ep.056 嘘つきの心火

 左、右、前、後ろ。


 視線を巡らせて、カイルは肩を落とした。


 左には白い壁。右には鉄の扉が連なる通路。前は階段。後ろは電気の消えた廊下。


「ここどこ……」


 ついさっきソフィアに迷子かと尋ねたのは一体誰だったか。たった一人で未知の場所に取り残されるのは、正直かなり心細い。第七七中隊の賑やかな面々が恋しかった。


 人気のないここが、何階でどこの棟にあるのかすらも分からない。普通は位置を表示するはずだが、そうした案内はしばらく歩いてウロウロしても見当たらなかった。


「うーん、こっちかなあ」


 いつも通りカンに任せて道を選んだ。今回は鉄の扉まみれの通路の方だ。軍靴が硬い床でこつりと音を立てた。覚悟を決めて歩き出して、最初に通りかかった扉には何も書かれていなかった。なんとなくドアノブを回すと、何の抵抗もなく扉が開く。


「宿舎の部屋に似てる……けど、なんか刑務所みたいだな」


 窓の鉄格子からの外の光が、薄ぼんやりと部屋を照らしていた。奥の小さなベッドに薄っぺらいマットが敷かれている。壁に設置される机の上に埃は落ちていない。どこもかしこも綺麗なままだ、まるで最近まで住んでいた住人がいなくなった後のよう。宿舎の造りと同じなら部屋の中にはちっちゃなバスルームがあるはずだ。そう思って、入口横の扉を押した。


「──ッ!」


 散らばる硝子がタイルの上に散乱している。拳銃が死人と同じ温度の床に倒れ伏して、狭苦しいバスルームの隅にうずくまっていた。そろそろと目線を上げると、目の前には蜘蛛の巣のようなヒビに分かたれたカイルの顔。叫び声を嚙み殺し、暗闇に目を凝らす。それは弾痕の刻まれた鏡だった。そして、鏡の横に目をやれば、黒いインクが壁を埋め尽くしている。


 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない──。


 知らない人間の慟哭が身体の中を這いずり回る。入ってくるなと叫びたくて口を開いた。なのに、声は喉奥に張り付いたまま出てくることもない。全身から力が抜けて、カイルはへたり込んだ。指先が床の硝子の破片で切れて、粒のような血が転がり落ちる。


「……はやく、ここから、でなきゃ」


 ふらふらと覚束おぼつかない動きで立ち上がり、部屋を出た。両手には悴んだように力が入らない。足は笑っている。今すぐにでも座り込んで、目を塞いでしまいたかった。見なかったことにもしたかった。けれど、脳裏に焼き付いた文字は消えないし、消したくない。言葉を残したのは、きっと忘れてほしくなかったから。それなら、カイルだけでも覚えていよう。がらんどうな部屋の主がもういないことはおそらく真実で、手向ける花がない代わりに影法師だけでも連れていこう。


「《死天使ヘルエンジェル》が送られてきたそうだ」


「大統領の采配だと聞いているが、あれは帝国の兵器ではないのか? なぜここにそんなものが運び込まれる?」


 かつかつという足音と共に二人の男の声が流れてくる。カイルの背筋が凍った。けれど、ここには隠れる場所なんてない。あの部屋を通り過ぎると、他の部屋には三桁の番号プレートがかかっていた。試しに手を掛けてみたけれど、どの扉も開かなかった。


「私にも分からない。が、あれの調査をするのだとか」


 男が息を呑む気配がした。


「つ、つまり、適合実験を行うと?」


「いや、詳しくは分からないが、少なくとも我々と同じくらいのテストはされるだろうな」


「思い出したくもない。しかし、使えなければ廃棄処分が決まるぞ」


「相手は帝国の兵器だ。気にすることではない。……それに我々も明日とも知れない身だ。使徒ではない我々は、この身体がいつ壊れるかも分からないのだから」


「つい先日も一九四が壊れたばかりだからな……」


 一九四。


 確か、空き部屋の隣の部屋番号は一九三だったはずだ。つまり、あの部屋は……。思わず口を押さえる。視界がぶれてよろけた拍子に鋼色の壁にぶつかった。ガンッ、という大きな金属音に男たちは即座に反応する。


「誰かいるぞ」


 足音が近づく。それでもやはり隠れる場所はどこにもない。血の気が引けて、逃げなければいけないのに動けない。足から根が張り出しているようだった。切り倒されるとき、動けない木はこんな気持ちを味わうのだろうか。


