ep.045 失意の神託

 戦争をこの世から消してしまいたい。


 そのために何もかもを棄てて、銃をこの手に持ったのだ。


 けれど、現実はもっと──。


 カイル・ウェッジウッドにとっての初めての戦場は、停戦明けのリンツェルンでの戦いだった。花の群生地を血のへばりついたブーツで踏みにじって、一心不乱に銃剣を振り回した。そこには敵も味方もなかった。今この瞬間、叫んでいる人間が次の瞬間には沈黙している。一緒に笑った人間が次見た時には、虚ろな屍を晒している。帝国軍の兵士は泣きながら、殺さないでくれ、と決して助からない傷を抱えて懇願する。それでも、ただ生き残るのに必死で、兵士の顔を撃った。撃って、撃って、撃って、撃って──。度重なる爆発で耳はイカれた。血と汗でどろどろの足は鉛。肺は呼吸をする度に痛みを訴える。震える手足で屍の山を踏みしめて泣きながら、がむしゃらに走り続ける。


 気がつけば戦闘は終わって、撤退命令が下されていた。抜け殻のようになって輸送車に乗り、モノのように運ばれる。灰色の空気に包まれたそこは、息が詰まりそうだった。


「喜べ、カイル・ウェッジウッド曹長。貴様は本日付けで少尉に昇進だ」


「謹んで拝命致します!」


 軍人らしくハッキリとした声で言う。しかし、この昇進はカイル自身の功績によるものではないとカイルはきちんと理解していた。なぜなら、上位の士官が多く死んだからだ。帝国軍は指示を出す立場の人間を狙い撃つことで、共和国側の戦線を崩壊に追い込んだ。混乱の只中ただなかにいたカイルには知る由もないことだったが。


 戦場に出る。階級が上がる。戦場に出る。階級が上がる……。繰り返して、カイルはいつの間にか大尉にまで出世のきざはしを登ることになった。ものすごく運が良かったのだろう。どんな戦場もなんとかしぶとく生き残った。泥臭い命の繋ぎ方だ。こんな昇進の仕方を虚しい、と思わないわけではない。けれど、階級が高いほどカイルの夢は近くなる。この国を中から変えたいと願うのならば、今の道が最善だ。そう思っていた。


 なのに、共和国軍は帝国に落ちたリンツェルンを攻めた。奪還ではなく、帝国軍諸共に破壊するために。燃え盛る炎の中、カイルは同時に夢を見失う。自国民を見殺しどころか、帝国軍諸共に焼き払う非道を上官たちは顔色ひとつ変えずにやってのけた。笑いながら、さも愉快そうな彼らの姿は、カイルが見ていた共和国への期待に致命的なヒビを入れたのだ。


 煤けた空気は肺を焼く。部下たちは無為に死んでゆく。残忍に笑っていた上官も死んだ。それでも、弾丸は致命傷をカイルに与えることはない。……きっと、とても運が良かったから。


 そして、今もまた——


 なぜ。


 カイルは目の前の光景を理解できなかった。大尉となった彼は大統領の護衛任務を任された。その最中、市民の一部が大統領に対し運動を起こした。


「一人残らず射殺しろ」


 大統領直々の命令。けれど、ぼろぼろの服に身を包んだ彼らが叫んでいるのは、待遇の改善だけなのだ。その声を無視していいはずがない。この国は市民の信託によって成り立っている。その前提を揺るがすような行動を取るべきでは……。


 ふとカイルは表情ひとつ変えないディエゴ・マクハティンの異様さを目にする。その瞬間、理解した。もう何度も、同じことを繰り返している、ということを。しかし、この一部始終を目の当たりにしている市民たちは笑っていた。兵士たちは無言で粛々と命令を実行していた。演説は続く。裏側に屍を積み上げ、表側には狂気をはらんで。


