ep.049 無音の波紋
ナタリアとライの二人と分かれ、アルバ、エルザ、エルシオの三人組は裏手から治安局本部に潜入していた。
「真っ黒でヤバそうだな。ガンマも大概だが、治安局もなかなか」
エルシオは頭の上で手を組んで、アルバとエルザを見やった。
棺桶のような息苦しい無骨な廊下と背筋を撫でる張り詰めた空気感。ひんやりとした風は鉄錆の匂いを連れている。遠くから聞こえるのは人の足音のようだ。
「ムショみたいでやな感じするわー。ここに勤めるのは死んでもごめんだな」
「あなたたちねぇ……、グロモント丸ごと爆破したいくらいには同意するけれど、こんな話を他に聞かれたら大変よ」
呆れ半分でエルザが首を振る。とはいえ、呆れたいのはこちらの方だ。一人だけどう考えてもスケールが違うだろう……、とアルバとエルシオは顔を見合わせ肩を竦めた。
「──この組み合わせで良かったのか?」
エルシオは足音をできるだけ殺し、声量をギリギリまでしぼりつつ尋ねる。
「うん、これがベストだと思う。ナタリアとライは良くも悪くも目立ちすぎるからな。暗殺だけして帰る、とかだったら話は別だけど、今回は救出任務。……そもそもあの二人はそういう経験がない」
命令を遂行する、という点では暗殺人形に優るものはない。だが、救出任務というのは特別で扱うのが人間である分、対処の仕方は臨機応変でなければならない。それは暗殺人形には不得手だ。アルバはライとナタリアの日々の不器用さ……、というか融通の利かなさを思い出す。ライはとにかく真っ直ぐに育ってしまったし、ナタリアはそんなライの後をヒヨコのようにぴょこぴょこ追いかけているし……。変な想像をして不覚にもアルバは笑ってしまった。
「アルバどうかした?」
「あ、いや、何でもない。ライとナタリアちゃんはかわいーなーって思ってさ」
ぴく、とエルシオの肩がわずかに跳ねた。が、即座に何事もなかったかのように真剣な顔を作り直す。翠色の双眸を赤髪の下で細めて、口を開いた。
「なぁ、オマエら気づいてんのか?」
「何に……かしら?」
エルザはくすんだ金に茶色の混じった髪を掻き揚げる。灰色の瞳は、けれど、エルシオの省いた主語に気がついているように見えた。
「誰かがオマエらを裏切ってる、っていう可能性に」
「ああ、もちろん」
アルバが薄く笑う。ちゃらんぽらんに見えて、誰よりも鋭くよく気がつく。それがアルバだ。頭脳戦はリュエルに任せるとして、勘が働くのはアルバの方。そして、
胸を焼く苦い裏切りの味を。
「当たり前だろ。お前が俺らの居場所を正しく把握している時点で分かる」
そう。特殊諜報部隊は共和国軍の中でも小規模かつ存在をあまり知られていない部隊である上に、行動の自由度が恐ろしく高い。判断は隊長であるライを中心にするし、そのライというと利害で動くタイプでもない。行動予測はしにくい。ルカが仮に情報を流していたとして、ならばなぜ、ルカとリュエルの失踪後、ガンマのエルシオがライたちの居場所を掴めたのだろうか。
答えは簡単。ルカ以外の誰かがライたちの情報を帝国に流している。それは隊の誰かかもしれないし、ライたちを監視する別の人間かもしれないし、あるいは《
「オレは裏切りの可能性が高いと思うがな。いくらなんでもタイミングまでバッチリとなると、身内しか有り得んだろ」
「で、それは忠告か? 俺たちのどっちかが裏切り者かもしれないぞ?」
意地悪くアルバは口の端をつり上げる。とはいえ、それで動じるエルシオではない。鋭い表情は崩さずに返答した。
「そうだな、もしそうなら釘刺しておこうってな。そうでなかったとしても、警戒はしとけって話だ。なんせ、ライはお人好しすぎるからな。ナタリアは論外だし」
くすり、とエルザが笑みをこぼした。エルシオは怪訝に思って口をつぐむ。それから、にやにやしているアルバは訳知り顔。
「随分心配するじゃない。大事にしてるのね、ライとナタリアのこと」
「……はぁ!? なんで! オレが! アイツらの心配しなきゃいけないわけ!?」
「うんうん、ふたりのこと大好きなんだな。分かる分かる」
「はぁ!? オマエら何なんだよっ!」
ぜーはー息を吐いてエルシオが抑えた声で叫ぶ。潜入中であるということを忘れずにいたのは流石といえる。
「しっ。静かに」
鋭い呼気を吐き、エルザは人差し指を唇の上に置く。
「一、 二……、三人か」
