ep.058 真紅に背く

 真紅は家紋の縫い取られた布地の色。黄金の剣が二本重なり合った優美で力強い家紋の下にこの色を据えたのは、帝国の剣として民のために血潮を流すと誓う覚悟の証とするため。


 いつか。


 いつか、エルシオもその家紋を抱いて戦場へ赴くのだ、と信じてやまなかった時期があった。弟のエヴァンと共に武勲を上げ、父を喜ばせるのだ、と純粋に願っていた。


 けれど。


 ──けれど、そのいつかは永遠に訪れなかった。





***





 来年になれば士官学校に入れる、というエルシオ十六歳の年。四つ下の弟のエヴァンはエルシオが士官学校へ先んじて入学するのが気に入らないらしい。しょっちゅうぶすくれているのは全部そのせいだ。


「いいよね、兄さんはさ、来年の春から軍人かあ。僕だって早く立派になって父さんの役に立ちたいのにさあ」


 ベルベットのソファで兵法書を読んでいたエルシオの後ろから、もはや板についた不服そうな声が降る。エルシオと同じ燃えるような赤髪に深い湖水のような翠の瞳。これらの色はリーゼンバーグである証で、エルシオたち兄弟の誇りだ。


「エヴァンだって、四年経てば行けるだろ。四年なんてあっという間だぜ、あっという間」


「そんなわけないじゃん! 四年だよ? でもさ、戦争は今この瞬間も続いてるんだよ。少しでも頑張って戦争終わらせてやりたいじゃん。ふもーだよね、百年くらい戦ってるっていうんだからさ。理由だって曖昧だし。で、終わらせるついでに武勲もたくさん立てる」


「スケールでかいな。でも、確かにこんな戦いない方がいい。不毛な戦いが多くの民を殺しているんだから。それに、おじい様も戦場で散られたし、そのまたおじい様もそうだった。父さんにもいつかそんな日が来るのかもしれない。そう考えると、おまえのスケールのでかさも納得かもしれないな」


 だよね!、とエヴァンが身を乗り出したから、背もたれから滑り落ちて顔ごとクッションにのめり込んだ。ぐえ、なんていう潰れたカエルみたいな声を上げるエヴァンに思わずエルシオは噴き出す。つられてエヴァンも笑いだした。一度声を上げてしまえば、なんだかずっと愉快な気分で。そんな二人をリーゼンバーグ夫人は微笑ましく眺めている。


 ちりんちりん、とベルが鳴った。


 これはこの屋敷の主が帰ってきた合図だ。エルシオとエヴァンは慌ててソファから飛び出して、玄関ホールへ走る。ホールには年季の入ったシャンデリアが高い天井から吊り下がり、真紅のカーペットが階段へ向かって敷かれていた。エルシオとエヴァンはわくわくしながら開かれる扉を待つ。あまりソワソワしていると兄としての威厳が台無しになると、エルシオは動き出しそうな身体を必死にかつ自然に見えるよう押さえつけていた。横目ではエヴァンが小躍りしていたけれど。


「御当主様がお帰りになられたぞ」


 ざわりざわりと春になって動き出す生き物の気配のように空気がさざめく。リーゼンバーグの現当主、コルネリウス・リーゼンバーグ大将は特権に溺れる帝国貴族が多い中、公明正大な人物として領民からの支持が厚い。彼に仕える人々はもはや心酔していると言っていいくらいに、コルネリウスを慕っていた。そして、優秀な指揮官と名高い彼は滅多に屋敷に帰ってこない。だから誰もが浮き足立つのは当然のこと。


「ただいま、エルシオ、エヴァン」


 赤い髪の下で翠の瞳が微笑む。帝国の黒に金の差し色の入った軍服は、彼にとてもよく似合う。刻まれたシワは貫禄を、穏やかな笑みに優しさを。エルシオとエヴァンの憧れは目の前にいる。


「父さん! おかえりなさい!」


 エヴァンが犬のようにコルネリウスに突撃する。鍛え上げられたコルネリウスの身体は十二の少年の体当たりにもびくともしない。コルネリウスが大きな手でエヴァンを抱きしめ、頭を撫でた。大事に、宝石に触れるように。そして、手を離すことを惜しむように。


