ep.055 オールイン
カイルにとって運命の日があるとしたら、それはきっと今日のことだろう。
早朝にレーヌエルベを離れたカイルは、輸送列車を乗り継いで軍本部の置かれるフライハイト郊外へ身一つで向かう。連戦の疲れも取れないまま、貨物と一緒に運ばれていく旅は決して快適なものではなかった。身体中ばきばきだ。
レーションのパンをもっそもそ食べながら、流れるのどかな田園風景を眺める。これだけを見れば、戦時中であるといっても到底信じがたい。けれど、カイルの故郷リンツェルンはもうないし、カイルは陸軍大尉になってしまった。本来なら時間をかけて登るはずの
申し訳程度に開けられた窓から顔を出すと、フライハイトの街が見えた。色とりどりのリンツェルンとは違って白が目立つ。フライハイトは共和国の南に位置しているため、リンツェルンよりも陽射しが強く、陽射しを反射する色である白が多用されているのだ。
そうして、がたがたと揺れながら汽車は街の中心へ向かうルートから逸れ、本部へと。煙をもうもうと吐き出し、やがて汽車は止まる。脱ぎ散らかしていた紺の軍服の袖に腕を通し、カイルは汽車から降りた。入れ替わるように兵士たちが物資を積み込んで、乗っていく。どことなく浮ついた空気を見るに新兵だろう。
最初の一戦。それさえ生き残ればあとはしばらく生きていられる。だから、彼らの幸運を祈った。どうか、帰って来れますように。
「で、俺、どこに行けばいいんだろ……」
広大な本部の敷地が目の前に広がっている。演習場・宿舎から図書館まであるこの場所の一体どこに呼ばれているのだろうか。
「カイル・ウェッジウッド大尉ですね」
「ひゃい!?」
不意に後ろから声を掛けられ、声が裏返る。頬に傷のある男が
「私はキリク・デンバー中佐です。あなたをお待ちしていました」
キリクの後についていく。キリクが佩いている長刀が揺れるのを追いかけ、迷宮のような共和国軍本部の中枢へと入っていく。
「あの、どこに行くんですか?」
無言のキリクに恐る恐る尋ねてみる。
「性悪魔女の住処ですよ」
そう言って、キリクは唇を綻ばせた。
全然分からない。カイルは
何度も角を曲がり、何度も違う階段を使った。こんなに複雑な道はカイルにはたぶん覚えられない。
「着きましたよ」
キリクが急に足を止めたので、考え事をしていたカイルはつんのめった。キリクはふらつくカイルを器用に避けると同時に扉を開ける。
「え、あれ?」
カイルが顔を上げると部屋の中だった。執務机に山積した書類の山と、壁を覆う本棚にクローゼット。視線の先には、車椅子に座る淡い蒼色の髪の幼い少女。
「君、大丈夫? 迷子? お父さんとか、お母さんとか、いる?」
幼女がからからと笑った。ぽかんとするカイルを無視して、肩を震わせて笑いをこらえているキリクに言葉を投げる。
「聞いたか、キリク。妾が迷子じゃとよ。まことに滑稽よな」
「……言わないでくださいよ。せっかく我慢してたのに」
カイルは状況を飲み込めずに、笑っている二人に挟まれて立ち尽くす。
「どういうことこれ……」
笑いの波が去り、咳払いをした幼女はカイルを金の瞳で見据えた。
「失礼した。そなたがあまりに愉快でな。妾はソフィア、共和国軍参謀長であり、階級は中将じゃ」
羽織っている軍服をソフィアは引く。きらと光を弾く白銀の階級章は中将のものだった。帝国の《死天使》を鹵獲した功績により階級が上がったのだ。
「中将……!」
カイルの
「ご無礼をお許しください! 小官は──」
「──カイル・ウェッジウッド大尉じゃな。妾がそなたを呼んだのじゃ」
車椅子が動いてカイルのつま先の位置までソフィアがやってくる。
「なあ、そなた」
「この国は綺麗だと思うか?」
どくんどくんとカイルの心臓が走っている。この問いの答えがすべてを決める。間違うことは許されない。直感して、喉がごくりと音を立てた。けれど、この問いへの答えはもう決まっている。どうしようもなく。
「
自分の声が頭の内で響いたように思えた。つうと流れ落ちた汗が深紅のカーペットに染みる。心臓の動きですらもうるさい。反応がないことに嫌な予感だけが募った。
「上出来じゃ」
幼女の舌っ足らずな声に喜色が載る。カイルが伏せていた目線を上げると、ソフィアが小さな手をカイルに向かって差し出すところだった。
「カイル・ウェッジウッド、妾と共に戦わぬか?」
この醜い国に誅罰を。変革を。
ソフィアが嘘をついているようには見えなかった。この幼い少女の姿をした魔女が見据える未来はカイルが描く夢への最短だろう。ならば、この手は。
「夢に届くためなら、俺はあなたの手を取ります」
躊躇わずにソフィアの手を握る。子ども特有の高い体温がじわりと手の中に広がった。
「ではそなたには色々と教えねばならぬな」
