ep.065 黎明に謳え

 夜明け前の空で星が瞬く。吸い込んだ空気はひりつくくらいに冷えていた。エヴァンの目の前には燻る瓦礫の山と殺戮人形の影。はあっと吐き出した息は白くたなびいて消えていく。顔にこびりついた泥をかじかんできた指で拭った。


 長い黒髪の男が両手にナイフを握って歩いている。エヴァンたちを追い越して、どこか愉しそうにすら見える横顔の残影がエヴァンの目に焼き付く。軽やかな足取りで、彼は殺戮人形へ真っすぐ歩いて行く。


 金属音が凍て空に鳴り響いた。


 手負いの殺戮人形が嗤っている。殺戮人形が振りかざした金属片を、男は右手のナイフで危なげなく受け止める。空いている左手が握るナイフがくるりと回った。胴を薙ぐ一閃。しかし、直前に攻撃の予兆を察した殺戮人形は距離を取って躱していく。立て直す時間は与えないとばかりに男は躊躇いなく殺戮人形の懐に踏み込んで、腕の腱を狙いに行った。


「なニ、おマえ?」


 首を傾げて殺戮人形は腕を振った。破砕音が男の握るナイフから発せられる。銀の輝きが舞う中、男の黒髪が翻る。殺戮人形の足が距離を詰めていた男の胴を捉えた。


「──がっ、はッ」


 吹き飛ばされた男は地面に叩きつけられる直前で体勢を立て直す。そして、雪泥を両足でがりがりと削って着地する。それでもまともに喰らった一撃のダメージは大きい。男は地面に膝をついて唇の端から垂れた血を適当に拭う。


「っ……、やっぱボクだと分が悪い……っすか」


 男が呟いて、立ち上がる。濁った琥珀の瞳を巡らせて殺戮人形が男へと飛び掛かった。幼い身体でも、肉体ごと兵器として編まれたそれはどのように振るわれたとしても男の身体を切り裂くだろう。鋭い手刀が男の喉元に迫る。


「……本当に、ナタリアに見た目はそっくりっすね」


 男はそう言って嗤った。殺戮人形の手が手刀から形を変える。喉を掴まれ、咳き込む男に殺戮人形は顔を寄せた。


「なタりア、シってル?」


「知ってる、っすよ。あんたと同じ髪と、目の色をした、女っす。あん、たは彼女を、探してるん、すよね?」


 そウ、そウ、と目を輝かせて殺戮人形が頷いた。男は八重歯を見せて嗤う。


「ナタリアは帝国にはいないっす」


「じゃア、どコ?」


「ナタリアは、共和国に、いるっすよ」


「きょウわこク……」


 ぱっと殺戮人形の手が男の喉から離れた。激しく咳き込みながらも男の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる。エヴァンは何も分からないまま、殺戮人形が離れていく姿と呼吸を落ちつけている男を交互に見やった。やがて男は振り返ってにやりと黒瞳を笑ませる。


