ep.060 黒夜に咲く

 風がいている。掠れた咆哮は高く遠く紺碧の海の彼方へと流れていく。エルシオとエヴァンはマントのフードを飛ばされないよう深く引いた。潮の匂いが懐かしい。けれど、バーレイグの街にかつての面影はなかった。瓦礫のまだ片付かない道がある。作りかけの家がある。痩せた犬が餌を探して彷徨っている。それでも、街は少しずつ蘇ろうとしていた。リーゼンバーグの名前の消えた街が。


 バーレイグ地方は帝国の南、海の側にある。まだリーゼンバーグがこの地を治めていたころ、エルシオたちはいつも夏には海辺の別荘で過ごしていた。浜辺で砂まみれになるまで転げまわったし、釣りをしてみたり、海が黄金こがね色になるまで泳いだりもした。エルシオは首を振って記憶を胸の奥深くにおもりをつけて沈める。感傷に浸るために故郷の土を踏んだわけではない。


「あそこか、俺たちの次の標的、バーレイグ基地」


 エルシオは目を細め、離れた場所にある帝国軍基地を見た。陽光を物々しい砲塔が鋭く弾く。あの基地もかつてはリーゼンバーグのものだった。もう考えるまいと先程沈めたはずの記憶が、振り払おうとしても、やはりぷかりぷかりとあぶくのように浮かんでくる。


「眩しいね、兄さん」


 澄んだ蒼穹から降る光に容赦は無い。エヴァンは手をひさしのようにして遠くを見る。綺麗な碧海に、おもちゃみたいな灰色ののっぺりとした基地は似つかわしくなかった。


「……ああ。そろそろ行くぞ。あまり長居するのはよくない。最近治安局が動いているらしいし」


 エルシオは唇を引き結ぶ。捕まれば、何もかもが終わる。いつしか、内腑を鷲掴みにされるような恐怖が身体から離れなくなっていた。いつまでこれを続ければいいのだろう。初めてしまったからにはもう引き返せないと知りながら、同時に果てのないこの道がとても怖い。ぷつん、と道が切れてしまう日が来るまで歩かねばならないし、歩くつもりではいるけれど。


 バーレイグの街を歩く。細々と開かれる市には果物や干し肉が並んでいる。自然と唾が湧いた。エルシオの隣で間抜けに腹の虫が鳴る。エヴァンが照れくさそうに頬をかいた。


「今日くらい、何かまともな物を食べてもいいよな」


 せっかく故郷に帰ってきたのだから。今日だけ、残飯漁りをやめて、握り締めたわずかな金で店に入っても許されるのではないか。……それが失策であったと気付くのはまだほんの少しだけ早い。


「エヴァン、今日はどこか店に入ろう」


 翠の瞳が瞬いた。固く張り詰めていたエヴァンの顔は久しぶりに年相応の表情を覗かせる。


「いいの!? お金なくなっちゃうけど」


 ぽんとエヴァンの肩に手を置く。


「いいんだ。理由はどうあれ帰ってきたんだから、贅沢するくらい許されるって」


 黄昏に染まる薄汚れた看板には下手くそなパスタの絵が描いてあった。どうしてパスタが巻くのに失敗した毛糸玉みたいになっているのだろう。立て付けの悪い扉をギイギイ押して、二人は暗い店内に入る。トマトの香りに紛れてソーセージの匂いが広がっていた。扉を確認しやすい壁際の席に座り、現れた店員に一番安いパスタを二つ頼んだ。まだ料理も来ていないというのに、思わずフォークとスプーンを握ってしまう。かつての金銭感覚からすると、はした金にみすぼらしい食事だ。けれど、今となってはとんでもない大金にご馳走で、しかもこれを胃に収めれば素寒貧すかんぴんだ。人生本当に何が起こるか分からないな、と自嘲した。


 ギイギイと扉の開く音がした。


 目だけで来客者を確認する。男たちが三人。黒服にあしらわれた銀の装飾が仄暗い光に鈍く輝く。心臓が一気に冷える。懐に隠した黒金くろがねの温度を確かめた。


「……疑わしい……少年……二人……」


 途切れ途切れに聞こえる会話。治安局の男たちはこちらを捉えた。


「……兄さん」


 どうぞ、とパスタがことりと置かれる。しかし、エヴァンはとっくにフォークとスプーンを置いて、目深に被ったフードの隙間から男たちを睨んでいた。エルシオはテーブルになけなしの銀貨二枚を置く。これから二人が起こすことを思えば到底足りない金額だけれど、手持ちが無い。すまない、と心の中で頭を下げた。また、リーゼンバーグのせいで迷惑をかける。


