ep.062 深哀

 エヴァン・リーゼンバーグは夜の街を駆けていた。追従して走るのは部下たちだ。迷いなく走っているけれど、その実街灯のない道を選んで走っている。ダーデンベルに置いたアジトへ向かう経路は、これまで何度も使っていた。霧の濃い夜の中でさえ迷わず足が動くほどに。


「本当なのか? ここの砦が襲われるっていう情報は」


 エヴァンの右腕として働くリアム・ツィリヒが囁く。エヴァンは髪と顔を隠すフードの下で頷いた。


「ああ。治安局が潰されてガンマが台頭してから、僕たちへのマークは一度手薄になった。だけど、ガンマもそろそろ地盤固めを終えたみたいだ」


 政府がグロモント抗争の後始末に追われるタイミングで、エヴァンたち反逆軍リベリオンは戦力拡充を密かに進めてきた。グロモントや帝都ソフィリアを避けた地方を中心にネットワークの構築を行い、今ではエヴァンを王に戴く勢力はかなりの規模になっている。しかし、それは同時に帝国への脅威とみなされることになる。ガンマを欺くのは不可能である以上、アリアのことだ、消極的にせよ潰しに来るだろう。


「俺らの拠点を潰しに来るのは当然ってわけか……」


 角をもう一つ右に曲がれば倉庫が並ぶ区画に出る。その中の一番小さいものがアジトだ。明かりのない倉庫街。一歩一歩確かめるように足を動かす。聞こえるのは部下たちの立てる衣擦れの微かな音だけ。戦闘音がないのはまだ何も起こっていないからか、それとももう起こってしまったからか。どくり、と脈を打つ心臓をエヴァンは押さえた。


「ケイとダンは斥候を頼む。僕が後を引き連れて行く。もし、何かあれば連絡をしてくれ」


 落ち着いた声で指示を出す。屈強な体躯の男二人が頷いて前に出る。エヴァンは最後にいつもの決まり文句を口にした。臣下を鼓舞するのは王の役目だ。


 ──皆の武運を祈る。そして僕らに勝利を。


 倉庫へ忍び寄る二人の影は夜の闇に溶ける。今晩は曇りで、宵闇は一層暗い。視界は悪いが、それゆえに付け入る隙もあるはずだ。エヴァンは無意識に額に刻まれた傷痕に触れる。今日の敵はおそらく兄ではないだろう。アリアはエヴァンを生かしている、だからエルシオのような高位の暗殺者は出てこない。


「王さま、音沙汰ないぜ、──っ⁉」


 リアムの声を咆哮が裂いた。奇怪で耳障りなこの音、喉が千切れそうなほどの叫びは、先ほど送り出した二人のものだと数拍遅れて気がついた。先の静寂はすべて終わった後のもの、そして敵は今、斥候としてエヴァンが選んだ二人を屠った頃。


「ッ、撤退だ。みんな、逃げるぞ。……僕たちは、間に合わなかった」


「ですが! まだ誰か生きてるかもしれませんよ⁉ 見捨てるんですか⁉」


 ざわりと蠢く声と不満の色を空気に感じる。けれど、敵はガンマなのだ。今更助けに行ったとて、彼らの命を無為に散らさせるだけだ。眉間にしわを寄せたのは一瞬。エヴァンは冷めた双眸で臣下たちを見渡した。それだけで場は静寂に包まれる。


「撤退だ。僕に二言はない」


「……分かりました」




 翌日。夜空が白み始めた頃。


 エヴァンはまだ明けやらない空の下を一人で歩いていた。散らばる枯れ葉をさくさくと踏みしめる。冬を前にする帝国は十月でも十分に寒い。早朝ならなおさらで、吐いた息は白い雲になって風になびいた。昨日は真っ暗だった道は、今は消えかけの朝霧に柔らかく包まれている。


 まだ砦は片付けられていないはずだ。襲撃、いやガンマにとっては掃除か、はエヴァンたちや民衆に対する見せしめだ。片付けも白昼に堂々とやることだろう。だから、その前に現場を見ておかなければ。


「……エヴァン、砦に行くのか?」


 背中に声を掛けられ、エヴァンは足を止めた。振り返れば、リアムが立っていた。かつては真っ当な生活を妻子とともに送っていたという彼。帝国軍に徴兵されて戻ってきてみれば、何もかもを失っていて、あるのは奇跡的に五体満足だった身体だけだったという。歳は四十を過ぎていて、エヴァンからすれば父親とも呼べる年齢だ。そもそも、反逆軍に所属する多くがエヴァンよりもよっぽど年上なのだけれど。とはいえ、リアムは常にエヴァンの隣に立って補佐をしていた。