足音と気配からアルバは直線距離にして百メートル離れた場所を歩く治安局員を数える。複数の角を隔てているとはいえ、進行方向は確実にアルバたちのいる方だ。視認できるようになるまで後、三、二、一──
「本格的に作戦開始ってワケだ」
薄くたなびく硝煙を吹き消し、エルシオはニヤリと笑った。
***
「局長。ガンマが動きました」
治安局を束ねるリオン・イスタルテの秘書、イエリー・ハンネスは平坦にそう言った。くい、と黒縁眼鏡を直し、彼女は髪に白髪の混じる壮年の男の判断を待つ。リオンは蒸かしていた煙草を無造作に握りつぶした。
「まあ、頃合いだな。《
「見事な切断技術でしたね」
ばらばらに刻まれた肉片から滲み出す血の海を思い出すだけで、補色である緑色が目の奥でチラつく。その程度には鮮烈な緋色に包まれた死骸だった。切断面の骨すら綺麗なまま、内部組織を晒していた。
腐臭の闇、血の帳。硝煙の残り香。服を脱いでも染み付いて、リオンの身体から消えはしない。それほどまでに帝国の黒夜に身を沈めていたが、このようなある意味で芸術的で美しい死体はそう見られたものではない。アリアの殺し方ではないことは分かっている。彼女のそれは気まぐれで、いっそ骸は醜くさえある。
ならば、誰がガンマを殺したか。
リオンは新しい煙草に火をつけながら思索を続けた。
実力を鑑みるにガンマと同等、いやそれ以上だ。ガンマの上を求めるなら、共和国に存在するという使徒くらいしか残らない。しかし、この争いはガンマと治安局による内戦のようなもの。互いの潰し合いという無意味な闘争に共和国がわざわざ手を出すだろうか。
否。
──では誰が。
「局長。目標を確認しました。C七ブロックの監視映像が捉えたもののようです」
リオンのデスク前、三十を越すモニターを確認していたイエリーの声に思索を中断させる。リオンは椅子から立ち上がった。
「ライ・ミドラス。ガンマの元暗殺人形、《
「は、そのように致します」
イエリーは深く頭を下げて返答する。狭い部屋を出ていく彼女は、高いヒールを鳴らしてかつりこつりと高らかに。
必ず、だ。
リオンの唇が歪む。まだ記録係から情報は引き出せていない。まだアリアを出し抜くための決定打がない。しかし、既に賽は投げられた。もう立ち止まることも振り返ることも許されない。黒い女のかたちをした怪物に喰い千切られたくないのなら。そして、人を
「──《死神》は我々の勝利条件のひとつだ」
それは決して、欠くことのできない最後のピース。
***
銀髪が電灯の明かりを受けて煌めく。藍色の瞳は硝子のように澄んで、感情を映さない。この世のものとは思えないほどに美しい顔立ちの青年は、
脳内に叩き込んだ地図は役に立たないことは先の移動で分かっている。治安局地下は元は三階層に分かれた構造の整然とした建物だったが、今では適宜増築されて血管のような通路が複雑に伸びていっているようだった。
ライに課せられた任務は治安局の注意を引きつけること。そのために銀髪を晒して歩き回っているのだが、未だ追われる気配はなかった。そろそろ何か壊したり撃ったりした方がいいかもしれない……などと思い始める。無造作に銃に手をかけようとした瞬間。
「──!」
ライは踏み出そうとした足を引き戻す。あと一歩、あと五十センチ動いていたら首が落ちていた。極細のワイヤーの存在に気づけたのは暗殺人形としての勘が働いた結果。冷気と怖気が背筋を駆け抜けた。
「誰だ」
振り返りながらライは問う。藍色の瞳には氷のような怜悧が宿る。
「こんにちは、死神」
亜麻色の髪に眠たげな鶯色の瞳の男がふわりと微笑んだ。
「ぼくは、シド。きみに会いに来たんだ」
濃密な血の匂いが微かな空気の流れに載ってやって来る。治安局員たちがばらばらになって転がっているのは、ライのいる区画よりも手前。C七ブロックの奥のC八ブロックは袋小路になっている。ライを捕らえるためにはうってつけの区画ではあるのだが、局員がそこに辿り着くことは決してない。ばらばらになった身体をツギハギして、失われた魂がひょっこり戻って来ない限り。
「何のために?」
「質問をしたくて」
日向の心地良さに目を細めるように穏やかな笑みを浮かべる姿は、闇深いこの場所にはまるでそぐわない。ライはシドと名乗った男を静かに眺める。軍服を着ていないから治安局員ではないだろう。ふわふわとした気配は掴み所がなく、意識していないと忘れてしまいそうだ。そして、痩身のどこにも隙はない。
「きみはなぜ、《
