ep.061 鏡面の花

 共和国首都フライハイト、共和国軍本部、十三番棟、第二研究所。


 白色の電灯が照らし出す無骨な廊下を共和国大統領であるディエゴ・マクハティンは歩く。隣に追従するのは深い青色をした切れ長の瞳の男。後ろに撫でつけた髪は電灯の明かりに透けると青く見える。


 装飾のない階段をかつんかつんと音を立てて降りていく。地下へ降りていく階段の冷たい手すりにディエゴは手を滑らせ、ふうと息を吐いた。


「大丈夫ですか」


 足を止めるディエゴに男が声をかける。ディエゴは首を振り、いつも通りの柔和な笑みを浮かべた。


「大丈夫だよ、シアン。いやあ、歳は取るもんじゃないね、すぐ息が切れるし、足腰が悲鳴を上げてるし」


 ああ、いやだいやだ、と呟くディエゴを上の段からシアンは見下ろすが、その表情は逆光で見えない。再びディエゴは足を動かし始めた。向かう先は階下の牢。白い電灯と繰り返される鋼色の扉の並ぶ廊下を通り過ぎて、もう一度階段を降りていく。降りるたびにしんと空気が冷え込むのは、果たして地上からの距離のせいだけだろうか。


「シアン、君は知っていたっけ。この研究所の前に使っていた第一研究所が十年くらい前に焼け落ちたこと」


「はい。第一研究所の事件を知らない者などいないでしょう」


 十年前、使徒化計画を行っていた地下施設、そう、今は無きリンツェルンにあった第一研究所は燃え落ちた。多くの犠牲が生まれて多くの研究成果が失われたあの事件。


「君はどうしてあれが起こったのか、知っているかな?」


 かんかんと響く靴音の合間にディエゴは問いを挟む。


「もちろんです。第一位使徒が逃げる際に一切合切を破壊していったと聞いております」


 なぜそのような当たり前のことを聞くのか、と怪訝を隠しきれないシアンにディエゴは微笑んだ。


 最下層へ降り、最初に現れたのは鋼鉄の扉だった。ディエゴが扉の横に手を当てれば、がちゃんと音を立てて扉が滑るように開く。さらに現れた鋼鉄の扉をもう一度、そしてさらに鉄格子の扉を同じ手順で開いていく。進んでいくディエゴの後をシアンが追い、二人は重く冷たい空気を掻き分けて進んだ。


 この部屋は、防弾、防音を始めとするあらゆる内側に対する防御を十重二十重とえはたえに兼ね備えている。ヘタな要塞の壁なんかよりもよっぽど堅牢に造られ、鉱物資源に恵まれた帝国よりも共和国ではコストが高いはずの特殊合金が惜しげもなく使われている。その証拠に扉も壁も三重の層で構成されていた。そして、この部屋を開けるためにはディエゴか使徒の生態認証が必須であり、誰にも破ることはできないという厳重な管理体制だ。なぜそのような場所があるのか、という問いへの答えはすぐそこに。


「やあ、元気かな、《死天使ヘルエンジェル》」


 三重の鉄格子に隔てられた向こう側、赤茶色の髪を持つ少女が目を開く。腐食した月のような琥珀の瞳は無機質だ。整った目鼻立ちは神が手ずから彫刻したよう。氷刃のような鋭利を持ちながら、けれど彼女はがらんどうだった。手足を鎖に繋がれ、窓もない檻の中で飼われようと、絶美の花が美しさを失うことはない。


 ナタリアはゆっくりとまばたきをした。わずかに身動ぎをすれば、ちゃり、と黒い鎖がこすれる音がする。


 ライの元から離れて、ずっとここにいる。性能試験とやらで檻から出されることはあれど、任務を課されることもなく、飼い殺しになっている。共和国の研究者、彼らはナタリアを恐れているようだった。それは久方ぶりの感覚で、ナタリアの周りにいた人間が普通ではないのだと認識を改めることになった。ライ、アルバ、エルザ、ルカ、リュエル……、彼らはナタリアを恐れない特別だ。


 ただ、一度だけ触れられたことがあった。遺伝子検査をすると言われて血を抜かれた時のことだ。あれは白髪の仮面の男だった、とナタリアは記憶している。陽炎のように揺らめく気配を知っているような気がして、思わず仮面を見つめてしまった。白い髪の人間を見たことはなかったはずなのに。けれど、同時に白にも近いライの銀髪が脳裏に閃いたのは事実。ふとした瞬間にナタリアはいつだってライの姿を見ている。


 なぜ、ライの姿を探してしまうのか、わからない。


 目を閉じて、再び開く。目の前の二人の男に意識を向けた。以前ディエゴ・マクハティンと名乗った男と、無表情の男。けれど、彼らの髪は白ではない。ディエゴがナタリアの前に姿を表すのはこれで二度目。一度目は研究所へ送られてきた時の一瞬だけ。