 迷いなく拳銃を抜いて引き金を引いた。三回、三発、逃がしはしない。崩れ落ちる男たちに店員が悲鳴を上げた。がちゃんがちゃんと厨房で鍋のひっくり返る音がする。エルシオとエヴァンは扉を蹴破り、日の落ちた街へ走り出す。薄汚れたテーブルに取り残されたパスタはまだ湯気をくゆらせていた。


「店に入ったのは失策だったな……」


「パスタ食べれなかったね……」


 逃した魚は大きい、とも言うが、二人の関心は既に違う所に移っていた。転がるように街境へと走り続ける。うるさいくらいの心臓の鼓動が二人を急かす。治安局の目が張り巡らされつつあるこの街にはもういられない。元より帰る場所を失くし、叛逆に身を投じた時点で居場所などありやしない。


「いたぞッ! 追えッ!」


「クソッ!」


 治安局員たちの姿が迫る。エヴァンがエルシオに拳銃を投げた。横に放ったはずなのに、前に飛んでいく拳銃。エルシオは跳んだ。中空の銃を掴み、エヴァンに視線で問う。


「銃弾に毒を塗ってあるんだ! 僕じゃ絶対に当てられないけど、兄さんなら! この状況でもやれる!」


「了解、当てればいいんだな?」


 うん、とエヴァンが強く頷く。エルシオは引き金を引いた。走りながらの照準の難易度は静止している場合と比べると桁違いに上がる。たとえ当てるだけであったとしても。けれど、弾丸は空を裂き、引き金を引いた回数だけ人間の身体を捉えていく。掠めるだけでも事足りる。なぜならエヴァンの作った毒薬の成果は歴然としているから。追いすがる治安局員たちの姿が目に見えて減っていく。かちりと再装填リロードした最後の弾が切れる。同時に二人は森の中に突っ込んだ。


 ゲホゲホと咳き込むように息をする。心臓が口から飛び出してしまいそうだった。


「どうする、このまま逃げる?」


 弱気な質問とは裏腹にエヴァンの瞳は煌々と燃えていた。木の幹に身体を預けて座り込んだエルシオは鼻で笑う。


「まさか。バーレイグは、俺たちの手で落とす」


「それで、僕らも逃げおおせるってね」


 エルシオの手をエヴァンが引く。服に付いた土を払い、エルシオは立ち上がった。







 時刻は○二○○。風向きは海の方角、すんと鼻を動かせば潮の香りが仄かに匂う。見上げればすぐの位置にバーレイグ基地がそびえていた。星明かりに鉄条網の影が地面にへばりつく。


「作戦開始だ」


 こつんと拳を突き合わせた。そうして、二人は静かに走り出す。エルシオは裏口を見張る兵士に肉薄し、締め上げる。エヴァンの毒針がずぶりと哀れな兵士の首筋に沈んだ。ずしりと重くなった身体をできるだけ静かに横たえる。


「おい、大丈──ッ!」


 途絶えた反応をいぶかしんで顔を出した兵士も同じ末路を辿った。エルシオとエヴァンはそのまま見張りを倒して、基地内部へ潜り込む。ここまではいつも通り順調だ。


 だが、二度の襲撃で毒を使うことは見破られている。ガスマスクの配備も進み、すぐに装備できるようにしていることだろう。だから、前とは戦法を変える必要がある。


 ゴーグルを付け、エルシオとエヴァンは視線を交わす。夜を深めた基地は静かだ。多くの兵は眠りの中だ。けれど、これまでの襲撃で警戒が強まったのか、見張りの数が想定よりもずっと多い。


 角からエルシオは顔を出す。ばちりと兵士と目が合った。拳銃を抜く、けれど、間に合わない。


「て、敵襲―っ!」


 叫び声が夜を破る。エルシオは兵士の脳天を撃ち抜いた。銃声の残響がうるさい。


「早く行くぞ!」


 集まってくる兵士の数が刻々と増えていく。薄暗い基地は喧騒に包まれる。最上階の砲台へと続く冷たいコンクリートの階段を駆けていく。銃弾が肩口を抉った。エルシオは顔をしかめる。エヴァンの身体が傾ぐ。エルシオはエヴァンの手を掴んだ。


