。みなさんの滞在中は、俺たち何でもするので、遠慮なく言ってくださいね!」
と、そこでカイルの隣に立っている褐色の肌の男性士官がカイルの脇腹に肘をのめり込ませた。
「ぐぇっ……、何するの、イシュア中尉……」
イシュアと呼ばれた男はライたちを鋭い目つきで眺め渡す。それからライたちには声を潜めてチクチクお小言が始まった。
「隊長、俺たちは名前も聞いたことのない怪しい部隊のパシリじゃないです。変なことを約束するのはやめていただきたいです」
「俺の恩人さま方なんだよー! しかも頼もしい助っ人!」
「それでも、です。素性の分からない怪しい部隊を簡単に信用はできません」
声を潜めているとはいえ、耳のいいルカにはもちろんのこと、ライにもそのやり取りは丸聞こえだ。
「……自己紹介すればいいのかな、とりあえず」
「それと、素性不明怪しい部隊認識は関係ないと思うっすよ、隊長」
こほん、とエルザが咳払いをひとつ。全員の視線が彼女に集中すると、エルザは手を口に当てておっとりと微笑んだ。
「素性が分からなくて怪しい部隊なのはひとまず置いておいて、お互いに自己紹介くらいはしておきましょ?」
穏やかな微笑はなぜか凄みに満ちていて、イシュアすらも即座に黙らせた。
「はい! ですね! 俺はカイル・ウェッジウッド大尉です。第七七中隊の隊長を務めてます! よろしくお願いします! あと、どうぞ、特殊諜報部隊のみなさんは楽に話してください!」
……まあ、エルザの放つ凄みに気づかない大物が約一名いたのだけれど。
「俺はライ・ミドラス少佐だ。君たちとの共同作戦をすることになった特殊諜報部隊の隊長をしている。あらためて、よろしく」
楽にしていいと言われたのでいつも通りの口調に戻す。カイルはにこにこしながら、しかも首がもげそうな勢いで相槌を打っている。
「で、俺はアルバス・カストル大尉。前にもカイル・ウェッジウッド大尉には会ったな。俺のことはアルバとでも呼んでくれると嬉しい」
「私はエルザ・レーゲンシュタット中尉よ。一応医務官なので、治療なら任せて。爆破も得意よ」
「なるほどなるほど、爆破、良い特技ですね!」
大真面目に頷くカイルを見て、イシュアが天を仰ぎ、静かにやり取りを見守っていた四、五十代の男は眉間のシワを揉み始める。
「最後はボクっすね。ボクはルカ・エンデ准尉っす。特技とかじゃないっすけど、耳は良い方っすね」
「ふむふむ、ふむふむ……。耳が良いの羨ましいな。じゃあ次はうちかな」
カイルが顔を上げ、イシュアに目をやった。イシュアは観念したような溜息をついて、口を開く。
「イシュア・ザルツバルク中尉です。副隊長をしています」
それだけなの?、と言わんばかりの顔をカイルがするが、イシュアは知らないフリを決め込んだ。
「……ふん、私はロレンス・ガーデナー。階級は中尉だ。ザルツバルク中尉と同じくウェッジウッド大尉の補佐をしている」
ロレンスの吐き出す煙草の白い煙が宙を漂う。ライは思わず、煙を目で追った。薄れて消えて、見えなくなるまで。
「さてと、とりあえず首脳陣、これでいいのかな?、まあいっか、うん、首脳陣のみなさんにここに集まってもらったわけなんですが、早速現状の確認から入っていきましょー!」
ピクニックでも始める気楽さでカイルが拳を突き上げた。楽しそうにアルバも一緒に拳を振っているので、ライもとりあえず倣ってみる。
「おー!」
「まず、殺人鬼。便宜上、《
たった一人の人間が戦況をひっくり返した。驚くべき戦果だ。それができる人間が帝国に存在するのなら、暗殺人形と名前がつくかもしれない。
「……というわけで、次に狙われるとしたらシャデンとほぼ同緯度に存在するレーヌエルベだろう、と上は考えたようです。この要塞の司令、キャロライン中将は、一番下っ端でペーペーの俺たち第七七中隊を《
そして、ライたちに泣きついて、《
「《
「《
初手を封じれば戦線の崩壊は避けられる。だが、問題は封殺できる相手であるか否か。いずれにせよ、ライたち特殊諜報部隊が《
「……諜報部隊にそれだけの戦力があるのですか?」
イシュアが疑問を呈す。人数の少ない一介の諜報部隊が、基地一つを恐慌の淵に叩き落とした殺人鬼をどうにかできるとは信じられないといった様子だ。
「ある。諜報部隊って言っても、俺たちは戦闘能力の高さを買われてここにいる。というか、普通の軍隊では扱い切れないと判断されたからこの部隊に配属された。ただの兵たちが殺人鬼にワラワラと挑むより、俺たちがやる方がずっと有効だ」
アルバはそう言って、ライの肩を叩いた。つまるところ、ライがいれば無敵、という話らしい。
「というわけで、俺たちに任せてほしい。《
イシュアの表情は依然として懐疑的なものだったが、ライの言葉に渋々と頷いた。任せる以外の選択肢はそもそもないのだった。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。そちらはお任せします」
