ep.059 翠星が嗤う
「おいこらッ! 待ちやがれッ!」
「誰が待つかよ」
呟いてエルシオは人混みの中に突っ込んだ。泥棒だ、と叫ぶ声が背後で波紋を落とす。エルシオは盗み取った林檎を二つ握りしめた。燃えるように綺麗だった赤髪は汚れてくすんでいる。代わりに、深い湖の底のような瞳の翠は燃えていた。痩せ細っていても、瞳に灯った炎だけが星のように爛々と輝いている。
薄暗い黄昏の市場は光に彩られていた。あと少しで終わる昼の時間、あと少しで始まる夜の時間。店先のランタンが早めの夜を告げている。貧民街の人々が集まって賑やかな空間は、エルシオには眩しくて疎ましい。黄色みの強い光から逃げ出すように、路地に転がり込んだ。灰色でしんとした道を歩く。人影があるのに静かなのは、彼らが既に事切れているからだ。骸には一瞥もせず、エルシオは初秋のスラム街を突き進んだ。
虫の鳴き声が風に載ってくる。土砂降りの雨でも降ったら、何もかも流れていきそうなほどに脆弱な家々を睨む。薄っぺらな服がなびいて、風が肌寒くなったことを知った。
スラム街の端に位置するボロ小屋がエルシオとエヴァンの暮らす家だ。きらびやかな屋敷と温かい生活と甘い記憶は、今となっては遥か遠い。
「エヴァン、やるよ」
扉を開けて林檎を投げた。いつも通り完璧に、指先で林檎をあらぬ方向に弾き飛ばすエヴァンの姿にエルシオは唇の端を持ち上げる。無造作に林檎をかじった。大味だな、と頭の片隅で思った。
「兄さん、また盗んできたの?」
いそいそと林檎を拾って、エヴァンは汚れを手の甲で拭う。
「ああ、まあそうだな」
「いつもごめん。そういうことばっかやらせちゃって」
謝るなって、とエルシオはわしわしとエヴァンの頭を撫で回す。
帰る場所はとうに無く、金も無ければ、食べる物すらおぼつかない。帝国貴族であった誇りを泥の中に棄てて、盗みだって何度でもやった。それでも、息をしていたいと願うのは、すべてを奪ったあの死神をまだ殺していないから。
「──兄さん、準備はあらかた終わったよ」
エヴァンの手の中で薄黄色の透明な液体の入った小瓶が揺れる。エルシオはそれが高濃度の劇毒であることを知っていた。
稼いだなけなしの金で情報を買った。闇市に流れる銃と暗器、毒薬を調合するための材料を買った。
元々薬学に興味を持ち、多くの知識を持っていたエヴァンが毒を作ると言い出したのが最初だった。死神の居場所を最後まで掴めなかった二人は、標的を帝国軍そのものに定めたことで殺しの効率を求めた。二年の月日を費やし、立てた計画は大詰めだ。エヴァンが散布に適する毒を完成させたため、残すところはもはや実行のみになる。
「この家ともお別れだな」
「うん、この林檎が最後の晩餐」
最後の晩餐とか縁起悪すぎだろ、とエルシオは笑った。ビーカーやフラスコを並べ、殴り書きのなされた紙片が散らばる机でエヴァンがチビチビと林檎をかじっている。エルシオのはというと、とっくに芯まで食い潰されていた。
「まずは武器の調達からだな。古臭い拳銃一丁だけだと心もとない」
床板を外すと、ケースに入った旧式の帝国軍支給の銃が現れる。ケースから取り出して薬室に一発一発弾を込めた。撃てるのは六発。古いものだが、良い品だ。手に入れた時には壊れかけていたが、丁寧に直して手入れをすればそこらの拳銃よりもよっぽど信頼できる相棒になる。
「最初はノーレルの基地を落とすんだよね。で、ついでにいくつか武器を拝借する、と」
「ああ。風が淀みやすい地形と老朽化した基地、立地は最高だ」
ノーレルは帝国領の南側、共和国との国境にあるデアグレフの真上に位置する地域だ。ゲシュペンスト山脈の通るノーレルに置かれた補給基地は、背面に山を持つ守りに適した造りをしている。ここが武器と食糧を前線に供給する導線を作っていた。しかし、守りやすいということは内部からの攻撃には弱いということ。