「ああ。何が起きたのか、きちんと把握して対策を立てないと。僕の選択がみんなの命を左右するんだから」


「……そう、だな。俺も行くよ」


 来なくていい、きっとロクな現場ではないから。言いかけて、エヴァンは口を閉ざした。


 濃厚な血の匂いに顔をしかめて、エヴァンとリアムは灰色の倉庫の扉を開いた。通りがかった無関係の人が目にしてはいけないと扉を閉める。それだけで血の匂いは濃くなった。ぱちりと電気をつければ、凄惨な光景が目を焼いた。ぐちゃぐちゃに混じり合った肉と血はもう人であったと証明することが難しいくらいだった。鼻や唇が削がれて誰であったか分からないもの、目を潰されているもの、内臓を引きずり出されたもの。リアムが口を押さえ、その場で吐いた。エヴァンもこみ上げてくる吐き気を堪えるのに必死で、立ち尽くすことしかできない。けれど、ゆっくりと呼吸を再開させて思考力を取り戻す。


 ガンマだとすれば、初めて見る殺し方だった。《血塗れのスカーレットミラ》のやり口が一番近いが、ミラが撒き散らすのはあくまで血液だけだ。今回はただ人体を滅茶苦茶にする殺し方がされている。なら、新しいガンマの構成員だろうか。けれど、こうまで破壊されていれば手掛かりはおろか、対策の糸口を見つけることもできやしない。


 ここにこれ以上留まる理由はもうなかった。立ち去る前にエヴァンは目を見開いてこの光景を目に焼き付ける。己が守れなかった人間の死に顔を決して、忘れないように。


「リアム、行こう」


 胃液まで吐いて土気色の顔になったリアムの背中を支える。


「す、まない……」


「いいんだ、僕は大丈夫だから」


 エヴァンは笑ってみせる。けれど、その顔は青白かった。リアムの背中に添えた手は震えていて、到底大丈夫だといえる状態ではない。それでも、エヴァンには臣下を率いる王としての責任がある。だから、弱さを、甘さを、幼さを、殺すのだ。




 惨状を作り出したガンマの暗殺者にエヴァンが出会ったのは、さらに二度の敗北を重ねてからのことだった。標的になった砦にすぐに駆け付けられるように動線を設置しておいたのが功を奏した。しかし、それはガンマの暗殺者と鉢合わせるという皮肉な結果を生んだのだ。


 倒れた蝋燭の火はテーブルを濡らす血で消える。生ぬるい暗闇に包まれた村を喧騒が包んでいる。幼子が泣きわめく声、大人たちの怒声、悲鳴。それでも銃声はまばらだ。敵影が見当たらないから。


 ここはノーレルに近い山間の小さな村だった。帝国政府による搾取に苦しむ人々と手を組んで、村ごとの協力を取り付けていた。けれど、そのせいでガンマに狙われることになった。ただ、支援をしてくれていただけなのに。女、子供を最優先に村の外へ逃がし、撤退を進める。けれど。


「みんな逃げろ! 早く!」


 エヴァンの叫びを遮るようにひび割れた子供の声が響き渡る。


「なマえ、おシえテ? なマえ、ちょウだイ」


 名前を教えて、と壊れた蓄音機のように繰り返し、繰り返し。角灯の放つ光に照らされては消える幼い影。赤茶色の髪の少年は全身を深紅に染めて嗤っている。少年が動く度に誰かが死ぬ。生きながらに内臓を引きずり出されて、果てには名前まで奪われて。


 圧倒的だった。銃弾の雨を容易く搔い潜り、躊躇いもせず命を握り潰す怪物。紛れもなくガンマが飼う怪物だ。……そうでなければ、筋が通らない。


 ごう、と誰かが落とした松明が落ち葉を燃やした。空気が乾燥している今、炎が村を舐め取るまでそう時間はない。生きている人間の脱出がほぼ完了していることだけが幸いだった。


「ねエ、おニーちゃン! なマえ、おシえテよ!」


 少年の皮を被った怪物が、エヴァンを見た。ぞくん、と心臓が跳ねる。跳ねて、エヴァンの身体も震えた。この恐怖をエヴァンは知っている。内腑までもが凍り付く死の抱擁。アリアを前にした時の感覚と同じだ。エヴァンッ!、と悲鳴のように上がる声は水底で聞く音のように遠かった。視界の端で炎が揺らめいている。逃げ場はどこにも、ない。


