ep.053 月虹の羽

「ライは、もう、わたしが要らなくなったのでしょうか?」


 いつもとほとんど変わらない無機質な声に含まれる一抹の不安定さ。琥珀の瞳は伏せられたまま。普段は大人びて見える少女は、今はとても幼く見えた。


「そんなわけないだろ。ライはナタリアちゃんのこと、ものすごーく大事にしてるし」


 コーヒーを持ったアルバがナタリアの隣に腰をかける。湯気を吹いて冷ましつつ、アルバはちびちびとコーヒーをすすった。


「でしたら、なぜ、ひと月もライは帰ってこないのですか?」


 グロモント抗争からひと月。死にかけのルカとリュエルの命がなんとか繋がって、ルカの傷は癒えて。けれど、リュエルはまだ眠っていて。


 ナタリアたち特殊諜報部隊は元々フライハイトの軍本部の物置を作戦本部とし、寝食は本部の士官用宿舎のあまりを使っていた。とはいえ、ソフィアが手配した(押収したとも言う)軍病院はガラ空きで、良いベッドも使いたい放題だったので、今は全員ハルバトアに移っている──というのが現状だ。


「ライ、今までけっこー自由に動いてただろ? ナタリアちゃん拾ったり、今は跡形もなくなっちまったけどリンツェルンをうろついたり、魔女様の命令を踏み倒してグロモントに突っ込んだり。だから、今、そのツケを払わされてるってワケ。帰って来れないのは任務に忙殺されてるからで、ナタリアちゃんを嫌いになったんじゃない」


 命令をこそ至上とするガンマであれば許されない所業の数々だ。そもそも、軍としてこのように一個人、一部隊を野放しにしてよいものか。


 それにはカラクリがあるのだが、簡単に言えばこの部隊は、下手につつけば何をするか分からん、なんなら噛み付いて大きな怪我を負わせてくるかも、と目される問題児たちのお払い箱だからだ。重要任務をこなしていれば、上から他の自由行動を咎められることもない。


 が、それにも当然限度がある。


 溜まっていた暗殺任務と自由行動のツケとして、ライは単独任務に追われている最中なのである。正直、この部隊で現在上層部の役に立つのが《死神》くらいしかいないので、当然の結果ではある。


「そう、なのですか」


「うーん、これはあんまし納得してない感じだな」


 んじゃ、コーヒーでも飲んでみる?


 キョトンとするナタリアを置いてけぼりにして、アルバはコーヒーを新品のマグカップに入れて戻ってきた。ここは備品が綺麗なのもいい。いつもはガラクタを頑張って使っているから。差し出された白いマグカップを受け取る。マグカップは白い雲をぽくぽく吐き出して芳ばしい香りを放つ。それでいて、中の液体は黒に限りなく近い茶色なのだから不思議だ。アルバを真似て、ふうふうしてからひと口すすった。


「……アルバ大尉、これは、毒ですか」


 神妙にナタリアが尋ねると、アルバは噴き出した。コーヒーごと。


「え、えっとー、どっちかというとクスリかなー。ほら、深夜とかに一発キメるとハイテンションになってうぇーいってなって寝れなくなる系」


 アルバが笑いながら何か言っている。よく分からなくて、ナタリアはまばたきをした。とにかく、コーヒーというものはいい匂いがするのに苦い。


「あれ、ナタリアちゃんも苦いの苦手?」


 一口目から一向に口をつけようとしないナタリアを見てアルバが目を細めた。


「これほど刺激が強い飲み物ですと、仕込まれた毒に気づかないことが予想されます。したがって、味覚を鈍らせるような飲み物を避けるべきかと思います」


「ライも苦いのダメなんだよなー。最初に飲ませた時、ナタリアちゃんと同じこと言ってた。だから、普段エルザが出すのは紅茶。今日コーヒーにしてみたのはライがいなかったから」


 でもナタリアちゃんが飲めないならダメか、とアルバは呟く。


「んー、そんな苦いんすか?」


 いつも通りリュエルの所へ行っていたルカがちょうど帰ってきた。左耳を失ったとはいえ相変わらずの地獄耳だ。会話にもうもうと湯気を立てているコーヒーを持って入ってくる。


