ep.064 ロスカ

「戦支度をする」


 静寂の中で赤髪の少年王は告げた。ぐるりと周囲に視線を巡らせ、ただ一人真っ直ぐエヴァンを見ている男と目が合う。灰色の髪に燈赤色の瞳の男だった。記憶にないから新入りだろう。けれど、周りと同じようにこうべを垂れるわけでもなく、戦慄を瞳に浮かべて呆然としている。その姿がエヴァンの意識に妙に残った。


 今回の敵もやはりガンマの殺戮人形だ。勝ち戦と呼べるような戦いを展開できたことはなく、無秩序な殺戮から生きている者を救うのが精一杯。それも、穴の空いたバケツで水を掬うようなもの。


「……今回、ガンマの標的になったのはここ、バーレイグの砦だ」


 ざわざわと動揺が走る。エヴァンは唇を噛んだ。武器供給の拠点であるこの砦を失うのは痛い。死守すべきだと判断したから、エヴァンは自ら足を運んだのだった。


 ガンマに狙われ続ける、正確には奇想天外な動きをする殺戮人形に狙われ続ける内に、エヴァンは切り捨てることを覚えた。襲撃が起きたと知っても、手の中でその情報を握りつぶした。確実に間に合う戦場のみを選んだ。それでも、敗北する運命を変えられたことはないのだけれど。


「今度こそ殺戮人形を止める」


 作戦の説明を簡単に行った後、テキパキと指示を飛ばしていく。ありったけの弾薬を用意させ、戦ったことのない者には経験者から武器の扱い方を。銃や弾倉の配備、建物自体への細工……。残された時間は二十四時間を切っている。その中でやれることをやれるだけやるのが今のエヴァンの仕事だ。


 ガンマであるエルシオからの情報が確かであるのは間違いない。だから明日の夜、ここで殺戮人形を沈めてみせる。


 エヴァンは臣下たちが動くのを険しい表情で眺めた。


 今度はいくつの命があれば負けないだろうか。

 どれだけ棄てれば、勝てるだろうか。


 もう一度唇を噛んだ。王なのだから弱さを見せてはいけない。王なのだから躊躇ってはいけない。王なのだから、と何度でも自分自身に言い聞かせる。刻むように、縛るように。


 ふと視線を感じて振り返った。灰色の髪と燈赤色の瞳の男が立っている。気だるげな燈赤色は、けれどエヴァンをしかと見つめていた。


「新入りだな」


 指示を出し終えたあと、こうしてひとりエヴァンの元へ現れる人間は珍しい。リアムがいなくなってから、誰もがエヴァンをおそれて遠巻きにするだけだったから。


「ああ。俺はヨゼフ・フェネアン。……もしかして、あんたは全員の名前と顔を覚えているのか?」


「臣下の名前と顔くらい、覚えているべきだろう、と思って」


「……死人も?」


 愚問だと一蹴しようとしたけれど、ヨゼフの顔があまりに真剣だったのでエヴァンは素直に頷いた。


「当たり前だ。……それは僕が背負うべきものだ」


 その答えにヨゼフが目を見張る。その表情の意味がエヴァンには分からない。


「何か間違ったか?」


「……いいや、間違ってはいない」


 その割には何か言いたそうだが、と言いたくなったけれど、呑み込んだ。


「なら、指示に従ってもらおう。ここに来たということは僕の指示に従ってもらうということだから」


「わかった、エヴァン・リーゼンバーグ」


 名前を呼ばれてエヴァンの心はざわめく。王と呼ばれる内に、王としての鎧を身につけていった。だから、臣下に名前で呼ばれるのは、せっかくの鎧が剥がれ落ちてしまいそうで気に入らない。


「僕を名前で呼ぶな」


「了解だ、エヴァン」


 適当に手を振って去っていく。反省の欠片も見当たらない後ろ姿が少し憎らしかった。





 刻々と時間は過ぎる。エヴァンは黒い空を屋根の上から見上げて、握った懐中時計をぱちりと閉じた。目を閉じて、目を開いて、深呼吸。震えを殺して立ち上がる。


「……戦を、始めよう」


 殺戮人形は常に夜が深まる頃に訪れる。すぐに破られる静寂と共に。エヴァンたちは工場の外で冷たい夜気の中に身を潜めていた。帝国南部のバーレイグでは雪が積もっていても、寒さは北部よりかは少しだけましだ。積もっている雪の中で、じっと気配を殺して天窓から下を覗く。機を逃さないように、殺戮人形の小さな影を追う。


