ep.047 目を開けて

「あー、その、なんだ、降参!」


 両手を上げたエルシオはやけっぱちでそう言った。ナタリアは眉間に皺を寄せたが、拳銃は下ろさない。当然だ。ナタリアはガンマを裏切った。それを赦すガンマではない。


「エルシオ、今度は何の用だ? 俺たちを試しにきた……というわけではなさそうだけど」


 赤髪の青年は両手を上げたまま頷く。


「今回は情報を持ってきた。オマエらのところの狂犬……というか狂ネズミと記録係の居場所についてだ」


「なんでガンマがそれを知ってるんだ?」


 アルバの質問は至極当然なもので、ライとエルザも頷くことで同じ疑問を持っていることを示した。エルシオは、はあ、と溜息をつく。話したくない、というよりも呆れているような動作だった。


「なぜなら、記録係を奪ったのは帝国の治安局だからだ」


 ナタリアの呼吸が微かに乱れる。リュエルの正体を知っているのは、共和国の最上層部とこの部隊の人間だけ。ならば、ルカが同時に消えた説明をつけるとすれば──


「ルカ准尉が治安局の工作員だった、ということですか?」


 エルシオは手を下ろし、片眉を上げた。言葉の無くなった空間に噴水の水音だけが響く。エルシオの唇の端が吊り上がった。


「ご名答、流石はナタリア」


「どういうことだ? ルカはだって──」


 ライの言葉をエルザが遮る。


「──それが真実か虚偽なのかを考えるのは後で良いわ。それよりも、あなたは何のために私たちを訪ねたの? まさか、ここでハリネズミにされに来た愚かな狙撃手になるためじゃないでしょう?」


 嫌な冗談だ、とエルシオは笑い飛ばした。だが、愉快そうな表情は掻き消え、話の深刻さと比例するように声のトーンが落ちた。


「治安局は、記録係の持つ記録をこじ開けてアリア様の攻略方法を見つけるつもりだ」


「──!」


 その無音の驚きが誰のものであったのか、などと考えることに意味はない。ただ、エルシオの言葉は明白だ。記録係は“鍵”を持っている人間にしか口を開かない、開けない。だから、その資格を持たない彼らが無理をすれば、記録係リュエルの方が壊れてしまう。


「つまり、そちらは治安局に対抗するために、そして俺たちは二人を救うために、ガンマと俺たちは協力しなきゃいけないってことか」


 ライの言葉にエルザとアルバは呆れた顔をして、エルシオは顔に深い笑みを刻んだ。ナタリアにはそれぞれの表情の見せる意味がよく分からない。一つだけ分かるのは、ライの言葉にはどこかおかしなところがあったということのみだ。言葉の使い方には間違いはなかったように見受けられるが……。


「オマエ、あのドブネズミ信じてるのか?」


 銀色の髪の下で藍色の瞳は燦然と輝く。少しだけ綻んだ口元は笑っているようにも見えた。ほっとナタリアは息を呑む。


「ああ。もちろん」


 はじけるような笑い声があった。笑っているのはエルシオ。敵陣で敵に囲まれているのにも関わらず彼は笑った。なぜ、とライの顔は釈然としないままエルシオを見る。けれど、この笑い方が嘲笑う、というものなのだとしたら、ナタリアにでもその意味が理解できた。


 ──裏切りは死を以て贖うべき大罪。


「馬鹿か、オマエ。ルカ・エンデはオマエらを裏切った。なら、信じる、なんて言葉は大馬鹿者の戯言だ。オレたちは嘘と偽りと秘密の中で生きている。誰かを無条件に信じることそれ自体が簡単に凶器に変わる。銃よりも容易く、そして銃弾のもたらす死よりも残酷に。安易な信頼はオマエの命をいつか奪うだろう」


 嘲るような言葉とは裏腹に、エルシオの瞳はいつになく真剣だった。ライは抜き身の刃の輝きを持った眼光に気圧され、息を呑む。


「──とまあ、ムダ話はこのくらいにして。アイツの処遇はオマエらで何とかしろ。で、オレが訊きたいのは一つだけだ」


 狙撃銃の引き金を引く繊細な人差し指を伸ばし、エルシオはナタリアたちに挑戦的な視線を向けた。


「治安局を潰す。オレたちと手を組まないか?」


 ナタリアは自然にライを見ていた。リュエルとルカに近づくための最も近い道筋が目の前にある。客観的に見ればエルシオの提案は理にかなったもののように見える。けれど、ナタリアにはエルシオの持つ情報の真偽が分からない。真偽が定かでないことの判断はどうするのだろう。