 ……それでも、まだ、死ねない。あの日の誓いを果たすその日までは死ぬわけにはいかない。


 翠の双眸で少年の濁った琥珀の双眸を睨んだ。


 かくして救いの手は最高のタイミングで差し伸べられる。


 一発の弾丸が熱い空気を裂いた。少年が首を僅かに傾ける。そうしてすり抜けた弾丸はエヴァンの肩の上を駆け抜けた。少年は不機嫌そうに弾丸が放たれた方向を向く。


 夜の闇を炎が焦がす。黄昏時の明るさを取り戻した世界の中で、黒い軍服の青年がエヴァンに向けた銃を下ろした。たとえ炎の紅で染まっていても、目の前に立つ青年がエヴァンと同じ髪と瞳の色を持っていることがエヴァンにだけは分かる。


「……にい、さん」


 怜悧な翠は答えない。エヴァンを一瞥もせずにただ、エルシオは赤茶の髪の少年に向かって声を発した。


「殺戮人形、アリア様から帰還命令が出ている」


「ちガう、ぼクのなマえ、カみラ!」


 少年が無邪気に声に出した名は先ほどまでエヴァンの側で戦っていた女のものだった。嫌悪感でエヴァンは無意識に顔をしかめてしまう。それは死者への冒涜に他ならない。


「こコに、なタりアは、イない?」


 少年カミラは問う。ぴくりとエルシオの眉が動く。そしてエルシオははっきりと否と返答をした。それで少年は何やら諦めたらしく、エルシオについて歩き出す。炎の奥へと消えていくまで、エルシオがエヴァンを見ることは一度もなかった。


 炎が村を包んでいく。鮮やかな赤色はそこに住んでいた者の記憶と、そこで死んだ多くの亡骸を平らげては大きくなる。火の粉と灰が風に舞う。これまで何度も何度も見てきた敗北の景色。けれど、いつまで経っても慣れることはない。


 エヴァンはいつものようにすべてを目に焼き付けて、決して忘れないように。それから村のほとりで身を寄せ合う人々の方へ歩いて行く。煤だらけの顔で疲弊し切った彼らに次の指示を出そうと口を開こうとして──。


「てめえのせいだ! てめえのせいで、おらの村が……、みんなが、死んじまったんだ!」


 いつの間にか、エヴァンは胸倉を掴み上げられて頬を殴られていた。二発目、三発目と太い腕と硬い拳で殴られる。だらりと唇を濡らしたのは鼻血だろうか。鉄錆の匂いで鼻が塞がる。じんじんと痛む両頬がエヴァンに自らの罪業を知らしめる。


「やめなされ! まだ子供じゃ……!」


 掠れた声で訴える老婆の言葉は怒りに猛る人々には届かない。


「こんなクソガキがいてたまるか! こいつらが来なければこんなことにはならなかったんだ!」


 拳が落ちる。今度は口が切れた。ちくしょう、と口の中で呟く。エヴァンにはエルシオのような身体能力はない。むしろ運動神経は凡人以下だ。大の大人に掴まれてしまえば、そんな運動音痴で非力な十七の少年に太刀打ちなどできない。


「……っ、そ、れ、でも、僕は、戦う。……僕は、戦うことを、選ぶ」


 翠の瞳が瞬く。生まれたばかりの星のように激しい輝き。それがたとえ復讐心から生まれたものであったとしても、その光だけは裏切らない。凄烈な覚悟を刻んだ瞳に男は思わずエヴァンから手を離した。鼻と口の血を拭って、エヴァンは言葉を続ける。


「……僕は、僕からすべてを奪った帝国に復讐する。そして、もう、誰も僕みたいに、僕らみたいに、苦しまなくていいような世界にするんだ。だから、僕は、戦う。……戦うということは、犠牲を生み続けることだというのも、分かってる。それでも、僕は、この戦いにはそれだけの価値があると思う」


 叫ぶでもなく静かに淡々と語られた言葉に人々はしんと静まり返った。沈黙はどんな音よりも雄弁だ。ここではもうエヴァンの言葉がすべてだった。血塗れで青あざだらけの少年が王だった。




「いたっ」


 ぼこぼこの顔に冷たい夜風が染みた。大人数を抱えて迅速に移動をするのは不可能だと、一先ず近くの洞窟で野宿をすることにしてしばらく。今はたき火もくすぶるばかりで仄かに赤く光るくらいに小さくなっている。エヴァンは皆が眠りに落ちたことを確認して、外に出たところだった。毛布を羽織って、右手には白湯の入ったコップを持って。ふう、と熱い湯に息を吹きかける。身体の芯まで凍り付いてしまうほどの寒さには、手のひらから伝わる温度は嬉しいものだ。