キリク、とソフィアが呼びかけると心得たようにキリクは頷き、ソフィアの執務机の横のボタンを押した。天井から降りてきた大きな画面にデータと写真が映し出される。
「へ!? は!? こんなの初めて見るんですが!?」
スクリーンに駆け寄って接吻するレベルで顔を近づけるカイルに呆れ、ソフィアが咳払いをした。
「……では、説明を始めようか」
「す、すみません閣下」
ソフィアが語ったのは共和国内部の詳しい情報と現在の状態についてだった。
グラトニア共和国、以下共和国、はオルタンス王国を始めとするグラトニア連合を前身とする国家だ。当時北部で拡大を続けるローデンハイム帝国、以下帝国、に対抗するため、南部の小国が集まり大きな国を成した。オルタンスの王政から共和政への移行は必然であり、帝国という強大な敵を前に速やかに行われた。それ以来、帝国と共和国の対立という構造は続いている。そして現在、ディエゴ・マクハティンによる民衆の指示を得た独裁政権に共和国は侵されているのだ。
提示される地図と写真を見つつ、カイルはソフィアを窺う。ここまでは士官学校でも座学で最初に学ぶものだ。マクハティンのくだり以外は。ソフィアもそれを承知しているようで、ざっくりとした説明のまま話が先に進められる。
「マクハティンがこの国の病巣そのものであることはそなたもその両の目で見たことじゃろう」
「え、もしかして俺、いえ小官を大統領の護衛に無理くり突っ込んだのはあなたなんですか?」
「うむ。そなたの夢は知っておったからのう。人目をはばからず言って回った甲斐は確かにあったな、妾がそなたを見つけたのじゃから」
「そうですね!」
あまりに素直にカイルが頷くものだから、ソフィアは笑いを堪えきれなかった。が、まずは話の続きだ。
鉱床などを数多く持つ帝国とは異なり、資源はそこまで豊富でない共和国、しかしこの場合はマクハティンと言った方が正しいだろう、は人体実験に手を出した。そうしてマクハティンの手によって生み出されたのが使徒と呼ばれる存在だ。
「使徒って、具体的にはどんな人たちなんですか?」
「そうさな……。身体を弄られ、常人から掛け離れた能力を付与された者──有り体に言えば、バケモノじゃよ」
その時ソフィアが見せた表情にカイルはゾッとした。虚ろで黒い、底なしの穴が口を開けていると錯覚するほどに陰鬱な顔。幼い少女が浮かべていいものではない。
「バケモノ……」
想像をしようとしたけれど、山に住むどデカいミミズみたいなイメージが出て来たのでカイルは頭を振った。どう考えてもそこまでニンゲンをやめてはいないだろう。
一人、二人、と使徒が増えて、今は七を数えている。その使徒を中心に作られた部隊こそが特務部隊なのだという。
「つまり、特務部隊は大統領直属ってことになるんですか?」
「そうじゃ。愉快であろう? 共和政の国の元首が私兵を有しているなぞ」
「そんなこと、許されるわけがない」
「じゃが、それが現実じゃ」
そこまで病んでしまっていたのだ。民衆は何も知らないまま、笑顔の仮面を被るマクハティンを支持している。その下がどれほど醜いかを、知らないままに。
「どうして、ですか。どうしてこんな」
「妾も知りたくてたまらぬよ。どこから何が間違ったのか」
ソフィアは紅茶の入ったカップに角砂糖をどばとばと投入した。いつの間にかカイルの目の前にも紅茶が用意されている。少しカップに触れてみると淹れたばかりのようで、あまりの熱さにすぐに手を引っ込めた。代わりといってはなんだが、ソフィアが無言で勧めた角砂糖をひとつだけ遠慮がちに紅茶の中に放り込む。
「マクハティンがほぼすべての元凶であることは明らか。つまり、妾たちが相手にせねばならぬのは特務部隊とマクハティンの二つじゃ」
「そのための戦力を用意しろ、ということですか?」
スプーンで紅茶を掻き混ぜつつ、カイルは問う。
「いや、既にその駒は揃えておる。そなたにして欲しいのは、共和国軍及び民衆の掌握じゃ。結局、妾たちが目指すのはこの国の変革──」
しかし、その変革はただの変革には留まらない。骨の髄まで腐り落ちた国を変える最後の手段。
「──この体制すべてを破壊する、すなわち革命じゃ」
カイルの中で思考も呼吸も停止する。顔が青白くなるくらいになって、ようやく息をゆっくりつく。
「かく、めい」
ソフィアの金色の瞳が微笑んだ。
「うむ、怖気づいたか?」
カイルの身体は小刻みに震えている。指先の感覚も分からないくらいだ。けれど、胸は高鳴っている。なら、この震えは武者震いとでもいうのだろうか。拳を握り直して、カイルはソフィアを真っ直ぐ射抜いた。
「……いいえ、いいえ。……既にご存知だとは思いますが、俺の家族はとうに死んでいます。父は戦場から帰ってきませんでした。母は過労で身体を壊し、狭い工場の片隅で死にました。乳飲み子だった妹は雪の降る日に動かなくなりました。そして、俺の