「お疲れ様っす。これで、たぶん殺戮人形はもうあんたたちを狙わないはずっす」


「……あなたは誰だ? 何が目的だ?」


 唸るように問いかける。ヘッドホンをしていても音はしっかりと聞こえているようで、男は肩をすくめて口を開いた。


「ボクは共和国軍所属、ルカ・エンデ准尉っす」


「共和国軍?」


 意味のない訊き返しだとは分かっていた。効率的ではない。けれど、馬鹿みたいにエヴァンは目を丸くしてしまう。ルカはエヴァンの反応をさも当然とばかりに受け流して頷く。


「そうっす。……まあ、ボクがここにいるのは共和国軍の総意でもなければ正式なものでもないっすけど」


「……なぜ、僕らを助けた?」


 ルカは頭を掻いて首を傾げた。


「いやー、ボクもキチンとした理由は分からないっす。ボクのあるじはこれを先行投資だって言ってたっすけど」


 あっけらかんと言って手をぴらぴらと振る男が嘘をついているようには見えない。エヴァンは深く息を吐き出し、ヨゼフの方をちらりと見た。


「ってことは、お前らは共和国を引っ掻き回そうとでもしてるってことか?」


 エヴァンの期待通りにヨゼフは危険な問いかけをする。ここまで直接的とは思っていなかったけれど。ぴり、と刹那の緊張が弾ける。


「それ、面白そうっすね。ボクはボクの主が何をしようとしているかは知らないっす。でも、……共和国引っ掻き回すのはなかなか面白そうじゃないっすか」


 肩を揺らして悪戯小僧のように笑う姿はエヴァンよりも幼く見えた。


 どうやら共和国も一枚岩ではないらしい。


 今まで帝国とアリアのことばかりで外を見ていなかったエヴァンに、ルカは新しい視座を与えていく。彼のほんの一言で、エヴァンは己の見ている世界が世界のほんの一部だと知る。そうして、拓かれるのは可能性。


 もしも。


 もしも、共和国にも反政府勢力があるのなら。


 彼らと手を組む未来だって、存在し得るという可能性。


 ルカの主が何を見ているかを推察する手段をエヴァンは持たない。けれど、その人が今選ぼうとしているのは、間違いなくこの終わりなき戦いに風穴を開ける選択だ。


「……面白いな、それは確かに」


 エヴァン?、と困惑した声をヨゼフが上げる。そんなヨゼフを思いっきり無視して、エヴァンは唇を吊り上げた。


「ルカ・エンデ准尉、僕らを助けてくれてありがとう。僕の名はエヴァン・リーゼンバーグ。反逆軍リベリオンの創始者であり、その導き手だ」


「その歳で王、なんすね。聞いてはいたっすけど……うん、すごいっす」


「そうだよな……、お前すげーよ」


 なぜか便乗してくるヨゼフ。妙に真面目くさって真顔で頷いているものだから鳥肌モノだ。


「──ってぇ!? なんだよ、エヴァン! 人が褒めてんのに、なんで足踏むんだよ!」


 喚いているのがエヴァンの歳をおよそ二倍した歳のおっさんなのが嘆かわしい。エヴァンは冷めきった目でヨゼフを見上げた。


「すまない、無意識だった」


「あんたたち面白いっすね。ボク、そういう人間好きっすよ」


 ケラケラ笑うルカに、ギャイギャイうるさいヨゼフに、仏頂面のエヴァン。完全に蚊帳の外に置かれた臣下たちは、揃いも揃ってぽかんとしながら地獄絵図を眺めている。


 ごほん、とエヴァンはわざとらしい咳払いをひとつした。


「……ともかく、助けてくれたことには感謝する。それで、僕らは何をすればいい?」


 まさかただ単にエヴァンたちを助けにきたわけではないだろう。見返りのない好意ほど怖いものはないとも言う。エヴァンの探るような視線に、ルカの黒瞳が弧を描いた。


「何も。ただ、ボクのことを覚えていてくれるだけでいいっす。うーんと、あとは死なないでくれればそれでいいっすね」


「それ、だけ……?」


 拍子抜けして間抜けな表情になってしまうのを自覚し、エヴァンは唇に力を入れる。見返りのない好意と言っても過言ではない条件だ。そう、一番恐ろしいはずの。


「そうっす。きっとあんたは見返りのない好意だと思って警戒するはずっす。でも、それは心配のしすぎってやつっすね。たぶん、ボクらは同じ方向を向いてるはずだから」


 エヴァンの心を読んだかのようにルカは言う。


「……その言葉は、あなたの主のものか?」


 黒髪の男はこくりと首を動かした。ほんの少し誇らしげな表情で。けれど、それもわずかな時間。ルカはひとつに結わえた黒髪を翻して踵を返す。


「最後にひとつ訊いてもいいか? あなたの主の名を知りたい」


 ルカの足が、ざりと土を削る。エヴァンを振り返るその顔は、ひどく冷たい笑みを浮かべていた。軽蔑とも無感情とも違う、どこかどろりとした醜さを孕んだ薄暗い笑み。執着、という方が近いかもしれない。彼にとって、彼の主は他の何とも異なる特別なのだと言外に知らしめる。