「これ、被ってろ」


 後ろから男の声がして、気がついたらカイルの手にはつるりとした仮面があった。顔全体を覆い隠す白い仮面。意を決してカイルが仮面を被る。同じように仮面をした白い髪の男がカイルの前に立つのと、二人の男が角から現れるのは同時だった。


「大佐殿──!」


 白い仮面の男たちはカイルの隣の男を目にすると、驚いたように敬礼をした。白髪の男の表情は仮面に覆い隠されて見えない。けれど、すらりと伸びる引き締まった体躯は揺らがずに、絹糸のような髪はじっと天井からの光を弾き返している。仮面を外せば、その下には毅然とした表情の整った顔が眠っていそうだ。


「このような所で大佐にお会いできるとは思いませんでした。ところで、そちらの方は?」


 水を向けられてカイルの身体が強ばる。何もやましいところはない。ないのだが、ここはただの陸軍大尉がほっつき歩いていい場所でないのも薄々空気感から気づいていた。白髪の男がカイルの肩に手を載せた。大丈夫、というよりかは、いいから黙ってろ、とでもいったところか。


「えーっと、新入りってところかな」


 ははは、と男は笑った。なるほど名切り返し、とカイルは思ったが、二人の怪訝そうな雰囲気は変わらない。白髪の男の方はといえば、二人の態度を全くもって気にしていなかった。


「俺はこの新入りをしかるべき場所に連れていく。お前らも不用意な会話はするなよ。誰が聞いているとも限らないんだ」


「「は!」」


 声を揃えて再度敬礼をした男たちは、最後にカイルを一瞥して通り過ぎていく。見えなくなるまでカイルと男は黙ったままだった。白髪の男の正体を尋ねようと口を開くが、男は何やら連絡をしているようで口をつぐみ直した。


「一八九と一二七を処分しろ」


 カイルに背を向け、男はカイルには聞こえないよう、絞った声で告げる。それは先程までとは打って変わった無造作で酷薄な冷たさ。それなのに、芯には己の行動の意味と罪から目を逸らさないある種の潔癖さが微かに潜んでいて。


『了解』


 短い通信を終え、男はカイルに向き直った。どうやら質問をしてもよいということらしい。


「あの、あなたは誰ですか?」


「答える前に、名前の確認だけさせてくれ。お前はカイル・ウェッジウッド大尉、で合ってるか?」


「ほえ?」


 まさかここで自分の名前が出てくるとは思わず間抜けな声が漏れた。男が苦笑するものだから、とても恥ずかしい。


「そ、そうです!」


 慌てて返事をし直すと、男は軽く頷いた。


「そーか、なるほど、お前が例の棚ぼたか」


「……その、棚ぼたってのは有名なんですか……?」


 不名誉、というよりかはカッコ悪いあだ名がこんなところでも。カイルは人差し指同士をくるくると動かしながら、男を窺う。


「まー、お前の経歴見れば棚ぼたじゃんってなるからなー。俺たちの間だと、もう正式名称かもしれないな」


 がっくり。全然知らない仮面の怪しい人たちにも認知されてしまっている。心なしか肩を落としたカイルの肩を男がぽんぽん叩いた。


「それで、俺が誰かって話だったな。俺はルクス、特務部隊所属だ。とりあえずここでは大佐と呼んでくれ」


 仮面の下で男──ルクスがにっと笑う気配がする。特務部隊は大統領直属の部隊だという話を聞いたばかりだったので、目の前のルクスの気さくさには拍子抜けだった。いい人もいるっぽい、どうやら。


「よろしくお願いします、大佐」


「んで、お前はなんでこんなとこにいるワケ?」


 カイルは視線を彷徨わせた。特務の大佐と後ろに広がる無数のドアが並ぶ廊下。ひやりと這い寄る冷気は今もカイルの足元を冷やしている。少し前まではソフィアの部屋で話をしていたはずなのに。


「それが、その……」


「はあ? 迷子になったあ?」


 ボソリと控えめに答えると、ルクスが素っ頓狂な声を上げて頭を抱えた。曰く、そんなことで俺出てきたの、ウソだろ……と。


「俺、ミステリアスキャラで売ってるのにさ……」


「売るとか買うとかあるんですか? 需要ってあるんですか? 気になりますね! いや、でも、こんなとこには無さそう?」


 あーあーあー、と聞こえないフリをし始めたルクスに思わずカイルは噴き出した。が、不敬罪で首ちょんぱされるのでは、と思い直して笑いを堪える。仮面の下では顔が真っ赤になっていることだろう。