「どれどれー」


 ぐびっとマグカップを傾けてガバガバ口の中に液体を注ぎ込む。アルバが視線を遠くへ向ける。


「あっぢ、あっぢぢぢ!?」


「あちゃー、やっぱやると思ったこのアホ」


 もはや味以前の問題。涙目になったルカは火傷して赤くなった舌を出す。


「あひょっへぇ、にゃんすか!」


「ふうふうしてから経口摂取しなければ、口の中を負傷するのは当然の結果です。予測できるのでは?」


 ふ、ふうふうって。


 腹を抱えて倒れ込むアルバと涙目で水を探して彷徨うルカ。ナタリアは薄く湯気が昇っているマグカップを持ったまま首を傾げる。あまりの地獄絵図具合に驚いたのは、遅れてやってきたエルザだった。


「ねえ、包帯と鎮痛剤の数が合わないのだけど、誰か何か知らないかしら?──って、あなたたち、何してるの……?」


 エルザの問いに答えられる人間はどこにもいなかった。




 ***




 消音器サプレッサーで殺した銃声が闇に消える。残響はライの耳の奥にだけ。このがらんどうとした胸にある感情はきっと虚しさというのだろう。


 今回の任務は共和国内で巣食っている反政府組織の掃討だ。放棄された旧世紀の軍事拠点を占拠していた彼らは湿気しけた火薬に火をつけようと足掻いて、そして何も成さずに死んでいった。軍人でない彼らの多くは銃の使い方も知らない普通の一般市民だった。労働階級のさらに下、障害や普通でない思想を持つと断じられ、政府に排斥された人間たちが寄り添って、やっと見つけたついの住処。


 それを、ライが壊した、殺した。


 共和国は決して平等で公正な国などではない。声を上げられぬ者たちの上に座した権利と主張がまかり通っている。そして、声なき者が声を上げようとしたその時こそ、彼らが真の意味で声を持たない者になる時だ。


 静かな粛清を執行する道具として、共和国の敵を排除する武器として、《死神グリムリーパー》は存在を許されている。もしも、下手を打てば、《死神》の出自が帝国にあると周知させられた上で処分されるのだろう。都合のいい駒と政府に扱われていることに、ライでさえ薄々気がついていた。


 与えられた任務をこなす。


 やはりどこへ行ってもやることは同じだ。そのために、無力な人間を撃った。震えて歯を鳴らす子どもの脳天に風穴を穿った。


 いたい。


 胸がいたい。


 裂かれるような胸の痛みに耐えて、引き金を引き続ける。音すら死ぬまで。


 涼やかな風がライの髪を攫った。放棄された基地には窓ガラスさえなかった。名残の割れたガラスは風化して、輝くこともない。月の光が死骸を淡く照らし出す。顔についた血を拭って、ライは白銀の満月に背を向けた。そうして見上げた空には、白く見えるほどに淡い虹が弧を描いていた。


 ──月虹、というらしい。


 月が眩しい夜、中空に水滴がたくさん散らばっている時。月の光は分かたれて、淡い七色を藍の空に描く。太陽光よりもずっと弱い光が生むから、色は本当に少しだけ。透き通る夜の虹は妖精の羽のよう。


 共和国のお伽噺とぎばなしには、夜の妖精の話がある。




 むかしむかし、夜にはうつくしい妖精が住んでいた。妖精は薄くて脆い七色の羽で、虹を描いて星の間を飛ぶ。けれど、夜にしか居られない、夜でしか生きていかれない。それは世界の法則。


 一日の終わりと始まりに太陽と出会うことのできる月は、少しだけ垣間見ることのできる昼の世界の話を妖精にした。妖精は虹の羽を震わせて、銀の瞳を輝かせる。憧れという名前の感情は妖精の小さな胸をいっぱいに。


 そして、妖精は月の制止を振り切って飛んだ。


 朝へ。日のいづる方へ。


 羽ばたいて、極光を浴びて、うれしくて涙があふれた。妖精の流した涙は消えていく星になっていった。


 瞬きは一瞬。虹の羽が割れた。


 あんなにもうつくしかった羽はもうない。空が飛べない妖精は落ちて、海の底に沈んでいく。見上げた海の天井は太陽の光でゆらゆら輝いていた。住んでいたあの夜空とそっくりだと呟いて、妖精は目を永遠に閉じたのだ。