「──リュエル・ミレット」


 一言残して、ルカは歩き去る。暁に長い影を伸ばして、黒い姿は消えていく。


 朝焼けが涙で滲んだ。藍から淡い紅へ移ろう空の端に新しい陽が顔を出している。消えていく星に、終わる夜に、こんなにも喜びを感じるのはなぜだろう。王になり、戦いを始めてからというもの、いつ死ぬともしれない夜を幾度も過ごしてきた。朝焼けを目にする度にほっとしながら、積み上げてきたすべて。それでも、今日の朝はずっと特別な気がした。


 眩しい。天を焼く火に目を細める。と、同時に視界がぼやけていく。空がひっくり返って、遠くでべしゃりとぬかるみに落ちる音がした。燈赤色の瞳がぼんやりと曇った視界に映る。朝一番の太陽みたいな色だなと呑気に思って……。




 重い瞼に力を入れる。自分のものでないように感じられた瞼は、少しずつエヴァンの身体の一部として働き出す。ゆっくりと開かれた湖水の翠が見たのは、泣き出しそうな顔をした灰色の髪の男だった。


「エヴァン!」


「王さま!」


 ヨゼフの声だけでなく、他にも臣下たちの声がざわりざわりと聞こえてくる。何の意図を持って発された言葉なのだろう、と覚醒したばかりの頭で考えた。


 負傷した者を治療する診療所としてエヴァンが設けた部屋は狭い。けれど、横たわったままのエヴァンでさえ感じ取れるほどに多くの人の気配がひしめいている。診療所でこんなに多くを看ることはできないはず。それともあふれるくらいに負傷者が多いのか。それは違うと仮説を棄却した。だって、エヴァンを覗き込んでいるのはヨゼフだけではない。不安のような、安堵のような、妙に温かみのある視線に晒されて身を硬くする。


「大丈夫ですか?」


「身体は平気か? お前、三日間も寝てたんだぞ」


 やっと気がついた。彼らは倒れたエヴァンの身を案じているのだと。


「……な、んで」


 分からない。エヴァンは彼らに何度も死を命じた。いつかすべての命を無謀な戦いで消費し切ってしまうかもしれないのに。死を命じる冷徹な王であろうと心を閉ざしたのに。瞳を凍らせたのに。


「……ぼ、くに、だれか、に、心配される資格なんて、ない、のに」


 それでも、うれしい、なんて思ってしまった自分は罪深いだろうか。


 目頭が熱くなる。喉が変な音を立てる。ぼろっと目からこぼれ落ちた雫の正体に気づいて愕然とした。前に泣いたのはガンマに家と両親を燃やされた時が最後だったから。拭っても、拭っても、一度決壊した涙は止まらない。


「……な、ん、で」


 どうして僕は泣いているのだろう。


「エヴァン」


 伸ばされた大きな手に頭を撫でられる。ぼろぼろと泣きながら、ヨゼフの胸を殴った。へなへなの拳を受け止めてヨゼフがまばたきをする。


「……やっと、当たった。この、野郎、どう、してくれるんだ! がんばって、みっともないとこ隠してたのに!」


 返事は豪快な笑い声だった。おかしくて仕方がないと言わんばかりで、むっとする。目尻に涙をいっぱいに溜めたまま、エヴァンは顔を上げてヨゼフを睨んだ。


「わらうな!」


「ハハッ、いいんだよ、それで。人であることをやめたお前とより、人であることを選んだお前と俺たちは戦いたい。お前が抱えきれない分は俺たちが拾って歩くから、だからお前は誰よりも欲張って全部持っていけばいい」


 あの夜明けに、誰もが少年の薄い背に明日を見たのだから。


 エヴァンは目を見開く。転がった雫はそれで最後。


「……いいの? こんな、僕がひろっても?」


 ああ、と自信たっぷりに頷かれてはもう疑うこともできなかった。泣きはらしたみっともない顔で周囲を見渡す。名前も顔も一人一人覚えた臣下たち。みな使い捨てだと覚悟したけれど、ほんとうはもっと同じ時間を共に過ごして同じ未来を見ていたい。