「わたしに何か用ですか?」


 冷たく澄んだ玲瓏な声で問うた。ディエゴが微笑む。


「用か……。用というよりか、僕はね、喜んでいるんだ」


「よろこぶ、ですか?」


 よろこぶ、とは何だろう。感情の名前であることは知っているけれど、それが何を指すのかナタリアにはわからない。それでも、確かに目の前の男の顔には、“よろこび”の笑みが湛えられている。


「やっと君が戻ってきてくれたことへの喜びだよ」


 ディエゴの手に白い仮面が現れる。鉄格子を開けて、彼は仮面をナタリアに差し出した。ナタリアが受け取らずにいると、ディエゴはことりと仮面を灰色の床に置いた。ナタリアはただ、ざわりと騒いだ胸の動きを不審に思う。


「僕はずっと前から強い人間へいきを生み出す研究をしてきたんだ。使徒って知っているかな? 僕がつくった使徒は七人。ああ、僕の隣にいる彼は第五位使徒のシアンだ」


 そう言って、ディエゴは能面のように表情を貼り付けた青髪の男を指した。シアンはただナタリアをちらりと見ただけ。


「でもね、僕のつくった最高はたった一つ、たった一度だけ。彼女以上のものは後にも先にもつくれない」


 ──第一位使徒 全能アリア


 柔和な笑みを崩さぬままにディエゴはナタリアを見た。穏やかと言ってもいいほどの目の奥に、凍えるような狂気が潜む。しん、と沈黙が落ちて数秒。それからディエゴは口ずさむように音にした。


「それが君だ」


 シアンの目が大きくなる。無表情の仮面が剥離して大きな動揺に染まった。第二位以下の使徒は誰も第一位を見たことがない。ただ知るのは彼女の残した大きな爪痕と、あまりに美しいというはなしのみ。


 鎖の温度が手と足首を冷やしている。中途半端に開けられた鉄格子の先へ、行こうと思えばいつだって行けるだろう。けれど、ナタリアは動かない。


 ライが行くように言ったから、裸足で彼の元へと駆けて行くことは己に許されてはいない。


 久しぶりに耳にしたアリアの名にすうと胸の中が空っぽになる。ライに聞けば答えは分かるだろうか。きれいなあのひとなら、きっと答えを知っているはず。


 かちゃん、と鎖が耳障りに擦れる。ライを探したのは時間にすればほんのわずか。目の前にはアリアをナタリアの向こうに見ている男がそこにいる。ナタリアは自分がアリアの複製品レプリカであることを、初めから知っていた。


 ディエゴの目がナタリアの奥を見た。


「わたしはアリアではありません」


 硝子の瞳で答える。


「わたしの識別名なまえは──」





 ***





 NoT_ARIAナタリア INANEイネイン

(アリアではない空っぽの物)





 アリアは擦り切れた紙切れの端に指先を滑らせる。何度も何度も触ったこの紙に何が記されているかは分かっていた。不意に執務室の向こうで動いた気配に顔を上げる。


「どうかしたのですか? スカーレット」


 かつんこつんと固い音を響かせ、髪を金と紫色で半分ずつ染めている女が歩いてくる。生え際の髪だけはリーゼンバーグのそれよりも深いくれないで、そろそろ染めないといけないねェ、と本人は思っていたりする。


「ガキンチョを追いかけて来たんですよ、あなたにお会いしたいと騒いでいたんですが……」


 ガキンチョ──ああ、あの失敗作のことか、とアリアは無造作に思い出す。肝心のソレの姿は見当たらないので、アリアは小さく苦笑した。ミラはゆっくりとアリアの傍らまで足を進め、アリアの繊手の触れる紙を覗き込む。


「……ナタリアですか」


「ええ、私の娘です」


 顔を隠す黒い薄衣の奥で赤い唇が優美な弧を描く。けれど、それは娘について語るにはあまりに艶美で酷薄だ。


「なぜ、ナタリアをつくったのです?」


 ミラの問いかけにさざめくようにアリアが笑う。鈴の鳴るような澄んだ音色はひどく冷たい。


「ただ興味があったのです。私をもう一人つくってみたかった。ですが、あの子は空っぽでした。中身がなかったのです」


 ですが、それで良かったと思います。そう言ってアリアは立ち上がる。しなやかで均整の取れた肢体を黒いイブニングドレスに包んだ姿は黒い百合のようだった。数多の死体の上に咲き誇る花は、だからこそ美しい。だからこそ人を惹きつけてやまない。飛んで火にいる夏の虫とはよく言ったものだ。幾人も彼女の纏う炎に焼かれて墜ちていった。帝国の皇帝でさえそうだったのだから。ゆえに、この身はいつまで飛んでいられるのだろうと思えば、ミラの身体はいつだって歓喜に似た情動で焦がされる。絶美の花にすべてを捧げてしまえるのなら。