 その日から月は戻ってこなかった妖精のために、時折藍の空に虹を描いた。かつて、妖精が描いていたほど綺麗ないろはどうしても出せなかったけれど。




 最初に知った時、どうしようもない話だとライは思った。生きられないと、落ちると知りながら飛ぶ意味が分からなかった。でも、今は少しだけならわかる気がする。


 憧れを。見たいものをこの目に。


 ライにもどうしても見たいものができた。戦争のない世界、争いのない世界、誰かを殺して胸が軋まないような世界。それから、ナタリアの笑うところ。


 けれど、その憧れはこの身をいつか焼くかもしれない。この身だけでなく、ナタリアも一緒に焼くかもしれない。


 ひび割れた灰色の地面に膝を着いた。身体が凍えているように震えている。体温の下降を防ぐためでないとすれば、この震えは恐怖と呼ばれる感情から生まれるものだろう。


「……こわい」


 血に汚れた手で身体を抱き締めた。まだ胸はギシギシと軋んでいる。奥に巣食う虚ろは消えないままそこにいる。レグルスを失くした日からなくならない胸の穴はずっと埋まらないままだ。


 どうしたらいい?


 月も虹も答えない。誰も答えてくれない。


 ナタリアに無性に会いたかった。あの日、叫んでしまってからずっと会っていない。猛る感情のままに言葉を投げつけられて、ナタリアは不安そうに瞳を揺らしていた。おそらく、傷つけてしまったのだろう。誰かを傷つけてしまったなら謝るんだ、と前にアルバが教えてくれた。


 だから、早く帰って、言わなければ。


『《死神》、本部に帰投せよ。明日みょうにち、貴様の査問を行う』


 ざ、と通信が繋がる音がして、一方的な通達があった。通信がまだ切れないのはライの返事を待っているからだ。


「了解」


 ぷつん、と通信が切れた。“い”の音はきっと届いていない。




 翌日、フライハイトの軍本部にて。


 ライが呼び出されたのは査問室だった。鋼色の扉の前で身体検査を一通り受ける。帯銃は不可、もちろん刃物やその他の暗器類も持っていないことを念入りに確認された。二重の身体検査の後でやっと部屋の扉をノックする。


「特殊諜報部隊所属、ライ・ミドラス少佐であります」


「入りたまえ、貴官を待っていた」


 死神の顔をしてライは扉の先へ行く。部屋の中心に椅子が一つ、政府と軍の高官が上からライを見下ろしていた。部屋の奥、光が一切届かずに陰になっている場所に微かな人の気配がある。ちらと視線を向けると、仮面の男が闇に溶け込むように立っていた。


「座れ」


 は、と返事をしてライは腰を下ろす。硬い椅子だった。


「まずは先の任務の報告から始めてもらおう」


「分かりました。メレルダ旧陸軍基地を占拠していた反政府組織は一人残らず掃討しました。念入りに周囲の確認も行いましたが、逃した者はいないと判断しました」


 共和国陸軍司令ギリンデル・ワルド大将は鼻を鳴らした。灰色の髭を触りながら、鷹のような視線をライに注いでいる。まさか高々作戦報告ごときにライを高官たちの間に引きずり出したわけではないはずだ。


「では本題に入ろう。貴官らは使徒化計画について調査を進めているそうだな」


「はい」


 鷹の眼光がさらに鋭利になる。獲物の肉を剥ぐためか、それとも。


「報告したまえ」


 淡々とライは機械のように報告を続ける。


 リンツェルンで見つけた白骨の山と計画のぼんやりとした記録。帝国へ報告しようとして、けれど握りつぶされた間者の文書。仮面の軍人との邂逅。進んだ技術。ガンマとの関係性。


 述べるたびに上にいる人間の表情が少しずつ変化する。


「──以上が、特殊諜報部隊が掴んだ情報です」


「なるほど。やはり貴官らが特務部隊の調査を妨害していたのだな」


 思わぬ言葉に思わず顔を上げた。ギリンデルの顔は険しい。


「ここらで明確にしておこう。使徒化計画は特務部隊の管轄だ。使徒化計画についての任務はすべて特務部隊の領分であり、以後の領分をわきまえない行動は厳重に処分することとする」