 彼らの眼差しを信じてみたい。


「訊いても、いい?」


 翠の瞳がさざめく。


「こんなにも弱い僕だけど、一緒に帝国と戦ってくれるかな?」







 ***







 時間はエヴァンとルカが出会うよりも前にさかのぼる。


 共和国領ハルバトア、特殊諜報部隊の現在の本拠地である病院にて。


 木枯らしが木々の葉を散らしていく様子をルカは窓から眺めていた。廊下の窓から見えるのは日々裸になっていく木立だけ。頬杖をついて、頬を膨らませてしぼませる動作を益体もなく繰り返す。


「……つまんないっすよ、センパイ」


 リュエルはあの白い病室からずっと出てこない。あんまりにもルカが通うからか、リュエルの病室に入ることを禁じられて久しい。だからこうして、ずっと手持無沙汰で拗ねていた。


 リュエルの病室は幾重もの扉を抜けた先にある。そのいずれもでエルザの生態認証が必要で、エルザ以外はリュエルに近づけないようになっていた。ところが、今日はアルバもエルザも出払っている。壊したりしてどうにか侵入できないだろうか、と考えて即刻歩き出す。そうして、ちょうど一つ目の扉の前で足を止めた。


「とりあえず、手とかかざしてみるっすか。うん、ダメな気しかしないっすけど」


 呟いて黒い手袋を外し、エルザがいつもやっているように手を動かす。赤い小さなランプが緑になればいいんだっけ、と記憶を探った。ぴ、と電子音が響く。ロックが解除される音がルカの耳に入る。見ればルカの手の側で輝いているランプの色は緑に変わっていた。


「開いた……?」


 今まで何度試しても開かなかった扉が一つずつ、ルカを鍵として開かれていく。状況が呑み込めないまま、ルカは明かりの絶えた通路を早足で進む。理由なんてどうでもいい、リュエルの元へ行けるのなら、と。


 こつこつと軍靴が歩みを刻む。静まり返った廊下でいくつもの扉を通り過ぎた。元は軍病院として最新の技術を扱う場であったから、どの扉にも機密情報や技術が多く眠っている。人によっては垂涎の宝物庫をきれいさっぱりルカは無視して、最後の部屋を目指す。


 軍靴の音が絶えた。


 蛍火のような光は足元だけを照らしている。その光を頼りにドアの取っ手に手をかけようと指先を伸ばす。手が震えていた。もしかしたら、という期待に胸が飛び跳ねている。もしかしたら、という不安に指先が冷える。唇を引き結んでスライド式の扉を開けた。軽い手ごたえで滑った引き戸は、何もしなくても薄暗い部屋に入ったルカの背後で閉まる。


 ぱちりと電気をつければ、前に見たままの光景がそこにあった。


 白の寝台でこんこんと眠る茶色の髪の女。目は固く閉ざされたままで、寝息を立てている。ひと月前と何も変わらない。——ほんとうに?


 ルカは静かにリュエルに近づいた。ヘッドホンを外して、目を閉じて耳を澄ます。心臓の鼓動が聞こえる。けれど、それは深い眠りに落ちている時のものではない。


「……センパイ、起きてるっすね?」


 リュエルからの返事はなかった。ルカは意地悪く唇を歪めて、寝台に手を載せる。ぎしっと寝台が軋んだ。


「ふうん、なら、キスしてもいいっすか?」


 吐息がかかるくらいリュエルの顔に顔を寄せて囁く。ぴくりとリュエルの長い睫毛が動いたかと思えば、ぷるぷると小刻みに震えている。堪え切れずにルカは噴き出した。遅れてリュエルが目を開ける。それは朝を迎えたばかりの澄んだ水色。


「……も、もう! へ、へんなことしないでよ!」


「顔真っ赤っすよ、センパイ。期待したっすか?」


「し、してないし!」


 ぷんすかしているリュエルの頬にそっと触れた。温かい。真っ赤な顔と潤んだ瞳から目が離せなくなった。ルカは頬に触れていた手を滑らせ、気がつけばリュエルの華奢な身体を抱きすくめていた。その肩に顔をうずめて呟く。


「……よかった」


「え、あ、な、ななにか言った?」


 言ってないっす、と額をリュエルの肩に載せたまま答えた。恥ずかしいと言って、しきりにルカから離れようとリュエルが身をよじる。それでもルカは両腕の力を緩めることはしなかった。逃がしたくない、離したくない、捕まえていたい。こんなにもどろどろとした黒い感情が自分の中にあるなんて、知りもしなかった。