「……まあでも、来ちゃったもんは仕方ないな。ついでに色々見せるか。お前もいずれ知るべきだし」


 ついてこい、とルクスは手招く。カイルは深呼吸をすると、ルクスの背中を追った。


 ルクスが向かったのは地下だった。一層寒くなった世界に身震いをする。カイルが見たことのない先鋭的な機械が並んだ空間に人はいない。異様な静けさを破り、人が入れそうなほど大きな水槽の中であぶくが昇る音が響いていた。とろりとした薄暗がりで、液体に満たされて密閉された硝子の水槽は淡く光っている。


「こ、れは」


 水槽の中で赤子が眠っていた。たくさん、たくさん、列を成して。近い方はまだへその緒が伸びたまま、奥の方には歩き出しそうなほどの子どもの姿さえもあった。厳かで神秘的、けれど同時にひどく冒涜的だ。神はいないと、声高に主張しているとすら言える。だって、ほら、命は造れる。


「研究所ってやつだな」


 ルクスにしてはあまりに平坦な声だった。声を震わせることすらない静かな激情は、感情が彼の中で押し殺され続けたことの証左だ。いくら仮面が表情を隠そうとも、凍てつく心火しんかは隠せない。


「なんで今、人がいないんでしょう。夜ご飯でも食べてるんですかね……」


 震え声で尋ねた。研究所というからには働く研究員がいるはずだが、人の気配がさっぱりしない。考えられるとしたら、総出でご飯を食べているとか。


「お前な……、そんなワケないだろーが」


 呆れ果てて、ルクスが溜息をつく。


「そうなんですか!?」


 カイルとしては頑張って考えたと思ったのだが。はあ、とルクスはもう一度溜息をついて首を振る。


「最近ここに運び込まれた帝国の兵器の試用実験をしているらしい。……まあ、その時間を狙ったわけだ」


「それって、《死天使ヘルエンジェル》のことですか?」


 ルクスの答えは先程と比べてほんのわずかに遅れた。だがその分、慎重に彼は言葉を選んでいた。


「……ああ。帝国の暗殺人形、その最高傑作だ。戦場の天使、目にした者は必ず命を失うという怪物。この国の《死神グリムリーパー》と同格、いやそれ以上だ」


 血と硝煙の吹雪く、終わりの地。灰色の世界で舞う天使は人の心を知らないのだ、と。それとまみえた刹那に命は散華する。曰くそれは、この世のものとは思えない程にうつくしい少女のかたちをしているのだ、と。


「大佐は《死天使ヘルエンジェル》を見たことがあるんですか?」


 ルクスから答えはなかった。肩を竦め、ルクスは蛍火のように輝く硝子の水槽に触れる。眠る赤子は身動きもしない。あぶくが煌めきながら昇っていく。


「あんなものは存在すべきじゃない。いびつだから」


 ルクスはそれきり何も言わなかった。




「仮面の返却よろしくー。それ、お前が持ってるままだと危険だからな」


 カイルを基地の出口まで案内したルクスはすっかり調子を取り戻していた。出たのはどうやら裏口らしく、本部の中心となる建物からは死角の位置だ。ルクスが影から出ることはなく、仮面を外したカイルが月明かりの下に飛び込むとひらりと手を翻す。


「お前も気をつけろよ。既にお前は色々なことを知りすぎた。もうその道には帰り道なんてないんだからな」


「はい。覚悟はできてます。大佐もどうかお元気で! 寒くなりますし、風邪とか引かないでくださいよー」


 ちぎれそうなくらい手を振った。最後まで仮面を外さなかった白髪の大佐は頷いたあと、カイルに背を向ける。その背を追うようにして扉がゆっくりと閉まった。漏れ出していた光がか細くなってふつりと消えたから、裏口は漆黒の中に沈んでいくように見えた。


 底の見えない、凍てついた宵闇の奥へ。





 ***





 カイル・ウェッジウッドが迷い込んだのは第二研究所を内包した、十三番棟という建物だ。正規のルートからは見ることもおろか、入ることもできない立地になっている。しかし、位置自体は軍本部の建造物が林立する中に堂々と、だ。木を隠すには森、というわけだ。