「ライ、どうする? 俺はけっこー賛成」


 アルバの声にライは肩をぴくりと動かした。琥珀色の瞳でナタリアはライを注視する。いずれにせよ、ナタリアの判断はライのものだ。あの日決めたナタリアの道しるべ、そして息をする理由をナタリアはライに求めた。それは今も変わらない。


「その情報は正しいのか?」


 エルシオの翠の瞳は陽光を反射して光って見えた。


「オレは真剣だ。ただ、選択はオマエらに委ねられている。もちろん、蹴るというならそれで結構。記録係とルカ・エンデはオレたちの方で処分する」


 ニヤッと自信ありげに笑ってみせるエルシオはライの答えを既に知っていた。


「俺はガンマと組む。それでいいか?」


「了解しました」


 敬礼まで付けてナタリアは即答した。もしかするとナタリアも、ライがそう答えることを悟っていたのかもしれない。そして、そう言い切ったライを好ましいとも思うのだ。


「決まりね。私たちはガンマと組んで二人を見つけ出す。目標としてはとても良いじゃない。前向きで」


 そうしてエルシオを仲間に加え、ナタリアたちは基地に帰った。途中、エルシオの帝国の軍服を脱がせたりと忙しかったのはまた別の話だ。



 ***



 鈍痛に目が覚めた。撃たれた左肩の感覚が死んでいる。これは関節が恐らく外れているのだろう。無理やり関節を戻し、顔をしかめつつルカは薄らと目を開ける。重くてぬるりとした泥中の闇が広がっていた。何かがコンクリートを引っ掻く極小の音が響き、その先で微かな人の音がする。息遣いと擦れ合う服の音、そして吊り下げられた銃の揺れる音。ふ、と吐いた息は微かな反響を引き連れて霧散した。


 地下の独房、といったところだろうか。しかし、鉄格子は見えるが、他に囚人はいない。そもそも、ルカが生きていること自体が不思議だった。主人に噛み付く犬はいらない、と処分されると思ったのだが。


 軍靴の音が近づいてくる。慎重で堅実な足音が治安局局長、リオン・イスタルテ。リオンよりも早く軽いものは彼の秘書、イエリー・ハンネスだ。


「無様だな、ネズミ」


 興味なんてないとばかりにそっぽを向いていたルカだったが、仕方なく視線だけで答えてやる。


『失せろこのクソキツネ野郎』


 リオンの目が尖った。


「どうせろくなことを考えていないのだろうな。まあいい……。貴様は私を裏切った、と解釈しても?」


 意地悪く問うてくるリオンに対してルカは鼻で笑ってみせる。


「知らねーっすよ。ボクがボクの愉しみのためだけに動くことをあんたは知ってるっす。これはそれ以上でもそれ以下でもない」


「貴様との会話など無駄だな。既にガンマの《血塗れのミラスカーレット・ミラ》、《道化師ピエロット》は捕縛した。貴様はどうする?」


 リオンの意図が掴めない。本当にそうなのか、それともブラフなのか。そして、ルカにはガンマが何人いるのかすら分からない。この状況は誰に向かって傾いている? ルカは目を閉じて考えて、けれど難しいことを考えるのは苦手だから即座にやめた。


「ボクっすか? 愉しそうな方に付くっすよ」


「なら、拷問はどうだ? ちょうど記録係の相手が手隙だ」


 にたりと凶悪に、ルカは笑う。


「それは確かに初めてっす」


 あの女が無様に泣いて叫んで、縋って、やめてほしいと懇願する。そう思うだけで背筋が震えた。別にこのまま殺してしまってもいいかもしれない、と囁く声がする。どうせなら、ルカの手で終わらせるのも良いかもしれない、なんて。


 牢を出たルカは確かにとても機嫌が良くて、スキップをしながらジメジメとした廊下を歩いていた。頭の中からはエルシオのことも、共和国のライたちのこともすっかり抜け落ちて、ただこれから見ることのできる光景に恍惚と酔いしれた。