「了解しました」


 今まで追ってきた案件を手放さなければならないというのは歯がゆい話だが、一士官たるライに拒否権はなかった。そもそも、特殊諜報部隊の命令系統は複雑だ。一応は《智恵の魔女ミネルヴァ》、ソフィアの麾下の部隊ではあるのだが、ライは元々の出自ゆえにソフィアを超えて、さらに上の人間からの命令の強制力が強い。


「だ、大統領!」


 ざわ、と空気が上の方で動いた。予定外の闖入者は柔和な笑顔を浮かべたまま、ライを見下ろす。まるで笑顔の仮面を貼り付けているようだ、と思った。


「君が暗殺人形、《死神グリムリーパー》か。君の働きはよく聞いているよ」


 ディエゴ・マクハティンは微笑んでいる。それなのに、どうしてライの背中は凍りついたままなのだろうか。


「それで、《死天使ヘルエンジェル》の暗殺任務はどうなっているのかな?」


 ライの目は真っ直ぐディエゴを見ていた。


「彼女は今、小官の部下として活動しています。敵対の意思はもうありません。ソフィア少将が既に彼女の入隊手続きを済ませています」


「そうか。


 ぞくりとする。獣の口腔の中で生臭い息を吹き付けられているような感覚がした。それでも無表情でいられるのは暗殺人形としての訓練の賜物だ。


「──では、ナタリア・ガーデニア准尉の異動を命じよう」


 僕は彼女にとても興味があるんだ、と男は笑う。ライはいつの間にか立ち上がっていた。起立許可は出していないと騒ぎ立てる高官たちを軒並み無視した。


「なぜですか! 彼女は──」


「──君の命令しか聞かないんだろう? なら、君が命じてくれ。特務管轄の研究所に来てくれるように」


 できるよね?


 拳を握りしめてライは立ち尽くす。命令は命令。絶対だ。


「…………了解、しました」


 ライが頷いた途端にディエゴの浮かべていた笑みが一変して明るくなった。


「うんうん、感謝するよ」





 ***




 ライが帰ってきた。


 窓からライの姿を見つけてナタリアは外へ向かう。自分から行動をすることのない彼女が動き出したことに驚くアルバたちだったが、ライを見ると相好を崩した。


「ライ、帰ったのですか」


 見えた瞬間に身体が動くほどに銀髪の青年を探していた。相変わらずの無表情ではあるけれど、ナタリアの顔は確かに明るかった。


 けれど、ライの顔は曇っている。


「……わたしは」


 藍色の夜空の瞳と視線が合わない。


「……わたしは、もう、必要ありませんか?」


 ライとの間の地面に向かって問いかける。


「違う。違うんだ、ナタリア。あの日、あんなことを言ってしまって、すまない。俺には君が必要だ」


 ライの手が伸びて、いつの間にかナタリアはライの腕の中にいた。こんな分かりやすい動作に反応できないなんて、おかしい。じんわりと胸の奥が温かくなるのも変だ。ほとほと壊れていると思いながら、ナタリアはライの体温を心地よいとすら認識する。


「ら、い? どうかしたのですか?」


「俺は、もうひとつ君に謝らなければいけないんだ」


「なぜですか?」


 ライが微笑む。笑みの形をした顔なのに悲しい顔とよく似ている。何という感情なのだろう、これは。


「ナタリア・ガーデニア准尉に大統領直々の辞令が下った。我々と共に来ていただこう」


 後ろでアルバたちが目を剥く。ナタリアの前、ライの後ろ、立っているのは仮面の軍人が五、六人。仮面を被っていても、彼らの視線がナタリアだけを捉えていることが分かった。


「わたしは、ライの所から離れなければならないのですか?」


 指先が小さく震える。少しの間だけでもライに会えなくなると、胸に穴が空いたような感覚がしたのに、この部隊を離れてしまったら、もうきれいな目を見る機会もなくなってしまうのだろうか。ナタリアはライの軍服の裾から手が離せなかった。


「……すまない。すまない、ナタリア。俺では君を守れなかった」


 まもる。初めて聞いた言葉だった。目をしばたかせるナタリアにライは告げる。


「ナタリア、彼らと行ってくれ」


 ──絶対に迎えに行くから。

 それは決して言ってはいけない言葉。だから、言わない。


「分かりました。行きます」


 ナタリアはライから手を離す。拳を握って俯くライの視線を捕まえて、琥珀の瞳を細めた。

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