ep.051 泣かないで
切れ切れの呼吸と早鐘を打つ心臓の音がうるさい。無理に直した左肩は軋んでいる。ぐったりとしたリュエルの身体は鉛で、ルカは喘ぐように息を吸う。
「クソッ……、なんで、ボクが、こんな……!」
ちっとも愉しくないのに。
それでも、リュエルを置いていくというのもなんだかつまらない。
消化し切れない感情はルカの中でぐるぐる駆け回る。少し前までは簡単だった。愉しいものと愉しくないものを分別して、愉しくないものは即刻ゴミ箱行き。それで良かったのに。
足音は、動かなくなってくるルカの足を嘲笑うように増していく。耳がいいルカにはそれは豪雨のように聞こえて焦燥感だけ募らせる。
「クソッ……!」
もう一度悪態をついた。この先は行き止まり。塗り込められた白い壁が迫っている。ルカは目を閉じて大きく息を吐く。
「……いいっすよ、あいつら全員殺せばいいんすよね」
そっとリュエルを横に下ろし、ルカはナイフを両手に握った。疲労に震える足を叱咤して、光のない黒い瞳で敵を見据えた。追手は八人、治安局の手練に相違ない。ルカの唇が獰猛に弧を描いた。
誰かの腕が宙を舞う。叫び声はうるさいから、喉を掻き切る。これ以上、奇怪な音を発するな。べとりと張り付いた血もそのままに、躊躇いなく治安局員たちの間へ踏み込んだ。弾丸はルカの頬をわずかに抉って銃創を作る。肉が焼ける匂いに顔をしかめたのはほんの一瞬。
「ネズミ! 記録係をこちらへ渡せ!」
彼らは同僚とやらだったな、と薄らと思う。
「はー? なんでっすか?」
けれど、そんなことを気にかけるルカではない。足はステップを踏んで踊るように軽快に。振りかざす刃は血でぬめって曇っていく。さあ、踊るなら壊れ果てるまで。
「局長の命令だ!それとも、貴様は局長を裏切るのか!」
「はあ? なんすかそれ、ボクはあのクソキツネ野郎の子分になったことなんか、一度もないっすよ!」
ふざけるな、と叫ぼうとした男の喉から鮮血が噴き出す。ルカのナイフが砕け散った。肩が不自然に跳ね上がる。そこを穿ったのは一発の銃弾。体勢を立て直そうと足に力を入れる。しかし、先に撃たれた足の傷はまだ癒えていない。ずる、と血で滑って、膝を着く。そのまま、壊れたナイフの代わりに死体から銃と新しいナイフをくすねた。それからもう一度、無理やり立ち上がって、獣のように残りの五人へ飛びかかる。
ケタケタケタ。
誰かが遠くで嗤っている。
ケタケタケタ。
タノシクて、痛みすらも心地よい。ナイフを振り下ろす。投げる。突き刺す。うるさい喉も搔き切ってやった。
やめてくれ、なんていう心底つまらない懇願も吐けないほどに。
照準もまともに定めないまま、奪った銃の引き金を引く。無茶苦茶に撃って撃って撃って撃って撃って──。視界を染める深紅に酔って、嗤った。死体から何度も銃を奪い、耳がイかれるほどに撃ちまくる。引き金を引いても、もう弾が一発たりとも出てこなくなるまで。もっと、もっと、聞かせてほしい。身体中を歓喜に震わせる甘美な絶叫を。
不意の乾いた銃声にルカの身体が傾いだ。
「あ、れ……」
腹に風穴が開いたのだと自分の身体を見下ろしてやっと気がついた。よく見れば、笑えないくらい全身穴だらけで血が止まらない。咳き込むと血の塊が口からこぼれ落ちた。
「……なんすか、めんど、くさいっすね……、大人しく……、死んでれば、いいんすよ」
ふらふらと踏み出す足は左右に揺れる。失血で目の前が暗くなってくる。けれど、それでもルカはまだ嗤っていた。床に這いつくばる治安局員の手を踏みつけ、まだ硝煙を
男の口がぱくぱくと動いた。彼の呼吸音がひゅーひゅー鳴っている。
「あー? 聞こえ、ないっす、よ?」
まるで水から引き離されてのたうつ魚だ。無様に口を開け閉めして、出もしない声を上げて泣いている。
タスケテ、コロサナイデ、ヤメテ。
「……うん、わかったっす」
拳銃を下ろし──
八重歯を覗かせてニタリと嗤う。安堵の表情が絶望へと転落していく様に満足して、それから淡白に引き金を引いて撃った。発砲の反動にボロ切れみたいなルカの身体は耐えきれず、ぐしゃりと血溜まりに崩れ落ちる。
ケタケタケタケタ。
やっぱり誰かが遠くで嗤っている。
ケタケタケタケタ。
何かを、忘れているような気がした。
嗤い声が凪いでいく。そうして嗤い声が消えた後、耳が痛いくらいの静寂が落ちた。ばくばくと今にも壊れそうな自分の鼓動だけが聞こえる。
他には何も聞こえなくて。
「……ボク、は……、なんで……」
だいじななにかを、どこかに落としてきたような気がする。胸がすかすかする。ぽっかりと開いた空白には何があったのだろう。けれど、頭の悪いルカにはどうしても思い出せなくて。ひたひたと身体を濡らす鮮血が今のルカに見えるすべてだった。側にはさっき殺した男の死骸があって、情けない顔をルカの方に向けている。
そんなものが欲しかったわけじゃない。