 ちり、とエルシオの首筋に幻痛が走る。


 エヴァンと同じように撫で回されて、髪の毛までいつも以上にボサボサにされながら笑みを浮かべる。けれど、幻痛はちくちくとエルシオの首筋を刺し続けた。


 なにか、とても、いやな。


「父さん、何かあったりしましたか?」


 トラブルとか、共和国のヤツらに何かされたりとか。真っ直ぐ見つめて返事を待つと、コルネリウスは深い湖水の翠の瞳を笑ませた。


「大丈夫。何ともないさ」


 ああ、嘘だ。


 けれど、問い詰めるだけの勇気をエルシオは持たなかった。コルネリウスがそう言うのなら大丈夫だと己を納得させる。エヴァンの満面の笑みを、コルネリウスの浮かべた微笑を、信じる理由にした。たとえ何があったとしてもこの世界は壊れない、と。





「──すまない。すまない。すまない」


 コルネリウスはリーゼンバーグ夫人へ頭を下げた。夫人は眉を下げ、微笑む。


「顔をお上げになって。あなたは謝らなくていいのです。あなたは正しいことをした、そこに罪はありません」


「いいや、罪だとも。私が奪ったのは──」


 ──私が奪ったのは、エルシオとエヴァンの未来と、民の未来だ。





 帝国最高議会は皇帝を交え、国の趨勢を決定する場だ。十三の席があり、いにしえより貴族として帝国に仕え、帝国と共和国が接する南部の守護者たるリーゼンバーグには当然、席が用意されている。


 今までは、それは正しく議会の場であった。しかし、一人の素性の分からない女が席に座った時から何かが狂い出した。自らの姿を薄絹の後ろへ隠す皇室に似せたのか、黒衣の女は黒いベールで顔を隠している。彼女は自身をアリアと名乗り、無造作に最高議会の椅子に腰を下ろした。ひどく妖艶で冷徹な空気を纏った女は息をして存在するだけで他人に恐怖を植え付ける。口を開くことさえも、彼女の許可なくしてはならないと錯覚するほどに。そして、アリアは泥濘とした空気の中でひとり、生娘のように微笑むのだ。醜い争いの歴史を賛美して。


 この不毛な戦いを終わらせる。ただ、それだけがリーゼンバーグの悲願だった。たったそれだけ、けれど何よりも重く険しい。


 アリアがすべてを手に入れる前に動かなければと、コルネリウスは皇帝へ幾度目ともしれない直訴をした。


「陛下」


 呼びかければ、いつだって返事くらいはあった。けれど、今は紗の奥は沈黙を貫いている。皇帝の気配は間違いなく向こう側にあるのに。


「……皇帝陛下」


 紅いカーペットを踏んで、近づく。そこに居られますか、私の声をお聞きになっていますか。紗に触れられる距離になっても、反応はなかった。だから、コルネリウスは手を伸ばす。


 皇帝の姿を暴くことは大罪だ。


 しかし、皇帝の安否を確かめずして何が臣下か。


 薄絹を取り払い、露わになった皇帝の姿にコルネリウスは絶句した。白い玉座に身を沈めているのは、星のような銀の髪に夜空のような藍の瞳をした整った顔の美しい男。けれど、皇帝の目はどこも見ていない。澱んで濁り切った瞳はとっくに死んでいる。今、ここにあるのはただの抜け殻だ。


「閣下。それが大罪であることはあなたもご存知でしょう?」


 玲瓏な声が響く。こつりこつりと靴音を鳴らし、黒衣の女が歩いてくる。護身用の拳銃に手を伸ばす。本能は警鐘をかき鳴らしていた。


「陛下の前で銃を取り出すなんて。罪に罪を重ねてはなりませんよ。……あなたはもっと賢い方だと思っていました」


「ぐぁっ……!」


 女の白い指先に撫でられ、コルネリウスは激痛に拳銃を落とす。空虚な金属音が静謐に包まれた玉座の間を揺らした。歴戦の大将であるコルネリウスが反応すらできなかった。顔を隠した女が戦慄を隠しきれないコルネリウスの近くで嗤う。