──俺にはもう、失うものなんて何ひとつないんです。
そう言ってカイルは朗らかに笑ってみせる。
「だから、俺はこの勝負にチップを全賭けしようと思います」
カイル・ウェッジウッドという存在のすべてを賭けて卓につくことを選んだ。誰が座っているかは分からない。イカサマもなんでもありの最悪の勝負だ。それでも。
「ですが、その前にひとつだけあなたにお聞きしたいことがあります」
顔が強ばるのを感じながら、カイルは唇を湿らせた。カンだけで、根拠なんてひとつもない。だが、今までカンが外れたことはなかったから。
「ソフィア中将、あなたは、使徒ですか?」
長い沈黙の後、ソフィアの唇が歪んだ。そして、ソフィアはくつくつと嗤う。長刀に手を掛けて抜刀寸前のキリクを制し、幼女は嗤い続ける。
「……いかにも。妾は第二位使徒
なぜ分かった、という問いはなかった。ソフィアにはカイルの判断がカンに基づくものであることをとっくに看破されている。
「嗚呼、とても羨ましいのう。そなたの判断力と洞察力には感服させられてばかりじゃ。あらゆる過程をすっ飛ばして、確実に正解だけを引く才。何もかもを頭蓋の内に収めて思考を繋げ、やっと答えらしきものを得る妾の行動のすべてが滑稽に思えるわ」
緊張でがちがちのカイルはぎこちなく、けれど引かずに言葉を重ねる。
「使徒と特務部隊の関係について、あなたはさっき語っていました。特務は大統領の私兵だと。ですから、使徒であるあなたを、信じるための何かをください」
使徒である彼女が共に戦う理由を知りたかった。なぜ、大統領の直属である彼女が彼に牙を剥くのか。命を預けるのだ、そのくらい知っておかなければ。
「……妾は、妾からすべてを奪ったこの国が憎くて憎くて堪らぬのだ。妾の足を砕いて、妾の心の臓に爆薬を仕掛け、妾の脳に
燃えている、とソフィアの目を見てカイルは思った。冷たい業火が黄昏を
「叶わぬというのなら、許されぬというのなら、妾がこの国を焼こう。それこそが、妾の生きる理由」
すっかり呑まれているカイルに気づき、ソフィアは深く息を吐いて眉を下げた。
「……すまぬ。つい熱くなってしもうた」
いいえ、とカイルは首を横に振る。
「おかげで俺も覚悟が決まりました。俺とあなたの道が重なる限り、俺はあなたと共に戦います」
いつの間にか一人称が小官でなくなっていることに今更気づいてどっと冷や汗が出た。不敬罪で訴えられたらどうしよう、いやたぶん大丈夫……。
「あ、あの、では! これで失礼します!」
かくかくと手足を動かして百八十度の方向転換を図ったのち、勢いのまま飛び出した。呆気に取られるソフィアとキリクは顔を見合わせて、噴き出す。
「おもしれー男ですね」
「棚ぼた野郎じゃからな」
ソフィアは目を閉じてカップを傾ける。溶け残った砂糖が舌の上で溶けていった。カイルが先程まで座っていた席にキリクが腰を下ろし、新しく自分用に紅茶を淹れている。
「……第二位であると、バラしてよかったんですか?」
「うむ。あやつのことじゃ、隠しても無駄であろう。それにあやつが言いふらした所で問題はない。特務は表には出ぬし、妾もまたこの部屋を出ることなどないのだからな。マクハティンも戦争が続く限り妾の能力を欲し続ける。故に、まだあやつは妾を守るじゃろう」
第二位使徒のソフィアは身体の自由を奪われ、マクハティンが謀略を弄するためだけに利用されている。指揮権もないソフィアには、中将の階級があっても、特殊諜報部隊をこそこそと動かすのが精一杯だ。
「ところで、マクハティンに《死天使》を奪われましたね。特務を刺激しすぎましたか。特殊諜報部隊の方で使徒化計画の調査もできなくなりましたし。……というか、なぜそもそも彼らに調査をさせたんですか? ソフィアは知っていたでしょう?」
「うむ。そなたの言うように調査の内容自体に意味はない。じゃが、行動には意味がある」
ソフィアが特殊諜報部隊を動かしたことで、ライたちは共和国への疑念を深めた。それはいずれマクハティンと戦うための刃に育つかもしれない。だが、それ以上に大きなものが網にかかった。
「──第七が動いたこと。第七が妾の手を取ったことこそが収穫じゃよ。《死天使》が奪われたことは確かに痛手ではあるが、あれはマクハティンの命令を聞かぬであろう」
飲み終えたカップを片付けようとキリクが立ち上がる。三つ目の、カイルのカップを持ち上げた時、キリクの手が止まった。
「あの、ソフィア。なんか嫌な予感がするんですが」
ソフィアは目を閉じて天井を仰ぐ。
「そなたが言おうとしていること、妾にも分かったぞ」
──カイル・ウェッジウッドが一人でこの基地を出られるとは思えない。
「棚ぼた、今頃ここを彷徨ってますよ……」
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