ep.057 氷の刃

 エルザは息を吐いた。切れた通信にリュエルの規則正しい寝息。沈黙した通信機を置いて部屋を出る。《智恵の魔女ミネルヴァ》が何と言っていたのかエルザは知らない。


 陽の射さない病室の空気は身体にのしかかるようだった。息が詰まってしまいそう。ナタリアとライがいない。ルカはいるが、リュエルの傍から離れようとしない。そしてアルバは出かけていた。小規模な病院はそれだけで途方のない沈黙にとざされる。今はルカをリュエルの病室から追い払った後だったから、一層しんとしていた。


 折れていた白衣の袖を荒れた指先で直した。ざらりとした手触りに心臓が鼓動を早める。またここに、今度は医者としてやってくることになるとは。


 捨て去った過去が今になって影を伸ばす。いや、元々忘れることなどできなかった。この小さな病院けんきゅうじょで見つけた少年を第一研究所に連れて行ってしまったことがエルザの咎だ。少年に名前をつけてしまったことがエルザの罪だ。


「ルクス……」


 背中を壁に預ける。壁の冷たさが身に染みる。研究員の資格を剥奪されたエルザには、手が届かなかった。第一位使徒が研究所を焼き尽くしたあの日。何もかもが業火に呑まれてしまったというのに。研究所にルクスも残してきてしまったというのに。


「私は、それならどうして……」


 どうしてまだ生きているのだろう。


 握りしめた拳で壁を叩く。白くなった手が痛い。切れかけだった電灯が白い光を明滅させてふつりと切れた。ふと窓の外を見れば灰色の空が覗いている。外はきっと寒いだろう。冬はもう目の前に佇んでいる。


 足音が響く。


 悠然とした足運びはルカの軽やかなそれとは異なる。嫌な予感にエルザは拳銃を抜いた。


「……誰?」


「拳銃持って挨拶だなんて、随分と物騒だねえ」


 知らない男の声がした。人影が近づくにつれて、克明になる姿。深緑色の髪が右目を隠し、覗く左の目は茜色だった。


「ここに、なんの用かしら」


 灰色の瞳を細め、エルザは問う。怪訝は隠せないし、隠す気もなかった。リュエルに手出しはさせないと肩を張る。男の唇が歪む。嗤ったのだと認識するにはひねくれすぎた表情だ。エルザは思わず息を呑んだ。


「ちょっくら情報収集って感じかな。んで、あんた、使徒化計画とどれだけ関わってる? 第二位様が肩入れし、そして瀕死の人間を治療することができるほどの技術を持っている……」


 つまり、あんたは暗部の研究員だ。


 断定だった。疑いすら瞳の中にはない。ただ真っ直ぐ視線がエルザの瞳の奥を突き刺す。


「私に探りを入れるのが特務の仕事かしら?」


 半分はハッタリだったが、男は思いの外あっさりと頷いた。


「ああ、そうだよ。かつて、あの研究を行っていた第一研究所は焼けた。イカれた第一位使徒が火遊びしたのだとか。その時大勢の研究員も死んだ。だけど、そのときに逃げた人間がいたとしたら──」


 男がエルザを見据える。エルザは微笑んでみせた。


「──そしたら、殺すというのかしら?」


 分かってるね、と男は嗤う。冷えきった三十八口径がエルザを向く。この距離、この状況、特務とやり合えば確実に死ぬ。マシンガンは無く、グレネードを投げることもできない。


 エルザの戦法は、必要な時に必要なだけ計算づくの物量を叩き込むものだ。最適を弾き出す計算速度が飛び抜けているがゆえに、今まで生きてくることができた。普通の戦場、普通の人間であれば十分対処できるが……、今の敵は特務。


 計算すら意味をなさないことは明白だ。


 一挙手一投足がエルザの命の長さを規定する。それでも、ここで途絶えるとするのなら、せめて。爪先に仕込んでいた針の存在を確かめる。塗られているのは、ほんのわずかでも血管に入れば命を奪う劇毒だった。


 ゆっくりと銃口へと足を進めた。くすんだ金髪が揺れる。


「……あなたの推測は正しいわ。逃げるのはもう疲れた。だから──」


 嘘をつく。真実は決して、暴かせない。けれど、逃げることにうんざりしていたのは本当。ずっと死に場所を探していた。自分で自分を殺せないほどに臆病で、戦場で死を目の前にすれば抗うくらいに生き汚い。そんな自分が嫌いだ。


 額に振れた鉄の冷たさに目を閉じた。恐ろしく冷酷な瞳が至近でエルザに注がれる。


「エルザ! 避けろっ!」


 この瞬間に、声が聞こえていなかったら。そしたら、エルザは──。


 奥の扉を蹴破って、降り注いだ硝子を被ったままの金髪の男が飛び込んでくる。流れるように男が抜いた拳銃が火を噴く。閃光が暗い通路で弾ける。吹き飛んだのはエルザに先ほどまで突きつけられていた拳銃だ。


「──っ!」


「こいつは俺が何とかする! エルザは距離を取れ!」


「分かったわ! アルバ!」


 アルバの邪魔になることだけは避けたい。また無駄に命を拾ってしまったと思いながら、アルバの背中を見つめる。


 叩き込まれる蹴りがアルバの髪を攫う。反対側にアルバは身体をひねり、男の脇へ発砲。弾丸は男の服を切り裂いた。が、男は体勢を即座に立て直してアルバの横っ面に拳を放つ。