「……貴殿こそ、陛下のご尊顔を拝謁して何の罪もないとでも言うのか?」


 ええ。艶かしい溜息に載せてアリアは頷く。


「そういえば皆さんにはお伝えしていませんでしたね」


 黒い女は蝶のように優雅な所作で一礼する。黒百合の出で立ちに、黒蝶の華やかととびきりの不吉を運んであでやかに。


「私は、こちらにおわしますレイノード・ケーニヒ・フォン・アイゼナッハ陛下の妻、アリアです」


 すべてに合点がいった。ばらばらだった事実は結びついて意味を成す。そして、コルネリウスは理解した。己の行為は全くの無駄で無意味であったと。


 アリアは既にすべてを手に入れた。皇帝は傀儡に成り下がり、議会は彼女の掌中に納まり、彼女を止める者はここで粛清される。


「……そうか、これは罠か。完璧だ、賞賛に値する。私は、一族の悲願そのものを利用されて謀られたのか」


 乾いた笑いがコルネリウスの口から転がり落ちた。


「ええ、リーゼンバーグは目障りですから」


「……貴殿にそう思われるとは光栄だな。して、私をどう裁くおつもりか?」


 痺れた右手首を押さえながら、コルネリウスはアリアを見据えた。顔の見えない女の放つ冷気に身体が芯まで凍りついていくような心地がする。


「私があなたの罪を裁きましょう。ですが、そうですね、一晩の猶予を与えます。あなた方が我が帝国につるぎとして仕えた年月を、私は讃えていますから」


 ふざけるな、と柄にもなく怒鳴りかけた。沸き立つ怒りを呑み込んで、コルネリウスはアリアを睨む。アリアはコルネリウスの焼け付いた視線をそよ風ほどにも気にせず、からっぽの皇帝の頬をそっと撫でた。銀の絹糸の髪がさらさらと揺れる。しゃれこうべに美しい女が口づけている姿をコルネリウスは幻視した。


「………………貴殿の温情に、感謝する」


 絞り出すように吐き捨てる。ガンマと称される暗殺機関を持つアリアの手からは誰も逃れられない。だからこそ、彼女は己が皇妃である事実を必要とせずに最高議会の席に座る権利を手に入れることができたのだ。


 たとえ帝国貴族たるリーゼンバーグであれども、魔女アリアに喰らい尽くされるだろう。






「おまえには、エルシオとエヴァンを連れて逃げてもらいたい」


 リーゼンバーグ夫人の手を握って膝を着く。夫人の手がコルネリウスの手を包んだ。コルネリウスが顔を上げると、彼女はゆるやかに首を振った。


「いいえ。わたくしは逃げません。わたくしはあなたの妻で、リーゼンバーグの夫人なのです。わたくしもこの家とともに死にましょう」


「なら、あの二人はどうする?道連れになどしたくない、これは、私の我儘だ。だが、」


 まだ綺麗なままの二人を死なせはしない。いや、どんな二人であっても死なせない。


「ええ、わたくしも母親ですもの。あなたの気持ちは痛いほど分かります。……ですから、息子たちを生かすためならどんな手でも使います」


 卑怯であろうとも罵られようとも構わない。救えるのなら。


 その日の深い夜の最中、薬で眠らされたエルシオとエヴァンは積荷とともに小舟で水路に流された。黒い水のうねりに小舟は運ばれて、屋敷から離れていく。深い眠りの底に沈められたまま、エルシオとエヴァンは行先も理由も知らずに。





 夜明けに灰色の雲が広がり出した。暁の薄紅は灰色が塗りつぶす。仄かに明るくなった灰色の空はやがて泣き出した。


 ぽつりぽつりと水滴がエルシオの顔に落ちる。


 まぶたが震えて、翠の瞳が空を見た。それから、硬い床が動いていると自覚して一気に意識が覚醒する。起き上がってみれば、ここは床ですらなくて、頼りなく揺れる小舟の上。雨粒の作る波紋がとめどなく水面を揺らし続ける。いずれ濁流へと変わるのも時間の問題だった。


「……にい、さん?」


 ぼんやりと目を開けたエヴァンの腕を掴んだ。


「エヴァン、どういうことだよ、これ……」


「どういう、こと?」


 とろんとしていたエヴァンだったが、濁り始めた水に浮かぶ小舟に自分が揺られていることに気づくと目を見開いた。


「兄さん、これって……」


 わけがわからない、とエルシオは空を仰ぐ。雨が目に入って、思わず目を閉じた。ごうごうと水音が激しくなる。森の中の小川も雨になれば即座に濁る。鬱蒼と茂った木々が空を閉ざしつつあった。


