ep.050 紅い残照

 甲高い哄笑が鳴り響く。壁も床も天井も等しく真紅に染まった。壊れた蛇口か噴水のように人間が命を撒き散らす。


 全身を緋色に染めた女が笑う。肩を震わせ、目尻に涙を滲ませて、心底愉しそうに笑う。飛び散った返り血が涙に溶けて、女の頬を流れ落ちた。


「なァ、今どんな気分だ?教えておくれよ!」


「ァ……、ァ、アアァァッ!」


 仲間の血に塗れ、眼球を落としそうなほど見開いた男は醜く泣き叫ぶ。黒い軍服の女はニタリと唇で三日月を形作った。


「イイ声で鳴くなァ、アンタ」


 もっと鳴いてみせろよ。


 ぶちん、と血管が筋肉と共にねじ切れる音がした。男の右の太ももは女の怪力によってちぎられて、どくどくと血を垂れ流している。痛みは電流のように男の脳を駆け抜けて、受け入れられない現実と共にぷつんと途絶えた。口から血の泡を吐いて失神した男は沈黙し、ただ静かに永遠の静寂へと滑り落ちていく。


「うーん、やりすぎちまったかァ。難しいねェ」


血塗れのスカーレットミラ》は真っ赤な手袋を脱ぎ捨てながら呟いた。はめ直すのは真っ白な新しい手袋。


「そうですね。私も加減をするのはとても苦手です、スカーレット」


 ミラは自分の身体が震えるのを感じた。背中の方から死が歩いてくる。ぴちゃん、と血の海に波紋が落ちる音に背筋が伸びた。


「アリア様」


 赤い赤いせかいに夜を連れて、美貌を黒い紗の奥に隠した黒衣の女が舞い降りる。


「《道化師ピエロット》が死んだそうですね。何もかも計画通りとは行きませんね」


 今日の天気でも話すような口調でアリアは言う。


「治安局のヤツらは皆殺しということでしたが、《道化師ピエロット》がいなければ少々我々も動きにくいですね。……そもそもヤツが生きていれば、アリア様御自らここへいらっしゃる必要もありませんでしたし」


 元の手筈ではミラが治安局員たちの排除を、《道化師》が治安局長リオン・イスタルテを暗殺しに行くことになっていた。


「そうですね、ですが問題はありません。これも想定の範囲内です」


 ぴちゃん、とアリアの足が血の水面を叩く。ミラの足元も揺れ、水面に映し込まれていた像が崩れる。


「スカーレット、行きましょうか。愚かな男の息の根を止めに」


 ミラは右手を差し出した。夜の女王は白い繊手を伸ばして、彼女の忠実なしもべの手を取る。緋色に塗りたくられた道は赤いカーペットのよう。その上を死よりも深い暗闇が歩く。


「ここで十分です。感謝します」


 アリアはミラの手を離す。ミラは豊満な胸に手を当てて、深々と頭を下げた。その肩に手を置き、アリアは告げる。


「貴女は治安局の残りを好きに殺してきてください。すべて壊していいですよ。もう、ここに明日は来ないのですから」


「はい、ではお言葉通り……すべて、殺し尽くしましょう」


 黒い紗の下、紅い唇が綻んだ。


 ミラが通路の先に消え、アリアは目の前の扉を三度叩いた。最後の一回は数秒間を開けて。こん、こん、……こん。これはリオンの秘書のイエリーがこの部屋に入る時の合図。


「入れ。早かったな、イ──ッ!」


 ガタンと音を立ててリオンが椅子から立ち上がる。


「お久しぶりですね、リオン。いいえ、それほど前でもありませんか」


 リオンの頬を冷や汗が流れ落ちる。しかし、顔を上げて豪胆に口の端を吊り上げて見せた。


「……ふむ、貴様がここにやって来るとは。私の目論見は成った訳だ」


 アリアはくすりと笑う。それは天使あくまの浮かべる嘲り笑い。


「愚かですね。周囲に忍ばせた貴方の部下は既に彼岸へ送ってあげました。それに、あの程度の人員で私を殺せるとでも? ああ、貴方は記録係を手に入れたのでしたね。だから、こんなにも粗の目立つ計画でも立てたのですか」


 それは違う、とリオンは呟く。


 治安局は以前からガンマと比較され、存在意義を疑う声が上がっていた。反乱軍の王、エヴァン・リーゼンバーグを逃し続けてきたことも理由の一端だ。とはいえ、ガンマが介入し、エヴァンを逃がし続けてきたがゆえ。いつの間にか、帝国のためという大義のみを残し、実権が切り落とされてきた。他のでもないこの女に。


 もう、後が、ないのだ。


 アリアにこれ以上の権力が集中すれば、この国は本当に終わってしまう。すべてを血と死で支配する彼女に帝国という揺籃は耐えられない。たとえ。たとえ、この戦争に勝利してもその先はない。今は皆が同じ方向を向くべきだ。そのための粛清、そのための恐怖。それはいい。だが──。