「……っ、記録係」


 目覚めたリュエルへの感情を抑え、小さく呼んでみる。


「ん? 記録係って、誰のことなの?」


 顔を上げれば、ぽかんとした表情のリュエルがそこにいる。記録係、ともう一度、今度は口の中で呟いたけれど、彼女からの返事はなかった。リュエルの腰に回していた腕を解く。代わりに髪に触れて眉を歪める。肩口で切り揃えられていた茶色の髪は、今では肩にかかるほどの長さになっていた。


「そういう、ことっすか」


 あの日。頭を撃ち抜かれ、緋色の海に倒れていた記録係は掠れた声でルカに問うた。リュエル・ミレットと記録係、いずれかを選べと。そして、その答えが今ここにある。


「ねえ、ルカ。記録係って誰のこと?」


「……なんでもないっす。それより、一つ訊きたいことがあるんすけど、いいっすか?」


 リュエルは寝台の脇に置いてあった銀縁眼鏡を掛けながら頷く。きれいな水色がルカを見つめる。


「ひと月くらい前から、ある噂が流れ始めたっす。顔も名前も声も表に出さない指揮官がいると。《無名の魔術師アンシャントゥール》って呼ばれてるらしいっすけど、それはセンパイっすね?」


 ひと月ほどの活動期間で既に多くの戦果を上げたという戦の天才。最高の成果を最上の状態で手中に収めてみせた手腕は、正体が不明であるという事実すらどうでもよいと思わせるほどのものだった。未来が見えていると囁かれるほどの精度で人や物資を動かすことのできる人間が果たしてどれほど存在することか。活動開始時期を考えれば、リュエル以外にあり得ないとルカは半ば確信していた。


「あはは……。いつの間にか、すっごく恥ずかしい名前がついてるんだね」


 リュエルが照れ臭そうに微笑む。


「ルカの質問にきちんと答えるのなら、そうだね——」


 黄昏色の微笑みにルカは身体を震わせた。眼鏡の奥で細められた双眸に映るルカの顔は、何かを恐れているようだった。奇妙な支配力を帯びた視線がルカの顔を撫でていく。


「——私が《無名の魔術師アンシャントゥール》だよ。ソフィア中将から特命を受けたのが大体ひと月前だったかな。私は指揮官、参謀としての才能があるかどうかを試されて、今では指揮権を持たないソフィア中将に代わって作戦立案から実際の指揮まで任せてもらってるんだ」


「でも、だったら、何で名前を隠してるんすか?」


 優秀な軍人として名声を上げるのは、決して悪いことではないはず。リュエルほどの武勲を以てすれば、さらなる高みに上り詰めることすら夢ではない。


「私、というカードはまだ切れない。まだ、切るタイミングじゃないんだよ。私は《智恵の魔女ミネルヴァ》が用意した切り札のひとつなんだ。だからこそ、リュエル・ミレットが本当は起きていること、指揮権を持つことは秘されていなければならない」


「なら、なんでボクを呼んだんすか?」


 何をしているかまでは知らないかもしれないけれど、エルザだけはおそらくリュエルが起きていることを知っている。それでも、エルザはルカにリュエルの元へ訪れることを許可しなかった。それほど厳重に守られた秘密が幾重もの扉の向こうに隠されていた。なのに、開かずの扉は今日、エルザ不在の時に開かれた。ルカが取るであろう行動を的確に予想して。


「私がルカだけを呼んだこと、よく気づいたね」


 声音も表情も記憶の中のリュエルと全く変わらない。それなのに、なぜ、違うと感じるのだろう。戸惑うルカを手招いて、リュエルは白い部屋から出て行く。出て行きざまに、リュエルが患者が着るようのゆるりとした服の上から軍服を羽織って行く。


「これが今の戦局。やっぱり同時に多方面について考えるのなら、視覚化した方が効率がいいんだ」


 リュエルの生態認証で開かれた扉の向こうには、地図の広げられたテーブルがあった。ごちゃごちゃと周囲に積まれた資料の数々を踏まないよう、ルカは慎重に足を運ぶ。そうして覗き込んだ地図には帝国と共和国の全体が収まっている。杭のように打たれた画鋲ピンの色は、黒、白、赤、青の四色。黒と青は帝国に、白と赤は共和国にそれぞれ刺さっているが、青と赤の個数はほんのわずかだ。


