ep.048 無色の揺らぎ

 ──帝国、グロモント。


 ナタリアたちは帝国軍の軍服に着替え、二手に分かれて行動していた。ナタリアはライと、エルシオはアルバとエルザの二人と。エルシオ曰く、ナタリアが共和国にいることは秘されているため、仮に止められたとしても現ガンマのエルシオかナタリアがいれば多少の融通は利くはずだ、という考えだ。


 ライとナタリアは言葉少なにグロモントの都市の中央部に向かう。治安局本部はこの都市の中心にある立派な建物だ。遠い昔に建造された数世紀前の建物が存在を主張している。治安局はきっと、帝国を内部から支えているのは自分たちである、と言いたいのだろう。


 ヴァイナー歴一九〇二年から始まるおおよそ七十年間、共和国との戦いが一時激化した時に、この建物は帝国軍総本部として様々な作戦を立案してきた。奇策から愚策まで、よりどりみどり。特に共和国にルーツを持つ人間を虐殺したことが、現在に至るまで尾を引いているという。


「ナタリア、大丈夫か?」


 ライは小声で問いかけた。もう視界には治安局の正門がはっきりと映っている。


「大丈夫、とはどういうことですか?」


 ふ、とライは眉を下げた。


「君が今から挑むのは治安局。紛れもない帝国の一部だ。……もしかしたら、抵抗があるんじゃないかと思ったけど、どうやらそれは杞憂だったみたいだな」


 確かに、このような形で帝国の領土に足を踏み入れることになるとはナタリアは思ってもいなかった。もう、戻らないとばかり……。今回はルカとリュエルの救出を任務としているからいいが、もしも《智恵の魔女ミネルヴァ》か共和国軍司令部がナタリアに帝国における暗殺任務を命じたならば、その命をナタリアは果たすことができるだろうか。


 ああ──でも、ライが命じたのなら、きっとナタリアは何だってやるだろう。たとえそれが、帝国を滅ぼすものであったとしても。


「わたしはあなたについて行きます。ですから、どうぞ、自由にわたしを使ってください」


 まっすぐライを見たけれど、ライのきれいな藍色の瞳はナタリアを見返すことはしなかった。こつん、と二人の足が白い石を踏む。これは作戦開始を告げる狼煙のろし代わり。


 無言で歩く二人を治安局員がまじまじと見ることはない。治安局に軍人が訪れることはそう珍しいことではないし、それに、今の二人はカツラで髪色を隠しているのだから。ライは黒で、ナタリアは金だ。いつもと違う姿は少しだけ居心地が悪いが、情報収集にはうってつけだった。


「ある軍人を探している。そちらのデータを閲覧することは可能だろうか?」


 カウンターで局員の女性にライが声をかける。女性は眉をひそめ、否定的な顔をした。躊躇われるのも予想の範囲内で、ライは気にせず顔を近づけて微笑んでみせる。


「責任の方はこちらで取る。どうだろうか?」


「わ、分かりました」


 上ずった声で女が首を縦に振る。ライは満足げにありがとうと言って笑みをこぼした。


「渋っていたようですが、なぜ彼女は了承を?」


 局員たちに紛れ、治安局内部に入りこんだ二人は階段を使い、下へ向かう。目指すのは治安局暗部。上にあるのは公的機関としての張りぼてだ。


「こっちで責任を引き受けるって言ったからじゃないかな。人は自分では責任を取りたくないものらしいし」


「なるほど。そういうものですか」


 小声で会話しつつ階段を降り切ると、地表部分の歴史的建造物の面影は一欠片もない無骨な通路が現れる。そして、その先はもうふたつに分岐していた。


「それじゃあ、また。時間になったら合流しよう」


 ライがひらりと振った手をナタリアは目で追いかける。一瞬の迷いの末に、右手を小さく動かして同じように振ってみると、ライが笑った。手をあのように動かすのは、別れるとき。それから、ついでにライが笑う。ナタリアは硝子のような瞳でライの行動を記録する。きっとこれは良いことだから。


 ライと別れ、ナタリアはひとりで通路を歩く。隣にライがいないのはいつぶりだろう、と考えてしまうくらいには、ライと同じ時間を過ごしていた。


 作戦的には、ライとナタリアを二人固める必要性は皆無だ。そして、二人の役割は地下通路を通ってここに侵入を果たしているはずのエルシオ、アルバ、エルザの三人から敵の注意を引きつけることだった。つまり、本命はその三人で、リュエルとルカの捜索に当たる手筈になっている。