「毒はできるだけ広範囲に拡がるように中心部からばら撒きたい。兄さんにはできるだけ内部に侵入してもらわないといけない。あと、言っておかないといけないのは……、この毒は皮膚毒じゃないから、吸わなければ大丈夫だってことかな」
丁寧に林檎を食べ切って、エヴァンは立ち上がった。
「なるほど、了解した。ヤツらにだってガスマスクは配備されてるだろうが、情報屋から買った情報によると、ノーレルは長らく戦闘に巻き込まれた経験がない。不意打ちには弱いはずだ。だから、おまえの毒が不発に終わるってことには絶対ならないだろうな」
「それに、僕らの目的はできるだけ多くを葬ること。後始末なんてどうでもいい」
──あの死神を引きずり出す、どんな手を使っても。
赤髪の兄弟は二年過ごした小屋を出る。それから、火をつけた。躊躇いもなく。真紅の炎が燃え上がる。パチパチと弾けた火の粉が宙を狂い踊る。紅い光に目を細めた。光に照らされて身体中が紅く染まっているようで、血を頭から被ったみたいだ。
エルシオの身体が震えた。これから。これから、殺しに行ける。リーゼンバーグを葬る選択をした軍と、家族を奪った死神を。
エルシオとエヴァンの唇が同じ角度で歪む。
小屋に背を向けて、二人は拳を突き合わせた。
「──行こうか」
「うん、兄さん」
***
暴れ回る心臓を押さえつけ、エルシオは引き金を引いた。ぱあん、と音が弾けて、およそ五十メートル先で巡回をしていた兵士が倒れる。こんなに、簡単に人は死ぬのだと初めて知った。実感は湧かないけれど、ドクドクと耳元で聞こえるくらい心臓の音はうるさい。
「クソッ」
拳銃はそのままに、男に向かって走る。
「侵入者だ! 至急応援を頼む!」
カッと白い光がエルシオの姿を暴いた。眩しさに目が眩む。銃声が聞こえた、と認識した瞬間、熱い感覚が右足を襲う。
「チッ──!」
倒れた男まであと一メートル。転がるように彼の持っていた小銃を掴んだ。音のした方へ、眩んだ目をこじ開けて引き金を引く。撃って、撃って、撃ちまくる。
蓋を開けると即座に気化するという毒の入った小瓶はエルシオの懐にある。ただし、半分だけ。もう半分は基地の裏手側を進むエヴァンが持っている。森側で息を潜め、エルシオの合図を待っているはずのエヴァンを思った。
襲い来る弾雨がまばらになってくる。撃たれた右足を引きずりながら、エルシオは窓から基地へ潜り込む。
バタバタと慌ただしい音と警報が鳴っている。
基地一個がエルシオただ一人にこれだけ恐慌するのだ。
──とても愉快じゃないか。
嗤って、小瓶を廊下の奥へ投げた。銃口を、宙を舞う小瓶に向ける。銃が囁きかけているような気がした。今、撃てば必ず当たると。
「なんだ!?」
「誰か何か投げたか!?」
銃弾が寸分違わず中空の小瓶を撃ち抜いた。弾け飛んだ硝子の破片がぼんやりとした白い光の中に煌めく。
「が……!? ぐ……ァァァ!」
小瓶の近くにいた兵士が首を掻きむしる。天井を見上げて手を伸ばした兵士はもがくように口をぱくぱくと動かす。水の中から空気の中へ引き上げられた魚のように身体をよじって、兵士たちが倒れていく。
呼吸を止めてエルシオは出口へ走った。興奮が撃たれた右足の痛みを忘れさせる。気を抜けば、声を上げて嗤ってしまいそうだった。
外へ出た瞬間に、弾を詰め替えて拳銃を上へ向かって撃った。閃光が夜をほんの数瞬染め変える。これで外に出ている兵士たちに内部の異変を気づかせ、毒ガスの滞留する空間に誘き出す。そして、エヴァンは通風口から残りの毒を撒くだろう。そして、もっと多くの兵が死ぬ。
「兄さん! 終わったよ!」
「こっちも抜かりはないぜ」
基地から離れ、森を進んだ先、川の辺で二人は落ち合う。エルシオは奪った小銃とくすねた弾倉をエヴァンに見せた。
「さすが兄さん……って、足! 怪我してるよ!」
「ん? あ、ああ」