 ちら、と白いものが空から降って来る。舌を出してみれば、冷たい氷が舌先でじゅわりと溶けた。


 今年最初の風花かざばなだ。今もまだ燻っている村もやがてはこの雪の中に葬られる。そして氷雪に閉ざされた長い冬が始まる。共和国の北に位置する帝国の冬はいつだって長く厳しい。冬は試練の季節ともいうけれど、確かにエヴァンにとっては間違いない。殺戮人形と呼ばれたあれを倒さねば、エヴァンたちに未来は、春は来ないから。


「……まだ、寝てなかったのか。寝ないと身体に悪いぞ、お前が倒れたら終わりなんだから」


「そういうリアムこそ寝なくていいのか? 顔色が悪いように見えるけど」


 リアムは困ったように眉を下げた。エヴァンは雪を眺めながら白湯をすする。リアムに勧めてみたけれど、彼はそんな気分ではないと言って断った。


「今回で三件目。間隔は大体一週間に一度ってくらいか……。やっぱりおかしいと思わないか? 僕たちは砦を隠している、それも生半可じゃなくきちんと。だからこんな風に簡単に見つけられるのはおかしいんだ」


「つまり?」


 遠慮とは異なる躊躇いが短い音に乗っていた。恐れ、と言い換えた方がしっくりと来る。エヴァンが口にしようとしていることを考えれば、あるいは当然かもしれない。エヴァン自身、信じたくない。けれど、それ以外に可能性はないと無慈悲な答えは出ている。


「──僕らの中に裏切者がいる」


「っ……、やっぱりそうなんだな、お前は」


「え? 僕が何だって?」


「いいや、なんでもない。ほら、お前は寝ろ寝ろ。裏切者の件も俺が何とかするしさ」


 空になっていたコップがエヴァンの手から消える。あくびを噛み殺したエヴァンの背をリアムがぽんぽんと叩いた。見張りは俺がする、ということらしい。あの様子ではおそらくリアムは寝ないのではなく寝られないのだろう。そのことには気づかないふりをして手を振った。


「おやすみ」


「ああ、おやすみ、エヴァン」


 ──それが、最後の挨拶になるとは知らずに。







 名前も知らない鳥がさえずる声で目が覚めた。身体はすっかり冷えて感覚が鈍い。まだ起きている人はいなかったけれど、エヴァンは鉛になったように重い身体を根性で動かして外に出る。


「うわぁ、積もってる……!」


 思わず感嘆の声を上げてしまうほどに美しい銀世界が広がっていた。ハゲていた木立は今は満開の白い花を咲かせていると見紛うくらいだ。朝焼けに輝くのは風に舞う雪片。昨日いたのとは違う世界に迷い込んでしまったようだった。わくわくしてしまう気持ちを深呼吸で落ち着ける。そこで寝ずの番をしていたリアムの姿が見当たらないことに気がついた。


 リアムが役割を放棄するのは珍しい、と思いながら木立へ踏み入る。もしかしたら寝れないからと散歩に出かけて遭難でもしたのかもしれない。一分、二分と時間が過ぎていく毎に不安が増す。だって、変だ。いくら雪が音を吸ってしまうとはいえ、人が歩いていたのなら分かるはずだ。なのにここには何の痕跡もない。


 目を凝らして、雪がわずかに凹んだ箇所を見つける。点々と続く凹んだ形はおそらく足跡に違いない。無心で地面を追っていれば、一本の木の横でぷつりと足跡が途絶えた。周りの雪を見ても今の足跡で最後だ。


「どこに──」


 視線をゆっくりと上げる。


「…………え」


 木の枝からぶら下がっているものへと震える指先を伸ばした。エヴァンの指が触れる前にとさりと音を立てて雪の塊が落ちる。


「……なん、で」


 凍える木立の中で、一人の男が首を吊って死んでいた。膝から力が抜けたようにエヴァンは雪の中に崩れ落ちる。


 一番近しかった人の心が壊れていたことにさえ、気づけなかった。

 いや、気づこうともしなかった。


「僕は……」


 きっと、エヴァンも帝国に巣食う怪物たちとなんら変わりはしないのだろう。なら、そのように生きるべきだろうか。


「……」


 泣けもしないのなら。いっそ。


「……は、ははっ」


 人であることを棄てて、怪物になってしまった方が楽だろう。


 足を雪から引き抜いて、ゆらりと立ち上がる。最後にもう一度だけ眺めてから、死体に背を向けた。深い足跡を刻んで深雪を後に。防寒着を着るのを忘れてしまっていたから、身体は死体と変わらないくらいに冷えて感覚がなかった。







 ──その日を境にガンマからの襲撃の回数が格段に減ったのは、確かな事実だ。

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