 金髪の美しい少女は静謐を連れて、殺風景な廊下を進む。課せられた命令はもうひとつ。……そもそも、リュエルとルカの捜索はソフィアに止められていた。だから、建前として考えた理由が使徒化計画の情報収集を帝国内で行うことだ。


「誰だ!」


 治安局員に後ろから声をかけられる。ナタリアは振り返り、口を開いた。


「帝国軍所属の者です。こちらでの行動については既に許可をいただきました。問題なければ行ってよろしいでしょうか?」


 少女の美しさに見惚れること十秒、少女の言葉を解すること十秒。治安局員の男は知らずのうちに頷いて、我に帰れば目の前に少女はいない。化かされたような、そんな感覚を覚えたことだろう。


 ナタリアは淡々と扉を確認していく。そうして、扉の造りが一際頑丈な部屋を見つけた。ドアノブを手刀で切断して、扉を開ける。一見乱暴なようでいて、ナタリアの技量では実際音はほとんど出ない。暗い部屋に猫のように潜り込んで、パチンと壁のスイッチを入れた。突然の闖入者に停滞していた部屋の空気がざわめく。寝起きの悪い電灯がぼぅっと光を放って、やっと部屋の様相がはっきりと分かるようになる。


 まず視界に飛び込んでくるのは紙の山だ。山、と言っても雪崩が起きているのだから、溶けだした氷河と言ったほうがよっぽど近い。乱雑に机上に放り出された紙はほとんどが黒で塗りつぶされて、記されていたはずの文面は黒インクの沼に溺れてしまっていた。この様子と、方々からはみ出す黄色の紙片に場所と過去の日付が記されていることから、これらの大量の書類はどこからかの徴収品なのだろう。しばらく書類の海に身を沈めていたナタリアだったが、有益なものは何一つないと判断して立ち上がった。ふいにナタリアの視線は壁に貼られた写真に吸い込まれる。


 毛皮が襟を飾る豪奢なマント、白黒であれども分かるきらびやかな王冠、王笏。それを憮然とした顔で身に着ける、少年。モノクロでその上色褪せた写真では、彼の髪が白っぽいことまでしか分からない。けれど、その写真はナタリアの呼吸を一時奪うほどに、大きな衝撃をもたらした。


 だって、まなざしが、顔立ちが。

 ——あまりにも、ライに似ていたから。


 隣の写真は上半身辺りから破られているが、布をふんだんに用いたドレスの女とすらりとした足の男が写っていた。写真の端には、“Eisenach”——アイゼナッハ、の文字が綴られている。らしくもなく、周囲への意識が薄くなっていたナタリアは、ちりと首筋に走ったいやな感覚で我に帰った。


「きみでも、ぼうっとすることあるんだ」


 振り返った先、壊れたドアのそばに痩身の男が立っている。眠たげなうぐいす色の瞳に亜麻色の長い髪をした男は軍服ですらなく、その容姿の麗しさに反して存在感が希薄だった。


「あなたは誰ですか?」


 問いかける合間にも、ナタリアは記憶を掘り起こしてこの男を見たことがないかと考える。


「ぼく、か……。シド、そう呼んで」


 名前にも顔にも覚えがない。邪魔になるのなら、排除しようと無表情の下で決めた。シドの身体がすっと動く。気づけば、ナタリアの身体に手が届く位置でふわりと亜麻色の髪が揺らめいていた。頭に載せていた金髪が剥ぎ取られさえしたのに、反応ができなかった。驚異的なまでの存在感の希薄さと殺気の無さ。ナタリアが動けなかったのも無理はなかった。


「《死天使ヘルエンジェル》に、会ってみたかったんだ」


「なぜ」


 シドはとろけるように破顔する。けれど、ナタリアの琥珀の瞳は無機質に彼の顔を映すだけ。


「とてもきれいだと聞いていたから」


「わたしには任務があります。ですから、そこをどいていただけますか? どいていただけないのでしたら、実力を以てあなたを排除します」


 斜め上に向かって言葉を放つと、シドの瞳の中で奇妙に色彩が震えた。


「ガンマの任務ではないのに?」


 ぱあん、と拳銃が火を噴く。ナタリアの手の中で、硝煙をくゆらせる拳銃は息をつく間もなく、次ぐ第二射へと弾丸の装填を行う。至近距離から脳天を狙われたはずが、シドは健在でわずかにずれた位置に立っていた。