「大丈夫か!? エヴァン!」


 たらりとエヴァンの顔を鮮血が伝い落ちた。


「……っ、なんとか、大丈夫。掠めただけっぽい」


 それよりも、早く。


 毒ガスの入ったボンベを、追いすがる兵士たちの海へ投げ込んだ。ガスマスクをしていない兵士が痙攣して倒れ伏す。しかし、多くがガスマスクをしている中、毒ガスは有効手段ではない。そう認識して兵士たちはあざけった。それこそが彼らを殺すと知らずに。


 毒ガスの広がる階下。エルシオとエヴァンに向けて発砲が続く。


 そして、空気が爆ぜた。


 真紅の業火が人を焼く。引火性の毒ガスだ。空気よりも重いガスはエルシオとエヴァンの所までは届かない。


 焦げ臭い匂いにあの夜を思い出す。燃え落ちる街と屋敷、灰になっていく記憶。綺麗な紅を憎んだ日を。決して忘れないと誓ったあの光景すべて。


 エルシオとエヴァンは傷を押さえながら、階段を上った。エヴァンの作った弾丸に塗られた毒で人を殺して、炎の熱さを背中に感じながら引き金を幾度も引いた。


 かん、と二人分の足音で外に出る。冷たい風が吹いた。鮮やかな紅の髪が翻る。翠の双眸で遠い地面を睨んだ。逃げ出そうとする高官らしき人物の姿が白い光の中に浮かび上がって見えた。奪った銃でエルシオは無造作に照準する。たあん、と乾いた銃声が風に溶けた。白い舞台照明スポットライトの中で人が倒れて動かなくなる。この基地もこれで終わりだ、と乾いた感慨に息を吐いた。


「そろそろ降りよう。もう僕たちの邪魔をする人間はいない」


 エヴァンの言葉に頷こうとした顎を引きさした。ぞくりと氷を背中に転がし込んだような冷気に身体が動かない。エヴァンの翠の瞳が見開かれる。


 星明かりだけが眩しい夜に、銀の死神が音もなく舞い降りた。


 銀の髪、藍の瞳、黒い軍服。美しい貌に浮かぶ表情は無い。凍てついた刃のような少年がエルシオとエヴァンを見た。硝子のような目に身体の芯が底冷えする。下では炎が人を喰らいながら蠢いているはずで、ついさっきまでは叫び声と爆ぜる音がこの耳には確かに届いていたはずなのに。なぜか、今は、とても、静かだ。


「……お、まえが」


 エルシオの声が掠れる。まばたきをした少年の髪がさらりと揺れた。


「……みんなを、殺した、おまえは、おまえはァッ!」


 エヴァンがえる。それでも少年の顔に変化はない。まるで人形だった。綺麗なだけの人形、そうであればどれだけ良かったことだろう。あれが美しい飾り物ではないことを、エルシオはとっくに気がついていた。だって、身体が凍り付いたように動かない。あれの前では何も成せないと、知った途端に足がすくんだ。


「待てエヴァン!」


 激情のままに飛び出すエヴァンを止めようと叫んだ。けれど、それよりも速かった。銀の少年がエヴァンとエルシオの意識を葬る方がずっと、ずっと……。







 闇の中から意識が浮かび上がる。まだ目は開けないまま、そろりと指先を動かした。指先が温もりに触れる。恐る恐る目を開くと、エヴァンが隣で寝ていた。少しずつ、闇に馴染んでいく目で周囲を見渡せば、ここは牢のようだった。じっとりとした空気は重い。ゆっくりと息を吐き出してしばらくすると、エヴァンが目を覚ました。


「に……いさん、ここ、どこ?」


「牢屋っぽい、な。そもそもここはどこなんだ……?」


「ソフィリア、帝国の首都です」


 エルシオの問いに機械のような声が答える。ハッと牢の外に二人は顔を向けた。銀色の少年が無表情で立っている。様々に暴れる感情の激流を抑え込むのに必死で黙り込むエルシオたちを、少年は静かに見下ろしていた。


「なんで、おまえが、そこにいる」


 感情を押し殺して問えば、声はとても冷然としていた。


「お二方の監視任務を遂行中です。したがって、おれがここにいることは当然ではないでしょうか」


 投げつけた言葉は無味乾燥な形になって投げ返された。答え方もまるで機械だ。


「……なぜ、殺した」


「具体的に対象を教えていただけますか。今の情報量からでは絞り込めません。ですが、どの対象に対してもおそらく解答は同じです。おれは暗殺人形です。ひとをあやめるために生み出された兵器です。暗殺人形はただ命じられた通りに任務の遂行をします。なので、おれが殺したのであればそれは任務だったのでしょう」