「貴様はこの国をどこへ導くつもりだ、──皇妃アリア」


 アリアの纏う黒いドレスがふわりと揺れる。今まで彼女が見せたどの笑みよりも深い笑みが顔に刻まれる。さえずる鳥のような声を上げてアリアは肩を震わせた。黒いベールの下の目が三日月の形をしてリオンを見つめている。


「よく、気がつきましたね。……ええ、とても素晴らしい。私こそがこの帝国の皇妃、アリアです。そして、貴方はライの使い方にも気がついた。褒めてあげましょう」


 皇帝を擁するアリアと対等になる唯一の手段がライだ。本来の計画であれば、この段階でライを手に入れてアリアとの交渉に臨むことが叶うはずだった。記録係から引き出した情報を元にアリアへの対策を練ることができていた。


 すべての手札が揃わなかったのは簡単だ。


 アリアの動きが、あまりにも早すぎたから。


「質問に答えろ。貴様はこの国を──」


「どこなんでしょうね。ですが、貴方にこの質問への解答は必要ですか? 私の手の平で最期まで愚かなワルツを踊り続けた貴方に」


 指先を顎に当ててアリアは首を傾げた。声に嘲りのいろはない。真実、彼女には分からないのだ、とリオンはその時理解した。同時に、やはりこの女をこれ以上野放しにしてはならないと。机の下で関節が白くなるほど強く拳銃を握りしめた。


「そうだな……、理由などどうでもいい。私はこの機をずっと待っていた。貴様がノルデンリヒトから出てくる時を、貴様が私の前にただ一人で立つ時を」


「愚か、ああ、とても。けれど、貴方はいい目をしますね。すべてを懸けて私に挑もうという心意気は嫌いではありません。ですが、もう遅い。親切な私が教えてあげましょう。治安局は法的な力の一切を失いました。貴方が行ったのは、私たち皇室への叛逆です。なれば貴方の守る正義はもうどこにもない。とうに最高議会で裁決は下された。どうですか、己の行動の果てに自らが粛清される気持ちは?」


 ぎり、と歯を食いしばる。手汗で銃が滑った。それでも、まだ手放さない、手放せない。あと少し、それだけでいいから、時間を。


「……自分が粛清対象になる、というのはなかなかに最悪な気分だな。ふん、だが予想していなかったわけではない。そして貴様もいつか、その椅子から引きずり落とされる日が来るだろう。その時、貴様はどうするんだ? 答えて見ろ、この怪物が」


「面白いことを言いますね。私があなたのように踏みつぶされると?」


 イエリーがじきにこの部屋に辿り着く。それこそが最後の一手。アリアという毒酒を飲み干してみせよう。もう、明日はいらない。


 扉が開く。イエリーの顔が見え、その手の中の大口径の拳銃が火を噴いた。時を同じくしてリオンも躊躇いなく引き金を引いた。放たれた弾丸がリオン自身をも引き裂くことを知りながら。


 アリアの身体が消える。イエリーの左手と拳銃が中空を舞う。飛散した血は花のように、そして絶命の叫びが空気を震わせる。首のない女の身体が重力に引かれて崩れていく。見下ろせば、リオンの心臓があった位置には、いつの間にかぽっかりと大きな穴が空いていて。


 炸裂した二発の弾丸がアリアの身体を雨のように叩く。黒衣が裂ける。白磁の肌が覗く。顔を隠していた黒いベールが落ちた。


 だが。


 かつん、かつん、と散弾を保持していた部品ワッズが虚ろに音を響かせる。


「……なるほど。散弾でしたか。考えましたね。この狭い部屋の中でなら逃げられない。ええ、ですがその程度では足りませんよ。私の身体は丈夫ですし」


 致命傷になるものはすべて、避けられた。


 身体が言うことを聞かない。どんどん暗くなって狭くなる視界の向こうで、琥珀の瞳が優しく微笑んだ。


 ──おやすみなさい。


 アリアはしんと静まり返った部屋を後にした。外で控えていたミラが手を差し出す。アリアはそっと彼女の指先をなぞって、その手を取った。


「早かったですね」


「はい。ほとんど始末された後でしたから。ナタリアとライを久しぶりに見ましたよ。しかし、二人と睨み合っていたワイヤー使いがどうにも見覚えしかないヤツでして。シド、と今は名乗っているようですね、アレ。アタシの獲物を奪ったみたいですし、ウザったかったので邪魔しておきました」


 ミラはアリアに恍惚とした視線を向けながら報告する。うつくしいひとの素顔を見られた幸運に喜びを。


「そうですか。相変わらず自由ですね、第四位は」


「全くです。執行機関などという組織を作って、我が国と共和国に地味な嫌がらせをするくらいには自由ですよ」


 肩を竦めてミラは笑う。夜の女王がミラの方を振り返ることは決してないけれど。


「帰りましょうか、ノルデンに」


 黒衣の女と、つま先からてっぺんまで血に濡れた女は死体が累々と横たわる廊下を進む。前にも後ろにもここにはむくろだけ。


 雛芥子ひなげしの花絨毯みたいだ。


 ミラはただ目を細める。後ろの血溜まりにはぽつりぽつりと波紋が残されていた。

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