「この色は……?」


「黒が帝国軍、白が共和国軍だよ。そして、青は帝国内部に存在する反逆軍リベリオンという組織。赤は、ソフィア中将が育てている革命軍」


「じゃあ、センパイは赤に属するってことっすか?」


 リュエルは首を横に振った。


「私はまだ、中立のつもり。立場的には革命軍派になるけど、まだ読めてない部分が残ってるから様子見かな」


 細い指先が黄ばんだ地図の端を滑っていく。視覚化した方が効率的だというのはあながち間違いではないだろうが、リュエルならばその必要すらないのではとルカには思えてならない。とすれば、この地図はルカに見せるためのもの。


 リュエルが無表情に地図を俯瞰していた。やはり以前の彼女とはどこか違う。今の冷めた目つきも、小さな嘘のつき方も。……それはどちらかと言えば記録係の持っていたものだ。


「……なんか、変わったっすね、センパイ」


「そう、だね。私も、たくさん人を殺した。私の言葉一つで何千、何万という人が死ぬ。どれだけ遠くても、数字としてしか結果が返って来ないとしても、引き金を引いているのはこの私。前と同じままではいられない」


 目を伏せて語っていたけれど、リュエルはルカを見ると淡く微笑んだ。手を伸ばせば頬に触られるくらい近くにいるのに、リュエルが遠い。


「……それでも。それでも、私の側にいてくれる?」


 利用されてくれるか、とリュエルはひどく傲慢な問いかけを放った。ルカの答えなんて、最初から知っているくせに。


「センパイは、いつもずるいっすね」


 返事の代わりに跪いてリュエルの手を取った。手の甲に口づけを落とす。びくっとリュエルの身体が跳ねた。見上げれば、リュエルは頬を真っ赤に染め上げて目をぎゅうっとつむっている。


「こういうとこは変わらないんすねぇ」


 ケラケラ笑っていると、抗議のように頭をぽかんと叩かれた。


「そ、それで! それで、ルカにはやってほしいことがあって!」


 リュエルは地図上の青の画鋲を指差す。それは反逆軍リベリオンのものだったはず。


「帝国側の情報も集めてたんだけど、あのグロモント抗争で治安局が滅んでガンマが表に出てきた——ここまではたぶんルカも知ってるね? それで、ガンマが後始末に追われている間に、今まで密かに活動していた反政府組織である反逆軍リベリオンが勢力を拡大させたの。そこで、地盤固めを終えたガンマは今、反逆軍リベリオンを粛清しようとしてる。でも、帝国を倒すのなら反逆軍リベリオンは私たちと共に戦う仲間になりうるかもしれない」


「だから、助けろってことっすか?」


「うん。でも、放たれている暗殺者はガンマですら手を焼くような人らしいの。それから、ナタリアという名前の人を探してるって」


 虚を突かれてルカは間抜けな顔になる。


「ナタリアって、あの?」


「そう。その暗殺者は赤茶色の髪と琥珀色の目をした少年だって聞いてる。なら、確実に彼が探しているのは《死天使ヘルエンジェル》。だから、ルカにはその暗殺者に一言伝えてほしいんだ」


 ——ナタリアは共和国にいる、って。


 ルカは自分の耳を疑った。飼い主であるガンマでさえ手に負えないバケモノを共和国に呼び込む、と言っているのに等しい。


「……なんで」


 訊きかけて、ルカは言いさした。リュエルの澄んだ瞳はずっと先を見ていたから。ルカには到底見えもしない、先の先を。


「一体、何手先まで読んでるんすか、センパイは」


 ゾクゾクとした期待感がルカの背筋を焦がす。堪らなくて、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。


「じゃあ、行ってくるっす。行動は早い方がいい、そうっすよね? ——閣下」


 リュエルがまばたきをした。照れ臭そうに頬をかいた彼女は、部屋を出て行くルカの背に言葉を投げる。




「……その呼び方より、センパイの方が好きかな」



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