考えても、考えても、考えても、分からなくて。手足が冷たくて寒くて、考えている間にただただ動かなくなっていくだけだ。
ねえ、だれか。
「せん、ぱい……」
無意識に呟いた音がルカの鼓膜を震わせた。その音がルカにとっては何よりも特別なものであることを思い出す。思い出せたことが嬉しくて、へへと微かに笑みをこぼした。
「……センパイ、どこ……?」
霞んでしまった目を擦って、床を這う。手を伸ばして、探した。手が触れたのは硬くなり始めた男の死骸だ。ちがう。ずるずると動く度に身体から血が無くなっていく。折れたナイフで指も手のひらも足も切れて、ひしゃげた弾丸は鈍痛を呼ぶ。
「……どこ、っすか」
目を開けたら、やはり静かでリュエルは見えない。ほんの僅かな時間の間、意識を手放してしまっていたらしい。朦朧としている頭を振って、ルカはもう一度手を伸ばした。
「センパイ……、ねぇ……」
空を切るか、男の硬い死体に触れるか、折れたナイフ、空の弾倉や撃ち尽くした拳銃に触れるか。本当に求めているものには、どれだけ伸ばしても手が届かない。冷たい世界にたった一人で落ちていくみたいだ。寒いのは、血が足りないだけ。そのはず。
「どこに……いるっす、か」
解けてボサボサになった黒髪は血を吸って重い。
「へんじ、しろっす、ばか、せんぱ、い」
カスカスの声で悪態をつく。
「……ばか、のくせに……そん、なこといわないで、くれますか」
離れた場所から掠れて消えてしまいそうなほどのか細い声がした。肘で身体を支えてルカはずるずると声のした方へ這って行く。
センパイ。
センパイ。
センパイ──
リュエル、いや今の返事は記録係の方だ。記録係の顔が見えた。血、が、記録係の頭を。目の中に血が入ってしまっているようで、記録係はルカの顔が見えていないようだった。死んでいく身体を無理やり動かして、記録係を抱き起こす。近づかないと聞こえないほど、記録係の鼓動は弱かった。
撃たれたのだろうか。
だれに?
──ルカ、が?
引き金を引いた感覚の残る右手が震える。記録係の頭の傷からは血が止まらない。それが致命傷であることを否応なしにルカの頭は理解していた。知っている、どれくらい血を流したら人は死ぬのか。
「セ、ンパイ、……ボ、ク」
ひび割れてみっともない声だった。壊れた楽器でもきっとこんな音は出さない。とんちんかんな不協和音。おかしくなったのは喉の方? それとも。
記録係の頬に雫が落ちる。ぱたぱたと降り出した雨は止まなくて。記録係の顔にこびりついた血が溶けて流れていく。
「……これ、なん、すか。教えて、センパイ。こんな、の、しらないっす」
記録係のまつ毛が揺れ、うっすらと彼女は目を開ける。血で濁った水色の瞳はルカを見つめて微笑んだ。
「泣かないで……ルカ」
「ボク、が、泣いてる?」
記録係の発した言葉はルカの中にはなかった。
「はい、……あなたは泣いてます」
記録係は少しだけ嬉しそうに唇を綻ばせ、ルカの頬に手を伸ばす。死にかけのふたりの体温はどんどん下がっていくけれど、まだ温かい。まだ。
「ひとつ、質問を、させてください」
もし、もしも、
私なら……。
私なら、あなたに真実をすべて教えられる。この戦争は誰のものなのかも、なぜ何もかもねじれてしまったのかも、使徒の正体も。
……私はすべてを見てきましたから。
だから、私ならあなたの、あなたたちの力になれる。
その……、私は──
「何、言って、るんすか」
小さく笑ったら身体が悲鳴を上げた。これは死ぬな、と頭の片隅で思いながら、切れ切れの言葉を続ける。
「……ボクは、真実なんか、いらないっす。だから、あんたは、もう、目を閉じていい。もう、何も、見なくていいっすから」
決して、目を閉じてはいけない。
決して、記録することをやめてはならない。
強いられ続け、やがて別の人格を生んでしまうほどに疲れきった彼女には。
「もう、寝て、いいっすよ」
そう、きっとそれでいい。
「あと、ボク、は、あんたより、センパイの方が、いいっす」
記録係の眉がハの字になった。彼女の鼓動はもう、ルカの耳でもほとんど聞こえない。
……あなたは、ほんとうに、ばかな、ひとですね。
さいごの息にのせた言葉が彼方へ消える。ルカの頬に触れていた手は滑り落ちて、掴めない。
それっきり、記録係は動かなくなった。
「センパ、イ……? へんじ、して、ねえ……」
なんで。
どうして、めをあけてくれないんすか。
もっと声を掛けたかった。けれど、ルカの身体ももうだめになってしまったから。流れる血も涙もとうになくなった。風がずっと吹いている。ざあざあと降りしきる雨の音も聞こえる。
少しだけ、ほんの少しだけ、眠いのを我慢して目を開けてみる。
ああ、てんしって、ほんとにいるんすね。
赤茶色の髪のきれいな少女が、冷たい琥珀色の瞳をルカに向けて、引き金を引いた。
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