「とにかく舟から降りるぞ」


「うん、このままだと沈んで僕たちもおしまいだから」


 エヴァンの飲み込みの速さはいつものことだし、ほんのわずかな言葉だけでエヴァンはエルシオの意図をすべて即座に読み取る。エヴァンが積荷を縛っていた縄を解き、エルシオがおもりを付けて岸の木へ投げつけた。


「くそっ、ハズレた!」


 風にあおられて軌道のそれた縄を迅速に回収していく。同時に前方にエヴァンが叫ぶ。


「大丈夫、兄さん! 次の枝はもっと近いよ!」


「おらよっと……!」


 雨を切り裂いて飛んだおもりは、枝を捉えて縄をしっかり巻き付かせる役割を果たす。後は二人でなんとか引っ張るだけ。とうとう沈み始めた小舟は川の底へ、エルシオとエヴァンは足をもつれさせないように縄伝いに岸に上がった。


 けれど、荒い息を吐いて休んでいる場合ではない。


 同じ赤髪からぼたぼたと水を滴らせ、エルシオとエヴァンは歩き出す。心が急いて、動いていないと叫び出してしまいそうだった。


 なぜ。

 どうして。

 なにが。


 小舟に揺られ続けて平衡感覚が若干の狂いを見せている。何度も泥の中に顔を突っ込んで、その度に立ち上がった。


 先へ、進まなければ。


 漠然とした不安はエルシオとエヴァンを内から喰い破ってしまいそうだ。


「……兄さん、やっぱりこれは」


 汗なのか雨なのか分からない雫を拭い、エヴァンは呟く。エルシオはエヴァンの顔を見ずに頷いた。


「父さんたちに何かあったんだ。おれたちをこんなにあっさり眠らせて舟に乗せることができるのは、父さんと母さんだけだ」


「父さんたちの所に急がないと」


「ああ」







 それは半分の月が美しい澄んだ夜のことだった。


 銀色の髪に硝子のような藍の瞳を持つ少年が屋敷の中を歩いていた。すらりとした身体付きに無駄はなく、限界まで研ぎ澄まされた刃の鋭利を宿している。整った顔に表情と呼べるものは何ひとつない。瞳の奥はがらんどう。無音の中、わずかな月明かりを受けて照らし出される少年の姿は、人形のようだった。


 静寂の海のあちらこちらに死体が転がっている。急所を一発撃たれて即死したものたちだ。倒れ伏す死骸に無感情な視線を巡らせ、少年は歩みを進める。少年にとって、命を奪うことは存在意義だ。そのために育て上げられたから。命令を完璧に遂行するためだけにこの身体は動いている。


 手の中の冷たい鉄の塊。小型で持ち運びがしやすい拳銃は、人殺しに対しての最適解だ。効率的に殺すために進化を遂げてきた非情な武器。そう、それは少年と同じ。


 帝国軍第三位組織ガンマ。アリアが創設した組織であり、専門は諜報と暗殺。もっとも、暗殺の方が主な仕事だが。ただびとには知りえない最暗部の組織だった。ほんのひと握りの人間がガンマを知り、その恐ろしさを知っている。


 帝国の夜を象徴するガンマは、とある兵器を保有していた。強く、壊れない、最高の兵器を。戦場に放てば最高の戦果を、闇夜に放てば最上の獲物くびを必ず持ち帰ってくる兵器を。


 音すら死に絶えた空間の中、少年は標的の部屋へと足を動かす。どこまでも冷たく、どこまでも空っぽな、こころを持たない美しい少年。


 それこそが暗殺人形と呼ばれる帝国最凶の兵器だ。


 暗殺人形は明かりのついた部屋の戸を叩くこともせず、内へ滑り込む。上品な服をまとった女を撃つ。女は目を見開いたまま、絶命の息を吐いた。天蓋付きの寝台で寝息を立てている赤髪の兄弟を撃つ。眠りと死は地続き。二人には痛みも死の自覚すらないだろう。