「……もしも、私と同じものができていたのなら、私はあの子を殺していたでしょう。私であるならば思うはずです。このせかいに私はただひとりでいい、と」


 すっと虚空へアリアは白い指先を伸ばした。ミラの背筋を震えが駆け抜けていく。アリアの華奢な指は何物にも代えがたい凶器だ。その指先がどれだけの生命を貪ったのか、知りたいとすら思う。贅沢を言うなら、いつかその中に加わりたいとすら。甘い妄想を振り払い、ミラはカサつく唇を湿らせた。


「……ナタリアが帰って来なくても構わないのですか?」


 ライを殺しに出かけたきり、戻らないナタリア。こころを持たないかわいいかわいいお人形さん。アリアの手の中でずっとずっと踊っていればいいと思うけれど、どうやらお人形さんはいつの間にか手足の紐を切ってよたよたと歩き出したらしい。


「構いませんよ」


 アリアが無邪気に両手を広げてくるりと回る。黒衣がはためいて、黒いベールがひらひらと優雅に風を抱く。


「私は知りたいのです。空っぽのあの子は変わることができるのか、こころを手に入れることができるのか。計算結果はあの子ががらんどうのままであると告げていましたが、あの子はライを殺せませんでした」


 アリアは、第一位使徒として、ただ独りで完璧であれと願われてつくられた。そんな彼女には何もかもが児戯に等しいことでしかなくて。何もかもが分かるのならば、この世界はきっとつまらない。


「ナタリアは私にもっと色々なものを見せてくれるかもしれません。ですから、壊れてしまったライを生かした甲斐があったというものです。ライもまた、後天的にではありますが、色々弄ってみましたし。ですが、ライは駄目でしたね、せいぜい並の使徒くらいでしょう。ですが、それがナタリアを変えたのなら上出来です」


 そうは思いませんか、と黒い紗の向こう側で琥珀の瞳がミラに訊く。けれど、その問いにアリアがミラからの答えを求めたわけではない。


「ナタリアはガンマここから出て行きました。それならスカーレット、第三位使徒の貴女はなぜ私の元に来たのですか?」


 時折アリアはミラにそうして問いかける。何度だって答えてきた。すべてを見通すアリアが知らないはずがない。それでも、彼女が尋ねるのはきっと……。


 ミラはそっとアリアの白い陶磁器のような手を取って口づける。ひやりと低い体温が唇の上で淡雪のように溶けていく。


「アタシはあなたの夜に焦がれて止みません。あなたの敷いた道をただ隣で歩きたい。いつか終わるその日まで」


 ──あなたはアタシのすべてです。


 自分の言葉でこのきれいなひとが微笑むのならいつでも、何度でも、答えよう。






 ***






 ぐちゃり、音を立てて肉が落ちる音が響く。ぐちゃり、もう一度。今度はもう少し重たい。たぶん落ちたのは腕か足。屠殺される前の家畜のようなひび割れた叫び声に夜が汚れる。瞬いた街灯の光に浮かび上がるのは、手足をもがれて泣き叫ぶ男とその上の小さな影。


「ナまえ、おシえて」


 琥珀の瞳が爛々と輝いている。けれど、男は歯と歯をかち鳴らすばかりで少しも欲しい言葉をくれない。赤茶色の髪をした九つほどの幼い少年は首を傾げる。それから腕をまっすぐ突き出して男の胸にずぶり手を沈める。そうして男の心臓に触れてみた。どくどくと脈打つ臓器は街灯の光に照らされててらてらと光っている。


「こタえないト、しンじゃウよ?」


 無邪気に笑って、心臓をそうっと握る。男の目が気を失ってしまいたい、死んでしまいたいと訴えている。けれど、その無音の叫びは少年には届かない。口の端から男がこぼす血の泡に微笑みかけ、少年はきれいな琥珀の瞳で男を見つめて答えを待っていた。


「……っ、せおど……る」


 掠れた声に少年はぱっと顔を輝かせる。けれど、咲いた笑顔は刹那の間に枯れていった。


「せオどール、ちガう! ちガう! ほシいナまえじゃナい!」


 わめき声を上げた拍子に、ぐちゃりと手の中で心臓が潰れた。絶命した男を少年はキョトンと見下ろす。動かなくなってしまったことをほんの少しだけ残念に、しかしそんな感情は数瞬で流されていく。


 名前を与えられなかった少年は名前を探していた。


 そう、さっき聞いたのだ。


「なタりア! ぼク、が、ほシいなマえ!」


 おかアさンがあげたナまエ。

 そレになッタら、おカあサん、ぼク、よンでくレる?


 名前がないのなら、奪えばいい。見つけるまで奪ってころして奪ってころして奪ってころしていけばいい。とりあえずはセオドールで我慢をして、次の名前を探さないと。


 名無しの少年セオドールはにっこりと笑って歩き出す。下でぐずりと何かを踏み抜いて、足がどろどろになってしまったけれどかまわない。

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