「どこでそれを知ったのですか?」


 二度目、三度目と発砲音が連なるが、どれも床と壁にのめりこむ音が続く。そこではじめてナタリアの瞳は揺らいだ。


「ぼくはきみを邪魔しに来たわけじゃない。撃つのをやめては——くれなさそうだね」


 しかたない、とシドは呟いて、くいと両の人差し指を曲げる。行動の意味をナタリアが理解したのは、頭ではなく身体だった。極細の糸がナタリアの身体すれすれを取り囲んでいる。触れれば、皮が容易に鮮血を噴き出すであろうことは糸の冷たい光沢を見なくても気配で分かる。ナタリアはそして、身体を動かすことを選んだ。軍服が裂け、血が滲む。だが、首を獲られる前に首の糸を撃ち切った。他の糸は手刀ではらりと切られて落ちる。それは恐れを知らぬがゆえになせることだった。常人であれば、身を切って、その上で顔の至近で銃の引き金を引く芸当など、とてもできない。仮にできたとしても、この一連の動作にスピードと射撃の精密さが足りないだろう。暗殺人形でなければ、立派な自殺行為でしかなかった。しかし、シドの心配ごとは完全に別の方向を向いて、ナタリアの傷ついた身体に嘆息した。


「きれいな身体に傷がつくのに……」


 ナタリアの頬に引かれた朱色の線から鮮血が伝う。がらんどうの目でナタリアは呪文のように口にする。ほんとうはもう暗殺人形とは呼べないものになってしまったけれど——。


「わたしは暗殺人形です。なにも感じません。わたしはただ命令を遂行するのみ」


 ふっとシドの唇が綻んだ。


「やっぱりきみはぼくの思っていたとおりのひとだ」


 臨戦状態にあるナタリアを見て彼はそう評し、踵を返す。


「またいつか、きみに会いにいくよ。それまでどうか、変わらずに」


 無骨な照明に亜麻色の髪がてらてらと光を湛えていた。硝煙の匂いはまだ空中を揺蕩って、そして一抹の血の匂いもまた鼻をついて離れない。ナタリアの口から問いかけが零れ落ちた。


「——誰を殺したのですか?」


 眉目秀麗な男は足を止め、にこりと微笑む。その顔は牡丹一華アネモネを思わせる可憐さを持ち合わせていたが、鶯色の瞳は決して笑んではいなかった。人を殺めることに何の呵責かしゃくもない静かな狂気。これだけの逸材をアリアが擁していれば、ナタリアが彼を知らないはずがない。ならば。


「ぼくが殺したのはガンマの《道化師ピエロット》。これで満足かな? うるわしの暗殺人形」


「いえ、まだです。あなたはどこの人間ですか、教えてください」


 シドは大股で一歩、跳ぶように踏み出されたつま先はナタリアの目の前で止まる。ぐっと近づいた距離にナタリアは思わず身じろぎをした。ライの藍色とは異なる色彩に瞳を覗かれる感覚は、ナタリアには落ち着かないものとして認識される。


「ひとつだけ。……執行機関という名前を覚えておいて」


 耳元でそう囁いて、シドは扉の外へ消えてしまう。彼が約束が果たしにくるのはまだ先の話だ。その頃には、ナタリアが彼の願いを叶えることはできなくなっているのは明白だ。シドと名乗った男が望んだきれいな人形は、やがてきれいな少女になると約束されている。今はまだ夢のような話と片付けてしまいそうだが。


 残されたナタリアは混乱したまま立ち尽くす。ガンマであることを優先するのなら彼を追うべきだったのだが、今のナタリアはライの命令を遂行する身だ。なのに、ガンマとアリアを棄てたのかと訊かれたら、ナタリアにはその返答を持ち合わせていない。ちゅうぶらりんのあいまいな場所に立っていることを自覚せざるをえなかった。思考が深く沼に沈んでいく前に、ナタリアは首を横に振る。


 見失ってはいけない。たとえ壊れてしまおうとも、ナタリアは暗殺人形。かつてはガンマの、そして今はライの——武器だ。


 そうしていびつな人形は己を定義する。暗殺人形であることをやめ、それでも武器として忠実に。人を知りたいと願っても、彼女はまだ願うことしかできない。人を、こころを、知るには同じくこころを持たねばならないから。







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