ロレンスはほぼ終始無言ではあったが、異論はないようだった。まあ、合意の空気にしてはいささか寒すぎる気がするけども。
「みなさんには長距離移動をしてこちらに来ていただいたばかりなのに、もう作戦開始になってしまうのは申し訳ないところなんですが、開始時刻になるまで少しでも休んでくださいね!」
カイルは一息にそう言って、イシュアとロレンスを引き連れて部屋を慌ただしく出ていった。残された四人は大きな息を吐く。一応休むための寝台なんかは先立って案内されていたので、カイルをあえて引き止める必要はなかった。
「移動と作戦の時間に空きがないのは、私たちの体力への信頼と、それから敵に《
「それはわーってるんだけどさー、ひどくない? 俺ら四人でナタリアちゃん似の殺人鬼を相手するんだよ?」
アルバが頬をテーブルにくっつけたまま返答する。ライはやはり、殺人鬼がナタリア似であることがずっと気になってしかたがない。そして、それは同時にここにはいないナタリアへ意識を向けることになる。
「ナタリア……、大丈夫かな……」
「今いてくれたら、戦局も少しはラクになりそうなもんっすけどね」
ルカは呟く。思い返すのは、以前ナイフを交えた殺人鬼──殺戮人形の姿だ。あれだけ似ていれば、ナタリアとの血縁関係があると考えてもいいだろう。同時に、殺戮人形の高い戦闘能力を証明することになるけれど。まともに戦えて、ライで五分ちょっとといったところか。もしもナタリアがいれば、五分が九分、いや十分になるかもしれないか。
「いずれにせよ、俺たちは俺たちにできることをするしかないな」
アルバの気怠げな言葉で、面々は色々と諦めがついたりつかなかったり。しばらくの休息を挟んだ後、椅子にかけていたコートを羽織って、ライたちは戦場となるべき場所へと歩き出した。
「あとは、部隊に通達ってところか。一番危険な役目をライ・ミドラス少佐たちに任せてしまったから、俺のとこも頑張らないと」
カイルはせかせかと灰色の廊下を歩きながら呟いた。既に夜は深まりつつある。第七七中隊はとっくに外で整列し、カイルの指示を待っている頃だろう。
「大丈夫なんだろうな?一つの基地を単独で混乱させた殺人鬼があの人数で押さえられるとは考えにくいが」
イシュアとカイルの後ろを歩いていたロレンスがおもむろに尋ねた。
「おそらく大丈夫です。《
イシュアが足を止めてカイルの顔を凝視する。俺の顔に穴開けても何も見えないぞ、とカイルは言って笑う。すると、ぱこんと頭を叩かれた。
「ふざけないでください、共和国最高の暗殺者があの中にいるってことなんですか!?」
「いてて……、うん、そうだけど?」
「……ふん、貴様はいつもそう、とんでもない物を引いてくるな……」
ロレンスまでも動揺を隠しきれていない。カイルには、自分のしでかしたことの重大さに対する自覚が常に足りないのだった。
「ライ・ミドラス少佐が《
「ですが、彼らは信用に足る相手なんですか? 俺たちは──」
イシュアが言わんとしていることをカイルは即座に理解した。ソフィアとともに革命軍として立つと決めた日から、第七七中隊は叛意ありとそしられてもおかしくない立場になった。もしも、特殊諜報部隊が軍の上層部と密接な関係にあれば、暴かれて処罰を受ける可能性も否めないのだ。
「大丈夫だよ。彼らは《
まだ疑念を拭いきれないイシュアだったが、ここで思わぬ助け舟を出したのはロレンスだった。
「ウェッジウッド大尉の勘はよく当たる。用心は必要だが、用心をしすぎて宝を失っては元も子もないだろう」
「ロレンス中尉……!」
きらきらとした目でロレンスを見つめると、しかめっ面を一層深められてしまった。
「……ウェッジウッド大尉には慎重さと内省がやはり足りないようだな」
複雑な構造の廊下を越えて触れた外気は、凍えるほどに冷たかった。防寒着を着込んでいるとはいえ、寒いものは寒い。うっかり手袋をはめ忘れていたのも原因の一つなのだが。
カイルは白い息を吐きながら手袋をはめる。共和国でこれだけの雪が降るのは十数年ぶりだ。寒さに慣れた帝国兵と、このコンディションで戦火を交えるのはできれば避けたかった。けれど、状況は四の五の言っていられるほどの余裕はない。
ブーツの下で雪がざくりと音を立てる。昼間に溶けかけていた雪は夜の冷気で凍りつく。滑りやすくて足場は悪い。それは、たった今、つるっと滑りかけたカイルが実証した厳然なる事実だ。
冴え冴えと半分の月が漆黒に浮かんでいた。淡い月光は凍った地面で反射する。凍て空の星はいつもよりもずっと眩しくて、ひどく冷淡。
視界の端で星が流れた。
けれど、願いをかけるには、あまりに流れるのが速すぎた。見送るだけの流星に、目を閉じる。せめて少しでも網膜に焼き付けておきたかったから。
カイルは星を見るのをやめて歩き出す。イシュアとロレンスがその後を追って、同じように歩き出す音がした。
「行こう、みんなが待ってる」
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