何を、言っているのだろう。
疑念を抱き、眉を動かした。鋼鉄の糸はぴんと張られたまま動いていない。しかし、ライの返答次第でそれは容易くライの首を刈るだろう。ふ、とライは息を吐き出した。
「理由が必要か?」
「必要だよ。何事にも意味はあってしかるべきだ。それとも、きみには何の理由もないの? 無為にきれいな花を手折るというの?」
ライの呼吸が一瞬、止まった。
ライにはまだ、ひとの心は理解しきれていない。分からないことばかりだ。ナタリアに色々なものを見せたいとは思うが、それがどのような心の動きなのかわからない。努力したところで結局アルバたちの心もわからない。問いを自分の奥に投げても返事はない。
ライは、まだ虚ろだ。
そして、己の空虚をライは知っていた。
シドが投げた言葉はその意図とは別にライの奥を揺らす。
だって、わからない。
ライの行った選択がどんな意味を持つのかも、それがナタリアを壊していると言われる理由も、……ナタリアがきれいでなくなるという言葉の意味も。
あの子は自分のせいで、こわれていくのだろうか。
今まで迷わなかった夜空色の瞳が震えた。答えようとして音を出すのに失敗する。隠すために一度唇を噛んだ。
「……ナタリアはもっと、色々なことを知るべきなんだ。暗殺人形でないあの子はもっと綺麗になる。心を知ることはきっと悪いことじゃない。俺が、そうであったように」
暗殺人形を否定する。
夜の女王のつくった歪なお人形。痛みもこころも知らない、武器。命令をただ、愚直に守る自我のない存在。……いつか折れ砕けるためだけの。
かつてライが棄てたそれ。
しかし、シドの鶯色の双眸は問いかけることをやめない。
──本当に? ほんとうに、暗殺人形であることをやめられたの?
「俺は、もう暗殺人形じゃ、ない」
シドが微笑んだ。笑わない目に傾いた唇。
「それなら、きみは代わりに暗殺人形をつかうんだ。そうだよね? きみはあの子がきみの命令を拒まないことを知っているんだから」
目を見開いた。殴りつけられたような衝撃にライは無様に立ち尽くす。時が止まって、どろりとした液体に呑まれていくような錯覚に息ができない。
「うん。ぼくが断言するよ。きみは《
くい、と引かれた鋼鉄の糸がライの首の皮に触れた。つい、と流れた鮮血の感触にライの意識は現実に引き戻される。
まだ死ねない。
兵器として、鍛え抜かれた身体は動く。細い糸を義手の左手で引きちぎって、その動作に紛れさせて引き抜いた拳銃は火を噴いた。弾丸はシドの頭部をすり抜ける。避けられたのだと思考が追いつくよりも先に、右足がしなる。一切容赦のない確実に命を奪うための蹴り。一連の動作はライの意思すら無視して敵を排除しようとする。……機械とまるで何も変わらない。
ちがう。
もう、暗殺人形では、ないのだから。
ちがうはずだ。
鈍る思考の間隙を突いて、シドの張った罠はライの四肢を手中にする。ライは左手で糸を千切り、右はナイフを滑らせて糸を断ち切る。けれど、足の糸はぎりとくい込んで、真紅の玉を連ねた。血でできた朱玉は電灯の明かりに悦ぶように煌めく。
足の糸の処理は間違いなく間に合わない。左足は確実に落ちるだろう。
そう諦めて、ならば代わりにシドの心臓を獲ろうと血塗れの足で踏み込んだ。シドが操る糸にかかる力に逆らわず、ただ懐へ入るために利用する。肉が断ち切られていく痛みもライにはどこか遠いものに思えて。冷静な思考はナイフがシドに届く前に足が無くなるという予測を弾き出す。だが、それならば届かない距離の分ナイフを投げればいい。
がらんどうの藍色の瞳はシドだけを。
火薬の弾ける音がした。乾いた銃声にライの足を締め付ける糸が呆気なく断ち切れた。薄く鋭い銀の刃を握り直す。そして、驚くシドの眼前から沈み込むように距離を詰め、そのままナイフを真っ直ぐに突き立てる。
「っ!」
亜麻色の髪が揺らめいた。いや、動いたのはシドの方。糸を手放して、刃が心臓に届く前に飛び退る。胸の真ん中に浅く突き立つナイフをシドは引き抜いた。散った鮮血が白い床を斑に染める。ほんの一瞬垣間見えた苦悶の表情は、ライよりも奥、その先の通路に誰かを認めて浮かんだ笑みに隠される。
「また会えたね……、きれいな
黒に金で装飾が施された軍服を纏う少女がライを見た。硝子のような琥珀の瞳が
──命令を。
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