 無機質な硝子のような瞳に見つめられ、エルシオは目を逸らした。信じられないくらいに真っ直ぐな瞳だった。そこには何もなかった、嘲笑の一滴さえも。なんなんだよ、こいつ、とエヴァンが地面を殴りつける。硬い冷たい床に拳が切れて血が滲む。けれど、エヴァンは気にもとめない。暗殺人形のからっぽの目に唇を噛んで、じわりと滲みだす血の味を飲み下す。


「……だって、こんな、こんなヤツが父さんたちを殺したって……そんな」


 こんな、がらんどうなモノを憎んだ二年間は一体。こんなモノをどんな風に殺したとて、何の意味もない。


「っ、それなら、おまえは」


 エルシオの翠の瞳が炎のように揺らめいた。


「……誰の武器だ?」


 暗殺人形の少年が初めて身動ぎをする。


「ガンマ総帥、アリア様です。お二方が目を覚まして落ち着かれましたら、アリア様の元へお連れするよう命令を受けています」


 牢の鍵が開き、鉄格子の扉が動いた。エルシオは数瞬の間に視線を巡らせる。監視は暗殺人形だけ、周囲に人影はない。さすがに武器を奪われてはいるが、逃げ出すなら今だ。エヴァンと目が合う。エヴァンも同じ思考に辿り着いたらしかった。それでも、二人の結論は同じ。エルシオとエヴァンを二人が反応するよりも速く倒した暗殺人形、彼には決して敵わない。逃げ出すのは、不可能だ。


 息を呑んで暗殺人形の背中を追いかける。じめじめとした廊下に牢屋が並ぶ。けれど、どこも空っぽだ。さびれた牢は長いこと使われていないようですらあった。目を凝らしてみてもどこかの大きな建物の地下らしい、としか分からない。


 硬い地面を軍靴で叩いているはずなのに、暗殺人形は音を纏わない。エルシオと同い年くらいの背中を睨みながら歩いていれば、暗殺人形の背は奥に現れた扉の前で動きを止めた。


「こちらです」


 鉄の扉をくぐると、開けた部屋に並ぶ錆び付いた拷問器具が目に入る。多種多様な鉄の拘束具が壁からぶら下がり、鉄の処女アイアンメイデンまでもが片隅で佇んでいる。こんな前時代的な器具で拷問されるのかと顔から血の気が引けた。エヴァンの震える指先がエルシオの手に触れる。エルシオはエヴァンの手を握った。冷たく淀んだ空気の中、エヴァンの手だけが温かい。


「素敵な関係ですね。それが互いを想い合う、というものなのでしょう?」


 りん、と鈴を鳴らしたような冷たく透き通った声が響いた。いつの間にか目の前には黒い女が立っている。黒いベールで隠してもなお滲み出る妖艶な美しさに視線を奪われた。女は黒いロングドレスの裾をつまんで一礼する。所作一つ一つが気品に満ちて美しい。こんなじめじめとした拷問部屋でさえなければ、女はどこかの女王のようにだって見えたはずだ。


「初めまして。私の名はアリア。帝国軍に属する暗殺部隊、ガンマの総帥です」


 そして、暗殺人形の担い手。


 口も開けずに立ち尽くす二人の少年に向かってアリアはあでやかに微笑んだ。白い華奢な指先がエルシオの顎をなぞる。エルシオの喉が上下した。側に佇む暗殺人形よりも余程恐ろしい。紗の奥の、色すら分からない瞳が微笑む度に心臓が鼓動を止めてしまいそうになる。            


「あなた方がリーゼンバーグの生き残りですね。確かに、あの愚かなコルネリウス・リーゼンバーグによく似ている……」


 かっ、と頭が沸騰した。アリアの手を振り払い、エルシオはえる。


「父さんを侮辱するなッ! おまえなんだろ! 暗殺人形を使って俺の家族を殺したのは!」


 武器を持っていないことすら忘れて、掴みかかろうとする。けれど、アリアは微笑んだだけだった。なのに、エルシオの身体は未知の恐怖に突き落とされる。暗く深い水底に沈められ、身動き一つできないまま怪物に差し出されるばかりの餌でしかない、と否応なしに理解させられた。