指摘され、暗がりの中で右足に視線を落とす。ズボンの布地は真っ赤に染まっている。エヴァンは躊躇いなくズボンの一部を破いて周りの血をふき取ると、傷を確認した。腰に回していた鞄から小瓶をいくつかと針と糸を取り出す。小型のライトをエヴァンはエルシオに手渡した。
「今はたぶん、興奮してて痛みが来てないんだ。だから、今のうちに縫合しておくね」
「おまえ、そんなことできたのか? 俺、全然知らなかったけど」
消毒液らしき液体をエルシオの足にかけてから、エヴァンはエルシオの足を手際よく縫っていく。明かりはエルシオの掲げる小型ライトのものだけだというのに、エヴァンの指先はするすると器用に皮膚を縫い合わせ、糸を結んでいった。
「二年の間、僕だって毒ばかり作ってたわけじゃない。闇医者から色々手ほどきを受けたんだ。医術書は前から読んでいたし」
「……そっか。おまえの方は傷はないのか?」
「僕は大丈夫。兄さんほど酷くない。それに処置は済んでるから。……縫合終わったよ、あまり動かさないようにね」
ああ、と頷いて、小型ライトの光を消した。居場所が割れるような行動はできるだけ避けなければいけないからだ。蛍火のような頼りない光ではあったけれど、消してしまうと暗がりばかりが広がり出して、寄る辺を失ったように思える。肌寒い風に汗ばんだ身体が冷やされる。エヴァンがくしゅんとくしゃみをした。
「想定より内部へ入り込めなかった」
ぽつりと呟く。小瓶を破壊した地点と脳内に叩き込んだ地図を照合する。本来であれば、もう一本先の廊下で破壊する予定だった。
「僕ももう少し内側から拡がるようにしたかったんだけどね」
最初の作戦だ。何もかも上手くいくなんてことはありえないだろう。だが、それでもたった二人で基地を一つ沈めたのだ、上出来すぎる。辛酸を舐めた二年間は無駄ではなかったと、証明できたのだから。
「……おまえの作った毒で、帝国兵がたくさん死んだよ。もがきながら、何が起きたのかも分からないまま、無様に死んでいった」
エルシオは顔に手を当て、くつくつと喉を鳴らして嗤う。
「エヴァン、おまえ最高だよ」
エルシオの手が頭に載ってエヴァンの身体が小刻みに揺れた。昏い嗤いに、肩を揺らす。
「兄さんもすごいよ。一人で帝国兵たちの懐に飛び込んで帰ってくるんだから」
エヴァンの頭を撫でた手を離し、エルシオは拳を握った。
「次はもっと上手くやれる。もっと殺せる。もっともっと殺して、最後に死神を殺すんだ」
さあ、何もかもを奪ったものたちへの復讐と叛逆を。
***
「立て続けに基地と兵を失うとは一体どういうことだ! 昨夜で二件目だぞ!?」
ザイツエルガー大将は興奮のままテーブルを叩いた。反動でズレたスチールフレームの眼鏡を押し上げ、十三の席の設けられた円卓を見渡す。席は十三、座るのは十二。二年前から十三番目の席はぽっかりと空いたままだ。
「……確かにこれ以上見過ごすことはできないでしょうな」
マクシミリアン大将は深く息を吐く。ザイツエルガーほど憤ることはないが、不愉快であるのに間違いはなかった。マクシミリアンは視線をゆっくりと巡らせ、顔を隠した黒衣の女とその隣に座る眼光の鋭い男を見た。
「ガンマの総帥殿と治安局長殿はどうお考えですか?」
アリアは穏やかに微笑む。代わりに、リオン・イスタルテが口を開いた。
「信じられないことだが、調べによるといずれの犯行も二人の少年によるものだと考えられる」
「はあ!? 貴様はふざけているのかね!」
「少年二人がノーレルとダーデンベルを一夜で落としたと?」
ざわざわと円卓が騒がしくなる。リオンは鬱陶しそうに手を振った。アリアの白く細い指先がカツンとテーブルの端を打つ。たったそれだけの所作でしんと冷たい沈黙が霜のように舞い降りた。
「リオンの言ったことは正しいですよ。あの二人の少年たちは毒を用いて数多くの兵の生命を奪いました。ノーレルは立地の悪さゆえに多くの犠牲を出しましたが、ダーデンベルは対応が速く、ノーレルほどの被害は免れました。ですが、彼らが私たちの帝国軍、その威信を傷つけたことには変わりありません」