 ケタケタケタ、嗤いながら足を動かす。タノシイ、タノシイ、タノシイタノシイ……。血の匂いのする風が吹いている。心が踊って、嬉しくて、ルカは最奥の拷問部屋の扉を開く。


「……」


 あれだけ跳ね回っていたルカの心は踊るのをやめた。


「……こんなんじゃ、つまんないっすよ」


 共和国の軍服を無惨に引き裂かれた女は椅子に縛り付けられて、沈黙していた。ばきん、と何かをルカの足が踏みつけた。慌てて足をどけると、銀縁の眼鏡がひしゃげて割れている。近づいて見ると、彼女の手足の指は爪を剥がされた後、一本ずつ折られたようだった。それから顔が濡れていて、隣に水の入ったバケツに布が浮いている。布を顔にかけて水をかけると、擬似的な溺死体験ができるとかなんとか……。生気のない彼女の姿に、ルカはなぜだか寒気を覚えたのだ。


「センパイ」


 返事はない。風前の灯火のような呼吸音がなければ、弱々しい鼓動がなければ、彼女は二度と目を開かない。ルカは唇をへの字に曲げた。


「……ん、またですか。私は、“鍵”を持たない人間に、口を開くことができないように、造られていると、……さっきから言っていますが」


 目隠しをされたままの記録係には目の前に立っているのがルカであることは分からない。黙ったまま、手を伸ばして頬に触れた。


「なんなんですか……、今度は──」


 一体自分はどうしたのだろう、とルカは首を振って己の行動を顧みる。青白くても温かかった頬の温度は、離しても指先に絡みついたままだ。温もりを消すためにナイフを握り、殺人鬼の少年は腕を振り上げた。どこが痛くてどこで死ぬのかは何度も何度もナイフを振るったから分かっている。身体に染み付いた動きは簡単に、彼女を傷つけることができる。


「ルカ・エンデ准尉、あなたなのですか?」


「──っ」


 反射的にルカは逃げ出していた。何から逃げ出したのかも分からないまま、部屋を出た。記録係のいる場所からできるだけ遠くへ。治安局の建物は存在しているが、その本体はほとんど地下にあると言っても過言ではない。迷路のような地下廊下を走って、そして電池が切れたように立ち止まった。しゃがみこんで床に膝をつく。


「ボクは一体何を、やってるんすか……」


 愉しそうだったから、エルシオの誘いに乗った。

 愉しそうだったから、治安局員を刺した。


 愉しそうだったから、拷問を買って出た。なのに、何かが邪魔をしている。いつも通りのルカだったら、記録係を滅多刺しにしていたはずだ。なのにどうして、逃げ出したのだろう。


 刺して苦しめて、そしたら記録係は、リュエルは、どんな目をしてルカを見るのかと、思うだけで頭が軋む。床に転がったナイフに映るのは、まるで雨に降られて泣き出しそうな顔をした黒髪の少年だった。


 甲高い女の絶叫が聞こえた。ルカの耳はどんな遠くの音でも聞き逃すことはない。


「センパイ」


 だから、そう呟いて走り出した。さっき逃げ出した拷問部屋にもう一度、今度は扉を蹴破る。握ったナイフが切り裂くのは、二人の拷問官の喉元。無音の叫びとともに拷問官は血溜まりに伏した。返り血がルカの顔を汚す。


 ぐったりとした記録係の指先からは鮮血が伝い落ちていた。手を伸ばそうとして、ルカは自分の手がべっとりと血で濡れていることに気がつく。軍服でできるだけ血を落として、記録係の視界を奪っている布を解いた。


 そうして、記録係は澄んだ水色の目を開く。


「いったい……、なんの、酔狂ですか……? 私を……」


「確かに狂ってるっすね、なんでっすかね……」


 言いながら、ナイフできつく縛られた縄を切っていく。それから、わけが分からないという顔をする記録係の手を引いた。


「まあ、なんだっていいじゃないっすか。とにかくここから出るっすよ」


 手足の動かせない記録係をルカは背負う。


「……馬鹿、なんですか?」


 ルカの耳の後ろで掠れた声で記録係が文句を言った。ふくれ面をしているのを少し想像して、ルカはふっ、と笑う。


「残念ながら、ボクは生まれてこの方頭良かったことなんて一度もないっすよ」

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