 ルクスは鋼色の無骨な廊下を独り歩く。白い電灯は眩しく、壁には金属プレートの打ち付けられた扉が無数に設けられていた。


 あれもそれも開かずの扉。秘匿事項や最新の研究、あらゆる技術の記録が閉ざされた扉の奥に納められている。そして、実際の研究所は地下にかけて広がっているのだ。そこで得られた成果はライブラリに登録され、瞬く間に研究員たちに共有される。外部とは数十年、いや数世紀ほどの技術的な隔絶が存在するわけだ。


 共和国暗部での技術の目覚ましい発展速度を支えるのは、選りすぐりの天才たちだ。彼らはそれぞれの部門に分かれ、隔絶した環境で研究に没頭する。けれど、己の行いの是非を問うことはしなかった。その研究がどれだけの影響を及ぼすのかを知らぬがゆえに。


 廊下を通り過ぎる人の中、仮面を被ったルクスを目に留める人はひとりもいない。特務部隊が機密を保持し防衛する任務を負っているというのは、ここでは周知の事実。


 ルクスの視線が手の中にある仮面に落ちた。


 なぜ、特務の人間が仮面をつけるのか。

 なぜ、番号で管理されているのか。


 仮面の下で薄く嗤う。


 人体実験によって生み出された歪な生き物はヒトではない。いくら使い潰してもいい兵器。……仮面も番号も、彼らをつくった人間がそうした幻想を見るための小道具にすぎない。


 かひゅっ、と喉が嫌な音を立て、ルクスは咳き込んだ。カイルに返してもらった仮面が手の中で悲鳴を上げてひび割れる。


「モノは大事に扱うのがよいと思うぞ、第七」


 からからと車椅子の車輪が回る。いつのまにか、ソフィアの執務室が存在する最上階に来ていたらしい。ルクス──第七位使徒は肩を竦めた。


「こんなところに出てくるなぞ、珍しいものよ。妾に一報くれればよかろうに」


「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ。どうせ知ってただろ、第二位使徒様はさ」


 幼女の姿をした魔女が笑った。


「同じ使徒であると分かってから、そなた、妾に気安くないか?」


「同じだからいーだろ」


「妾は第二位、そなたより五つ分強いのじゃぞ?」


「はあ? 俺と強さのベクトル違うと思うけど」


 冗談半分の会話にルクスはため息をついてみた。ソフィアはまだ笑っている。存外にこの小さな魔女はよく笑う。だが、それがまがい物であることをルクスは知っていた。なぜなら、ルクスも同じだから。偽りを重ねていつしか、作り上げた仮面が剝がれなくなった。白い仮面を外しても、なお。


「で、あのバカが棚ぼたなんだな。ホントにいいのか、あんな考えなし野郎を旗頭にして」


「大丈夫じゃよ。あやつは妾が使徒であることを勘で看破しおった。天にまがうことなく愛されておる。人望も欠いてはおらなんだ。……完璧であろう? それこそ正に天が遣わした者かもしれぬよ」


「随分と買ってるんだな。まー、《智恵の魔女ミネルヴァ》がそれだけ言うんだ、俺は反対しないさ。とはいえ、だ。なんで、研究室で迷子になってんだよ! 見張っとけ! 俺の仕事増やすな!」


 ご立腹のルクスに睨まれ、ソフィアの視線が頭上のキリクに吸い寄せられた。車椅子を押していた長身の男は視線を泳がせて苦笑いをする。


「……いや、ソフィアも忘れてませんでした?」


 わざとらしい咳払いの後、ソフィアが真面目な顔を作った。


「不測の事態にも対処できるよう、今日の監視映像はすべて差し替え済みじゃ。目撃者がいなければ完璧じゃが……」


「既に処分済みだ」


 淡白にルクスが言うと、ソフィアの桃色の唇に深い笑みが刻まれる。


「さすが、第七じゃ」


「それはどーも。じゃあ、俺は任務に戻るから、よろしく」


 仮面の感触を確かめた。つるりと固い呪いの仮面。被るのは随分久しぶりだ。けれど、ルクスの身体の一部みたいにしっくりくる。


 第七位使徒は踵を返した。


 その背中に向かってソフィアが小さく呟く。


 ──嘘つきめ、と。

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