表情の分からないアリアの横顔に、リオンは厳しい視線を送った。
「したがって、治安局からは人員を出すことを決定した」
アリアの言葉の切れ目にリオンが治安局の決定をねじ込むと、アリアはわざとらしく驚いた素振りをして口元に手を当てる。
「あら、あなた方もですか。私たちガンマも動きます。そうですね、競走とでもいきましょうか、どちらが先に二人を捕まえるのか」
微笑を残して、アリアは円卓の席を立った。その背にマクシミリアンは問う。
「少年たちの正体はご存じなのですか?」
振り返るアリアの唇に刻まれた深い笑みに恐怖する。質問をしたことを後悔した。マクシミリアンたちの漂わせる恐れの味を舌先で転がして、アリアは玲瓏な声で返答する。
「──リーゼンバーグの生き残りです」
二年前、この円卓にて全員一致で下した決定。それは、大罪人のコルネリウス・リーゼンバーグとその一族の抹殺だった。アリアが決定に基づいてガンマを放ち、リオンが治安局を使ってリーゼンバーグの存在を消し去った。行き過ぎた制裁を、憶えている者がいたというのなら。
マクシミリアンは唇を噛んだ。白く白く握りしめた拳をテーブルに叩きつける。
少年たちの目的はあまりに明白。
漆黒のドレスが衣擦れの音を響かせる。アリアは黙り込む高官たちを一瞥すると、扉の向こうへ消えていった。彼女がいなくなってもなお、最高議会の席に漂う空気は身動きが取れないくらいに固く凍り付いたままだった。
コツリコツリと黒いヒールでつるりとした床を叩く。アリアが向かったのは
「アリア様、お呼びでしょうか」
しばらくすると、訪問者があった。罠だらけの床を臆面もせず正しい手順を踏んで歩いてくる。黒い軍服に身を包んだ美しい少年だ。絹のような銀の髪、夜空のような藍の瞳。そして、どこまでも無表情な顔。
「ええ。よく来ましたね、ライ」
少年──ライはぱちりとまばたきをした。
「二年前、あなたが滅ぼした家のことを覚えていますか?」
「はい。リーゼンバーグですね。ご命令通り、内部の人間はすべて殺し尽くしました」
ライは即答する。いつ、どこで、だれを殺したのかはすべて覚えている。過去の任務は記憶しておきなさい、とアリアに教わったからだ。
あの空気のよく乾いた宵、ガンマはリーゼンバーグの直轄地であるバーレイグに放たれた。リーゼンバーグを支持する人間は一人残らず惨殺された。記憶ごと拭い去ろうとするように、ガンマは街に火をつけて灰にした。そして、ライはリーゼンバーグの屋敷の人間を殺すようにと命じられた。変わった男に本当の名を名乗ったことも記憶の狭間から思い出す。普段は決してしない行動に今でさえ理解ができていない。とはいえ、あの日殺した人数に間違いはない。
「どうやら、リーゼンバーグには生き残りがいたようです。身代わりを立てたのでしょう。あなたにはきちんと顔を覚えさせるべきでしたね。……いいえ、これでよかったのかもしれません」
こちらの方が面白いですから、と無邪気な少女のようにアリアは笑う。アリアの考えていることは理解不能だ。ライは無機質な瞳でアリアを注視した。アリアがゆったりと歩を進め、ライの頭を撫ぜる。こころがないはずの暗殺人形でさえ、思わず息を詰めた。
「リーゼンバーグの生き残りを捕えてください。殺してはいけませんよ。私はあの二人に興味があるのです」
殺してはいけない任務というのは初めてだった。それでもライは疑問すら抱かない。任務に疑いを持つ機能は暗殺人形にはなかった。だから、即座に形から腕の角度まで完璧な敬礼をする。
「了解しました」
銀色の死神は、そうして黒夜に放たれた。エルシオとエヴァンの望んだ通りに。
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