「なタりアは、どコ?」


 明かりの絶えた工場にひび割れた声が響く。エヴァンは思わず嫌悪感に眉根を寄せた。どくどくと耳元でうるさい鼓動を無視して、手を振り下ろす。それを合図に工場の扉が軋みながら閉ざされた。


「毒ガスの散布を始めろ」


「了解しました」


 ばら撒くのは対殺戮人形用にエヴァンが作った毒だ。皮膚や粘膜から身体を犯す無味無臭の猛毒で、その中ではたった一分間で死に至る。その上、散布して僅かな時間で分解が始まり無害な物質に変化するため、街の側で使用するにはうってつけだ。殺戮人形への最高の切り札として用意したし、エヴァンにはこの毒で殺戮人形を屠る自信があった。


「……五分経過しました。──っ! 殺戮人形、健在です」


「何っ!?」


 臣下からの報告に声を上げる。毒による白煙の消えたあと、確かに殺戮人形の小さな影は両足で立っている。ソレの踏み出す足はどこかふわりと不安定ではあるけれど、殺戮人形は金属を擦り合わせたような笑い声を上げた。


「こレ、なンだロ! チョっと、ふワッて、しタ! えエッと、うエにひトいルね!」


 舌打ちをこぼし、エヴァンは殺戮人形が上へと動き出す前に次の行動の指示を出す。


「総員射撃用意! 殺戮人形を撃て!」


 事前に窓に取り付けておいた機関銃が唸る。小さな影へ止めどない弾雨を。けれど、弾丸は殺戮人形には当たらないまま工場の設備だけを破壊する。爆発物や発火物を避難させているとはいえ、一斉掃射で周囲の気温が上がっていた。心なしか溶け始めた雪から足を引き抜く。


「第四工場担当の者を除いて一時退避だ。体勢を立て直す。ここの担当は頼む、耐えてくれ」


「仰せのままに!」


 今戦場としているのは、増産がかかった時にのみ動かす場所で、五つある建物の内のひとつだ。工場の製造ラインは全部で四つ、そして最後のひとつは働き手のための宿泊施設になっている。最終防衛ラインを宿泊施設として、第四から第一までがひとつひとつの戦線となる。けれど、勝負を掛けた最上の策が破られた時点で敗色は濃厚だった。ここに戦力を集めた以上、何らかの成果は得たいところだが。


 第四工場担当の臣下たちをすべて戦線に投入し、エヴァンは作戦本部である宿泊施設のホールに戻る。普段は食堂として使われるそれは今は不穏なざわめきに支配されていた。


「聞いてくれ」


 エヴァンのよく通る声が空気を震わせる。決して良い知らせではないことは、エヴァンのいつになく険しい顔からも見て取れる。


「最初の作戦は失敗した。殺戮人形に毒はほぼ効かない」


 今頃、オーバーヒートした機関銃の銃口を換装する間もなく、臣下たちは地上に引きずり下ろされているだろうか。一人一人地面に落とされて、内蔵を掻き出されて絶叫を上げながら死んでいっているだろうか。名前も誇りも奪われて、ただ虫けらのように潰されて。


 けれど、エヴァンには己の判断を振り返っている時間はない。


 ──どうすれば殺戮人形に勝てる?


 毒が効かないのなら、選択肢はさらに絞られる。確実に葬ることを考えれば、炎を使うの一番だろう。しかし、こんな爆発物の多い場所で火を使うのは自殺行為に近い。


「…………」


 拳を握りしめ、エヴァンはからからの喉で息をする。炎を使うとして、そのための時間と足止めが必要だ。


 さあ、何人の命を使う?