 四人目の気配に暗殺人形は藍色の瞳を動かした。引き金を引く数瞬前、赤髪の男が言葉を発する。不安定にぐらついている声音から、恐怖、何らかの憂慮、または驚愕といった感情が存在する可能性があると暗殺人形は理解した。


「……君は、君は」


 普段死に際に人間が見せる顔とは異なっている。赤髪の男を前に暗殺人形はまばたきをした。


「君の名を知りたい」


 なぜ、死にゆく人間が暗殺人形の情報を知りたいのか、わからない。理解不能だ。だって、意味がない。けれど、なぜか。


「俺の名は────」


 長い名前を口にする。この名前には多くの意味があるのだと、アリアが言っていたが。意味など暗殺人形には必要ない。


 消音器サプレッサーで殺された銃声が弾ける。


 驚愕に染まった顔のまま、赤髪の男がゆるやかに倒れていく。暗殺人形は死体の数がきちんと四つあることを確認し、屋敷へ火を放った。





 身体も顔も切り傷だらけの泥だらけ。ひゅうひゅうと音を立てる喉は身体の限界を訴えている。エルシオとエヴァンが流されたのは共和国との国境へ向かう水路だった。途中下船した、というか退避したのは川へ繋がる中流付近。幸か不幸か、丸一日歩き続ければリーゼンバーグの屋敷へ着く距離だ。


 深い夜に街が眠る頃、エルシオとエヴァンは生まれ育った街に辿り着いた。真紅の炎に包まれた、故郷に。焼け焦げた匂いに鼻がおかしくなりそうだった。


「父さん! 母さん!」


 エルシオたちは叫びながら、屋敷へ走る。熱風に呼吸を止め、煤に顔を黒くして、紅い炎の舌を潜り抜けた。通っていた幼年学校は崩れ、泥だらけになって遊んだ公園は灰になっていく。この街で生きてきた十六年の月日が全部、燃え尽きる。何もエルシオたちには残さないと嘲笑うように、ちろちろと炎が揺らめいていた。


 人々が逃げ惑う声が、生きながら燃やされる苦悶が、耳をつんざく。助けを求める人から目を背けて耳を塞いでただひたすらに屋敷いえを探した。涙が止まらなくて、自分が何を言っているのかまるで分からないくらいに喚き散らす。


 やっと目にしたリーゼンバーグの大きな屋敷は炎に呑まれようとしていた。


 糸がぷつりと切れたようにエヴァンが地面に膝からくずおれる。エルシオもこれ以上は立っていられなくて、膝を着いた。二人をここまで駆り立てていた気持ちが切れる。枯れ果てた声でエルシオは泣いた。


 もう、いい。

 もう、ここでいい。

 もう、歩けない。


 爆ぜる火の粉が星を詐称する。夜だというのに、こんなにも明るい。エルシオは明るすぎる空をぼんやりと見上げた。屋敷の屋根、まだ火の手が回りきらないその場所に目が吸い寄せられる。


 半分の月の光と炎に照らされた人影があった。慌てることもなく、冷然とした佇まいで燃え落ちるすべてを見下ろしている。


 あれだ。


 銀色の、死神。


 あれが、自分たちからすべてを奪ったのだとエルシオとエヴァンは直感で理解した。


 翠色の目を見開く。焼け落ちるすべてと銀色の死神を焼き付ける。頭に刻みつけて、決して忘れないように。決して、この憎悪を忘れないように。


 真紅は、自分たちからすべてを奪った炎の色だ。


「……エヴァン、憶えたか?」


 エヴァンが涙を拭って頷いた。


「……うん。絶対に忘れない、忘れるなんて無理だ」


 ゆっくりと立ち上がって歩き出す。鉛のような、体力の限界を超えた身体を無理やり動かして。そして、もう二度と振り返らない。


 エルシオとエヴァンは綺麗だった故郷の街を、愛した屋敷と甘やかな思い出ごと全部棄てた。生きる理由は、もう決めたから。そのためなら、なんだって棄ててやる。真紅の炎に心をもべた。


残すのは、激しく燃える復讐心だけ。


「あれを殺す」


 憎たらしいくらいにきれいだったあの人影。


「楽には死なせない、そうでしょ、兄さん?」


「ああ」


 エルシオの唇が弧を描く。翠の瞳を燃やして歪に嗤った。

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