「──っ」


 口が無為に息を吸い込む。絶対にあの女には手が届かない、あの目から逃げ出してしまいたい。それでも、黒い薄布の向こうの目から目が離せない。いや、目線を外すことを許可されていないのだ。勢いを失った手が虚空を掴んで力なく落ちる。


「ええ、私が指示しました。リーゼンバーグを滅ぼし、街を焼けと。リーゼンバーグは目障りでしたから」


 憎むべきは死神ではない。真実憎むべきは、死神──暗殺人形を繋ぐ糸を操る人形師の方。


 やっとかたきを見つけたのに。


 握りしめた拳の内側で皮膚が切れる。ぽたりぽたりと血が伝う。けれど、アリアに掴みかかろうだなんてもう思えない。そんな勇気があるとすれば、蛮勇と名がつくだろう。何度思い描いても、何もできずに死んでいく未来しか浮かばない。


「それにしても、二人だけでよくここまでやりましたね。最高議会ですら大騒ぎになっていたのですよ? 自らリーゼンバーグを葬る選択をした彼らがその亡霊に怯える様はとても甘美なものでした」


 あなた方もそうは思いませんか、と愉しそうに彼女は笑う。口を開くことのできないままのエヴァンに代わって、エルシオは閉じていた口を無理矢理開く。


「……それは、大層なことですね。暴れまわった甲斐があったというものです」


 でも足りない。名前もなく、入る墓もなく、記憶する人もないまま、死んでいった家族を弔うには全く足りない。まだ皆のことを憶えているエルシオとエヴァンにだけにできる唯一が、復讐だ。だからまだ、こんなところで終われない。なのに。


「ええ、ええ。ですからご褒美をあげなくては」


 こつりこつりとヒールの音が反響する。暗殺人形は無音で佇むだけ。エルシオはエヴァンの手をもう一度握った。アリアはエルシオたちの立つ場所から遠く離れた壁に打ち込まれた手枷の元で足を止める。


「簡単な遊戯ゲームをしましょう。あなた方二人の内、どちらかをここで手枷をつけてはりつけにします。そして、磔にされた方の頭の上、このレンガを撃ち抜くことができれば撃った方を生かしましょう。どうですか、悪い遊びではないと思ったのですが」


 そんな馬鹿げた提案めいれいをするアリアはどこまでも無邪気だった。腕組みをして微笑んでいる姿には欠片の悪意もない。だからこそ、よっぽどタチが悪い。彼女はエルシオとエヴァンに強いている、どちらを生かしどちらを殺すのか。そもそも、六十メートルほど離れた小さな的に薄暗い中で当てる行為自体が無理難題だ。なによりも、この条件ではエヴァンが確実に死ぬ。黙り込むことしかできないエルシオの手の中から、するりと握っていたはず手が解かれる。エヴァンがエルシオの顔を覗いて微笑んだ。


「兄さん、僕行くよ。大丈夫、僕は兄さんが絶対に外さないことを知ってる。僕は兄さんを信じてる」


 だから、生きて。


 僕の分まで。


 駄目だ、と叫んで縋りたい。けれど、あの女がそれを許しはしない。手を伸ばしたままで、エヴァンの背中が遠ざかる。手のひらに残った温もりを失くしてしまわないように握り込んだ。エヴァンを失うなんて、ありえない。あの女はどれだけ奪えば気が済むのだろうか。


 ──もう何も、失くしたくない。


 燃え盛る星のように輝く翠の瞳が凪いだ。エルシオは目を閉じて、もう一度目を開く。そこにあるのは絶対零度の翠。深い湖水のような翠は厳寒に凍り付く。凍り付いてしまえば最後、決して揺らぐことはない。


「……一つ、条件を付け加えさせてください」


「いいでしょう」


「的、手枷、すべて一発ずつで撃ち抜くことができたのなら、エヴァンを、弟を自由にしてください。オレはどうなっても構いませんから」


「兄さんっ!」


 抑えきれなかった悲鳴のような声が耳朶を震わせる。その叫びを黙殺して、アリアを見据えた。天使のように微笑んでアリアは頷く。


「許可しましょう。すべてを果たしたというのなら、エヴァン・リーゼンバーグを自由の身に、そしてエルシオ・リーゼンバーグを私たちガンマに迎え入れましょう。では、証明してください。あなたが自身の言葉に殺されないと」