 最適解を丁寧に探す。感情と不確定な要素はすべて排して、確実のための手段を探す。そして翠の瞳を凍てつかせて目を開く。


「第二工場で殺戮人形を仕留める。火薬を運び込んで殺戮人形ごと爆破しよう。ここが一番海に近くて離れているから、爆発の影響は最小に抑えられるはずだ」


 拳が白くなるほどきつく握って、それでも顔色は一片たりとも変えずに命じた。


「したがって、第二工場に割り当てた班には、ここで、死んでもらう」


 空気がざわめくより先に、水を打ったような静寂が落ちた。無慈悲な死の宣告はいつだって、そう。誰もが覚悟していて、同時に覚悟していない。だって、まさか自分が、と誰だって思うだろう。それでも死はすぐ側で息をしているのだと、誰もがここで思い出す。


「仰せのままに」


 たとえ慈悲なき死の宣告であろうと、茨の王の臣下たちは敬虔にこうべを垂れる。それが契約だから。


「──死んでもらう、だって?」


 男の声が静けさの帳を切り裂いた。エヴァンはゆくりと頭を巡らせ、声の主を視界に入れる。昨夜、エヴァンに問いを投げた男だ。灰色の髪の下で燈赤色の双眸が鋭く輝いている。


「ああ。僕の決定に不満があるのか?」


 ヨゼフは人を掻き分け、エヴァンの前へとやって来る。


「──っ! なぜ、誰も異を唱えない? なぜ、受け入れる?」


 なぜ、と幾度問うてもこたえはない。エヴァンは動くことなく、ヨゼフの問いをひとつひとつ受け止める。答えはしなくても、無視をすることはしない。エヴァンが握りしめた拳の白さがまた一段と増した。


「僕は王だ。僕は皆の命を無駄にしたくない。いずれ皆の勝利に繋がるのなら、……慈悲のない命令だっていくらでも下そう」


 ヨゼフがエヴァンを一瞥し、周囲に視線を巡らせた。


「……んな」


「何だ?」


「ああ、もう。ふざけんなっつてんだよっ! ガキのクセに切り捨てることを覚えやがって! それにな! ひとりのガキに何もかも委ねてあぐらをかいてるテメェらもだっ! なぁにが、仰せのままにだよ!」


 エヴァンの瞳が震えた。


「統率を乱す行為は止めてもらいたい。僕の命令に従えないというのなら、ここで死んでもらう」


「それで俺に毒杯をあおらせるって?」


 軽蔑とも呆れともつかない顔でヨゼフが肩をすくめた。エヴァンは眉根を寄せる。彼が何を言いたいのか、まるで分からない。


「必要があれば」


「そうかよ。別にそれでもいい、いいけどさ、お前はこれから先もずっと独りでやっていくのか? その貧相な身体で全部背負って、本当に大切なものを全部切り捨てて、誰も信じないで。……けど、そんなのは絶対に間違ってる」


 はっきりと、ヨゼフはエヴァンを前にして言い切った。ぴくりと動いた手を押さえつけ、平静を装う。


「……こんなくだらないことにかまけている余裕は今の僕らにはない。皆、準備に取り掛かってくれ」


 踵を返すエヴァンの耳にヨゼフの吐いた大きな溜息の音が届く。常に冷静を務めているつもりだけれど、今回ばかりは苛立ちを隠せなくて振り返る。険のある視線で刺せば、ヨゼフは臆することなく真っすぐに見返してきた。


「何が言いたい? 僕の邪魔をするな」


 この分からず屋が!、という叫びに加えて、鈍い音がエヴァンの脳を揺さぶった。エヴァンの軽い身体は宙を舞う。人の中に突っ込んで尻もちをつく。鈍痛を訴える頬を押さえて、のろのろと立ち上がる。それから、銃を取り出してヨゼフを狙おうとする一部の臣下を手で制した。


「なんで分からない!? ここで死んでもらうだって? ふざけるなよ! なんで、お前の部下の心を信じてやらない? なんで最初からそうやって切り捨てる?」


「……あなたに僕の何が分かる!? 何も知らないくせに、知ったようなことを!」


 沸騰しきった頭でエヴァンは拳を大きく振りかぶる。ひどく大振りの拳は簡単に躱されて、エヴァンはつんのめった。当たらないのならもう一度、と拳を硬く握って飛び出して──、何にもない所で顔からすっ転んだ。赤くなった額のまま顔を上げると、きょとんとした顔のヨゼフとぽかんとした顔の臣下たちがいる。