「がっ──!」


 血が飛んだ。吹き飛ばされるアルバを男が追撃。飛び込んでくる男にアルバは獰猛な笑みをもってして反撃する。アルバの拳銃の角が男の顎を打つ。男は口の端から血を滴らせ、ニヤリと唇を歪ませた。二人は揉み合うように扉を越え、非常用階段に躍り出る。かんかんかんと鋼鉄を踏み締めるくぐもった音が響く。頬を切り裂く冷たい風は傷に染みた。三階から二階へ、二階から一階へ飛び降りる深緑の髪をアルバは追う。三階から中空へ身体を放り投げた。


 夕方の傾いた日差しが曇り空から覗いている。煌と輝く眩しい茜色、伸びた長い長いふたつの影が動きを止める。アルバと向かい合う男の手には新しい拳銃が握られていた。特務へ支給される新型の自動式拳銃。命中率、速射能力、対象へ与える衝撃、いずれを取ってもアルバの持つ旧式よりも上だ。早撃ち勝負なら、分が悪い。黄昏の中に沈んだ世界で二人が互いに向けた銃口は舌なめずりをするように、鈍い輝きを放つ。


 ──しかし。


 二人は向け合った拳銃を同時に下ろした。男は口の端から筋を引く血を拭い、口を開く。


「……このくらいやれば十分かい? アルバス」


「……ああ。だが、なんでお前がここに現れたんだ?」


 目を細めて問うと、男は肩を竦めた。


「なんでって、言わずとも分かることだと思うんだけど。上は瀕死の人間の命を繋ぐほどの技術を持つ医者に興味がおありでね。第二位様がこそこそと使わなくなった病院けんきゅうじょを押収して、君たちの部隊に使わせているというんだから」


 当然でしょと言う男に注ぐアルバの視線は依然として厳しい。


「要するに、エルザ・レーゲンシュタット中尉が元研究員だったら殺せって話なんだけど」


「なら、どうして俺に話が回ってこないんだよ?」


 けけけ、と嗤う声がする。嘲笑と呼ばれるその笑い方は確かにアルバに向けられたもの。


「君、あいつらに情が移ったんじゃないの。さっきのアレだって、半分以上本気だったでしょ。お偉方に疑われてるんじゃね?」


「……嘘をつくのなら、自分の心まで騙せなきゃ本物じゃない」


 髪をぐしゃぐしゃとかいて、アルバは溜息をつく。ふうん、と男は猫のように目を細めた。


「君さー、鈍った?」


「は?」


「前より動き、遅くない? そのままだと蹴落とされるかもよ?」


 男が足を進める。二人の間の距離が縮む。アルバは鼻で笑ってみせた。


「ふざけんな。俺が鈍ってるって? 寝言は寝て言え」


「ふーん。ま、どうでもいいけどさ。で、エルザ・レーゲンシュタットは殺していい? 確実にクロだよ、あの反応見ると」


 アルバの蒼い瞳が凍てつく。荒れ狂う波を硬く凍りつかせたような厳冬を宿す。吹雪も起こらないほど、空気も息を潜めるほど、静かな冬を。


「……お前は手を出すな、ビリジアン。あいつらは、俺の獲物だ」






 男──ビリジアンが去った後、アルバは目を閉じた。膝がかすかに震えている。ゆっくりと乾いた芝の上に膝をついた。


 紫紺の空に一番最初の星が灯る。一陣の風は身を切るほどに冷たい。


「っ……」


 げほっ、と咳き込むと手のひらにべとりと血が付いた。軋み続ける身体の悲鳴に耳を塞ぐ。口を拭えば、紺の軍服の袖が黒ずんだ。


「アルバ!」


 エルザが走ってくる。悲痛な顔を見れば、余程心配をしてくれたのだとすぐ分かる。アルバはすくっと立ち上がり、いつも通りの笑みを浮かべた。


「メーワクな闖入者は俺が追っ払ってやったぞ」


 ドヤ顔も追加。


「もう! 全く、無茶をして!」


 アルバをしばきにかかりそうな勢いのエルザの髪は鳥の巣みたいに暴れている。ほんの少しだけ、彼女の目の端は赤かった。


「大丈夫だってば、ちょっと殴られただけだし」


「ちょっとって何よ! いいから黙って傷を見せなさい!」


 エルザの説教をへらへら笑って聞き流し、時折油を注いでみる。それが、アルバス・カストルという人間だ。何も間違うことはない。


「俺は強いんだぞ、心配するなって」


「ライもいないのに、特務に生身で挑むなんて! 自殺志願者と同じじゃない! 霧のかかった樹海でウロウロしてる人間と同じよ! 一歩先が崖かもしれないのに!」


 アルバはエルザの灰色の瞳を覗き込んだ。エルザが震わせた視線の先を問い詰めるように追いかける。


「……それはエルザには言われたくない。エルザ、死ぬつもりだっただろ。他人には危ないことはするなって言っておいて、自分は銃口に脳天差し出すのか!? 諦めるのかよ、簡単に!」


「──!」


 目を見開いて立ち尽くすエルザを置いて、アルバは歩き出した。


「しばらく頭冷やしとけよ。このくらいの傷なら自分でも手当できる」


 死すら否定できるほどの技術と腕を持つことがどれだけ大きな意味を持つのか、エルザは理解するべきだ。どれだけの人間が彼女を欲しがることか。


「……アルバ」


 小さな声がアルバの足を止めた。頭だけで振り返る。


「助けてくれて、ありがとう」


 その言葉に返答する資格をアルバは持たない。ただ黙った。エルザもそれ以上は何も言わない。そして、退いた陽が残した温度が消えていく。静けさだけが何よりも克明。





 けれど、沈黙の持つ意味は決して等しくはない。


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