 アリアが暗殺人形に目くばせをした。銀の少年は静かにエルシオの手に拳銃を置いていく。冷たい重みは今まで戦場を共にしてきた古い拳銃のものだった。爪が食い込んでできた傷の痛みを忘れていく。冷ややかな鋼にじわりと手の温度が伝わっていく。指先と拳銃が溶けあうような、そんな感覚。


 撃鉄を起こし、銃口をエヴァンに向けた。


 エヴァンの瞳が遠くで瞬く。その中に恐怖の色はない。大丈夫、信じてる、兄さんは絶対に外さない。エヴァンの言葉がエルシオの中から迷いを消し去る。


 躊躇いなく引き金を、今、引いて。


 乾いた銃声が三度響く。一発目の弾丸は、エヴァンの頭ギリギリにある的の中央を。二発目の弾丸はエヴァンの左手の枷を砕き、三発目の弾丸はエヴァンの右手を自由にする。からんからん、と砕けた手枷が床で鳴る。役目を終えた拳銃は硝煙を薄く引いていた。


 突然解放されたエヴァンは崩れ落ちるように座り込む。エルシオはエヴァンに視線を向けることもなく、アリアを見た。もしもこれでこのふざけたをやめると言い出したのなら、即座に撃てるように。


「素晴らしいですね。本当に当ててしまうなんて、私の想像以上の才です」


 拍手の音がぴんと張り詰めた空気をかき乱す。歩いてきたアリアはそして、エルシオに向かって白い綺麗な手を差し出した。


「歓迎しましょう、エルシオ・リーゼンバーグ。ガンマへ、ようこそ」


 その手を握る以外の選択肢はたった今失われた。冷え切った手で美しい女の手を握る。


「……はい、アリア様」


 体温の低いアリアの指先がエルシオの手に絡んでほどかれる。死がエルシオのすべてを見透かして、口づけた。逃がしはしないと嗤われる。それでも悲鳴を噛み殺し、エルシオは全身の震えを殺してみせる。だって、後ろにはエヴァンがいるから。


 背中にエヴァンの視線を感じた。ほんのわずかに振り返れば、泣きそうな目と視線が合った。行かないでと言ってしまうのを堪えて震えているのが分かる。エヴァンの考えていることなんて一から十まで見通せる。それに、エルシオだって同じだから。それでもこの別れがどうしようもないことだと二人は痛いほどに理解している。エルシオは口の動きだけで問いかけた。


 オマエもまだ、戦うだろ?


 泣きそうになっていたエヴァンの綺麗な翠の瞳がぱっとわらった。


 もちろん。


 エルシオは口の端を吊り上げる。それからもう二度とは振り返らなかった。







 ***







 夜の色はあの日から何一つ変わっていない。漆黒の中ではいつものように星がさんざめく。帝国軍本部、そしてガンマの本部のあるノルデンリヒトの氷空そらは、憎らしいほど澄んでいた。


 かつては憧れた帝国軍の黒い軍服を纏うようになってどれだけ経っただろう。


 エルシオは鮮やかな赤髪の下で冷ややかに翠の双眸を細めた。


 アリアに命じられるがままに奪った命の数など分からない。奪われたものを今度は他人から奪っていく。失わないためには奪うしかない。そうして殺した人間の亡霊に口を塞がれて窒息してしまいそうになる日だってあった。


 何のために殺し、何のために生きるのか。


 すべてを奪ったあの女を殺す。


 それがエルシオ・リーゼンバーグの生きる理由みちしるべ







 ***







 エルシオと別れたあの日もこんな空をしていた。


 たった独りでソフィリアの街に放り出されて、見上げた空だけは憎らしいくらいに澄んでいて星が綺麗だった。一度だけ、エルシオの行ってしまった方角を振り返って、歩き出したことをエヴァンは今でも憶えている。それから今日まで脇目も振らずに走ってきた。人を集め、砦を各地に作り、すべてはいずれ訪れる日のために。


 一陣の風に攫われて、マントのフードが外れた。こぼれるようになびく鮮やかな赤髪の下で冷ややかな翠の双眸が細められる。


「行こう、“王様”」


 部下の男がエヴァンを見る。ああ、と頷いて、フードを被り直す前にもう一度だけ冷たい空を見上げた。


 同じ空を、同じ星を、同じ色の瞳で見上げている人がいるのなら。


 まだ、エヴァン・リーゼンバーグは戦える。

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