「……もしかして、エヴァン、お前、運動オンチか……?」


「……う、うるさい! 気にしてるのに!」


 だってこんなの、格好がつかないじゃないか、と続けてぼそぼそと言い訳を口にする。先ほどまでの緊迫した空気は嘘みたいに消え去っていて、誰かが堪え切れずにもらした笑い声が伝播していく。エヴァンは急いで立ち上がったけれど、盛大に転んだ場面を見ていなかった人はどこにもいない。ヨゼフも憎たらしいくらいに大口を開けて笑っている。両耳を赤くしてしばらく突っ立っていたエヴァンも、ふっと余計な身体の力が抜けて笑ってしまった。


「なあ、エヴァン。切り捨てるっていうのはな、いい歳こいた大人がやるもんだ。お前は何も棄てなくていい。たくさん拾って歩けばいい。んで、俺もまだいい歳こいてねぇ。……ってわけで、粘るぞ。お前の作戦プランは完璧だ。でも、臣下の心を勘定に入れてないという一点で間違ってる」


 だから、とヨゼフが周りを見渡す。


「お前らだってやれるだろ? 全力でエヴァンの命令に応える気概はあるだろ? 殺戮人形を俺たちの手で倒そう。とにかく頑張るぞ!」


 何か秘策でもあるのかと思っていたから、ズッコケそうになった。けれど、それで十分だったようで、臣下たちの顔はいつになく活き活きとしていた。ヨゼフがエヴァンを見て笑った。さっき感じた怒りはまだ喉元にひりひりと残っている。それでも、今は。


「じゃあ、号令を頼む。王さまはお前だ」


 エヴァンは顎を引いた。


「ああ。皆で殺戮人形を倒す。行こう」





「おい、こっちだ!」


 冷や汗まみれでヨゼフは走る。後ろには赤茶の髪に琥珀色の瞳をした殺戮人形が迫っていた。第四工場で最後まで戦った臣下たちによって毒を撃ち込まれ、若干殺戮人形の動きが鈍っている状態であるのが幸いしてギリギリ逃げ切れている。


 どうしてこんなにも熱くなっているのか分からないまま、ヨゼフは最も危険な誘導役を買って出た。所詮ただの反政府組織だと思っていたのに、蓋を開ければ真面目すぎる少年王と素朴で気のいい人間ばかり。軍よりよっぽどマシな場所じゃないか。


 マクシミリアンは軍人の系譜だ。幼い頃から軍人になるのだと教えられた。寡黙で厳格な父が黒い軍服を着る姿は憧れだった。ちちうえ、父上、と高い位置にあった顔を見上げて、気づけば士官学校に入っていた。自分が天才ではないと知っていたから、兵法も戦闘技術も血の滲むような努力の末に積み上げて。そうして首席と輝かしい名を背負い、黒い軍服はヨゼフのものになった。


 最初の戦場は良かった。


 新米士官は揃って弾雨の中に放り込まれて、士官学校で習った動きの半分もできなくて、震えながら人を殺した。何もかもが新しく、心がついて行かないくとも命令を必死に守って死なないように。


 次の戦場もまだ大丈夫だった。


 動けるようになって、効率的に人を殺すことができるようになった。功績だって上げて昇格もした。一番調子に乗っていた時期、ともいう。


 その次の戦場でなんだかおかしくなった。


 何のために人を撃つのか分からなくなった。意味はあるのかと自問するうちに引金が思うように引けなくなって、異動願いを出した。前線ではなく参謀としてキャリアを積みたいと言えば、功績や首席卒業が考慮されて簡単に希望が叶った。


 四度目の戦場では逃げ出したくなった。


 共和国の民は人ではないらしい。砦で作戦を立てる帝国軍の高官たちは醜く嗤いながら、共和国軍の兵士を生きたまま燃やす遊戯ゲームをしていた。明らかに戦略的に無意味な作戦だった。けれど、前線の兵士たちがそれを知ることはなく、命令を愚直に遂行して死んでいく。おぞましくて、同じ場所に立っているのが怖かった。父も同じことをしているのだろうかと猜疑した。


 五度目の戦場では絶望した。


 どの戦場も同じだった。終わりのない不毛な戦いの中ではもう、殺すことすら娯楽のひとつだ。人を殺す作戦をヨゼフも立てた。けれど、やっぱり凡才の身では無難な作戦しか立てられなかった。戦況を全部ひっくり返して戦争を終わらせられるくらいの能力が欲しかった。ないものねだりをしながら見えるのは、どうしたって変わらない現実だけがすべてだった。


 ここに正義なんてない。なら、戦う意味なんて──。


 そう、思っていた。


 おざなりに雪かきされた道は最悪だ。無理矢理足を動かして走る。捕まったら、名前を吐かされてからけちょんけちょんにされて、ばらばら死体になる。そんな気の狂った鬼ごっこを汗だらけでやる三十二歳。


「ちくしょー! なんで俺こんな、一生懸命頑張ってるわけー!?」


 こうなったらヤケクソだ。意地でも辿り着いてみせる。柄でもない雄叫びを上げて火薬庫と化した第二工場へ滑り込む。したたかに身体を硬い床に打ちつけて呻いた。殺戮人形の影が倒れたヨゼフの上に落ちる。


「っ!」


「今だ、撃て」


 エヴァンの声が響く。一発……どころではない弾丸が地面を穿つ。入口には火薬は配置せず、射撃の得意な者が牽制をすることになっていた。まさか思い切り的にされるとは思っていなかったヨゼフは、射手を探して振り返る殺戮人形の前から慌てて這い出す。


「俺を殺す気か!?」


「このくらいじゃ足りないけど」


 冷たい声にヨゼフの片頬は引きつる。どうやらかなり根に持っているらしい。とはいえ、作戦はまだ続いている。ヨゼフは隠れていた人員と共に火薬の箱の隣を静かに移動して裏口を目指した。


 本来、エヴァンが立てていた作戦では囮と足止め役を犠牲にすることを前提にしていた。けれど、ヨゼフの「みんなでがんばる」発言により、逃げ道を確保しての各種火薬の配置、迅速な行動と各自の努力にかかった作戦へと微修正されたことになる。


「爆破」


 最後の一人が爆破の影響が及ぶ範囲から片足を出した瞬間、エヴァンは呟いた。エヴァンの手の中で起爆装置が作動する。激しい爆発に空までが一瞬明るくなった。轟音に誰もが耳を塞いで伏せる。爆風が駆け抜けた後には、全身泥水でびしょびしょになった人々が転がっていた。


 間違いなく殺戮人形は爆破の瞬間、第二工場にいた。一分、二分と成果を見るための時間が過ぎる。もしも倒したのなら、殺戮人形の姿はもう二度と現れないはずだ。


 けれど。


「……万策尽きたな」


 ヨゼフの隣でエヴァンが悔しげに呻く。エヴァンの視線の先、土煙の収まった瓦礫の山からゆらゆらと小柄な影がやって来る。そう、もう対抗手段は何も残っていなかった。手負いの状態であっても殺戮人形を退けられる力を持つ者はここにはいない。じりじりと焦げ付くような時間が過ぎる。エヴァンは周りを見て一人でも多くを逃がそうと考えたけれど、立ち上がる元気のある人間はどこにもいなかった。


「せっかく頑張ったのにな」


 黒い空をヨゼフとエヴァンは仰ぐ。この状況を覆せるとは到底思えなくて、なら最後くらい空でも見上げとくかと同じように。寒い空を泥まみれで格好悪い姿で見上げて、そんな自分たちがみっともなくて、乾いた笑い声をこぼしたのははたしてどちらだっただろうか。


「諦めたく、ないなあ」


 未練たらたらであんまりにも情けない声がエヴァンの口から転がり出た。夜明けはもうすぐなのに、今までで一番上手くやれたと思ったのに。











「──このくらいなら、ボクでもなんとかなるっすかね」


 軽い声がエヴァンたちの上を通り抜けていく。ナイフを引き抜く涼やかな金属音。なびいたのは一つに結わえられた長い黒髪。


 少年と青年の間くらいのその男は、八重歯を見せて不敵に笑ってみせた。

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