 おかしい、と思ったのは自分だけなのだろうか。


 全く動けずにいるカイルの頭部で鈍い音がした。倒れていく身体で、殴られたことを認識する。手から銃が奪われ、発砲音が遠く耳の奥で反響する。暗転する意識の向こう側に見えたのは、仮面をした兵士が指先を伸ばす瞬間だった。


 何かが壊れて崩れていく音がする。簡単に命を奪って、反対する勢力を黙らせることが軍の役目というのか。それなら今まで自分が信じてきたものは何だったのだろう、と空虚感が心を満たす。ばきん、と最後にひとつ音を立てて共和国への期待が砕け散った。


 人の思いを暴力で封殺するのなら、この国は帝国と何ひとつ変わらない──。




 ***




 ソフィアは執務机の上で手を組み直した。砂糖水と化している紅茶は薄く湯気を吐き出している。左側に処理済みの書類の山がうず高く積み上げられていた。


「今頃、あやつはどうしておるかの?」


 執務机の前にキリクは丸椅子を引きずってきて、どっこいしょと腰を下ろす。


「あれですか? 魔女様が最近興味津々のヤツですか? 私にはなんであなたがあんなフツーのヤツを気にするか分からないんですけど」


 頬杖をついたキリクは下からソフィアの顔を見上げた。ソフィアはハッと鼻で笑う。


「あやつが普通だと? そんな馬鹿な。確かに出自は平々凡々じゃ。だが、この経歴を見てみよ」


 言われるままにソフィアが差し出した紙を受け取る。士官学校に入学し、従軍してからのシンプルな経歴が記された紙に目を通したキリクは、細めていた目を僅かに開く。


「……こいつ、いや、この経歴、マジですか!?」


 どやあ、とソフィアが鼻息を吐いた。


「なんでソフィアがドヤってるのかは分かりませんけど、あなたがご執心なワケは分かりました」


 一言で言えば、カイル・ウェッジウッド、という名前の一兵士はとてつもなく運がいい。最初の戦場では砲撃で近くの兵士たちが四散した場所で何とか息をしている所を掘り起こされた。上官が死に、棚からぼたもち昇進。次の戦場では、すっ転んで飛んでいった銃がたまたま地雷を爆発させ、一小隊壊滅の危機を救った。その功労者として勲章を授与される。その次の戦場、リンツェルンでの悲惨な戦いでは激戦が繰り広げられた市街地で多くの仲間と上官を亡くしつつも、ボロ雑巾のようになって生還した等々……。


「ねえ、魔女様、こいつおかしくないですか!?」


「妾もおかしいと思う。じゃが、運の良さも才能だとは思わぬか? 妾はアレが欲しい」


 ソフィアの目は鋭く尖る。貪欲な狼のような眼光にキリクはぞくりと背筋が震えるのを感じた。知略、謀略、そういったものを得意とする共和国軍の参謀長官、幼女の身にして階級は少将、《智恵の魔女ミネルヴァ》の目に狂いはない。欲するにはそれ相応の理由と意味がある。ソフィアくらいの年齢の子供なら、たくさんの無駄によってできあがった生活をするはずなのに、この淡い蒼色の髪をした少女には無駄という二文字はまるっきり存在しなかった。それがどれだけ異常なことなのか、ロクな生活を送ってこなかったキリクにだって分かるのだ。同時に、この強情な魔女様が絶対に決めた道を諦めはしないことも重々承知している。キリクはニッと笑って、ソフィアを見た。


「で、この棚ぼた男を何に使うんですか?」


「少し前からこやつについて調べておってな、カイルが軍人を志した理由を知った。愉快じゃぞ? なんでも、戦争を終わらせるためだそうじゃ」


 失笑するキリクにソフィアもつられて相好を崩した。正義のヒーローでも気取るつもりか、馬鹿馬鹿しい。そんな子供みたいな夢を抱いて、夢も希望も、なんなら明日もない軍人になろうだなんて、ここまでドロドロになってしまっては、誰も引き際など知らないのに。


「──じゃが、この才は本物じゃ。ならば、石ころが共和国を揺るがす駒に化けるやもしれぬ」


 ソフィアの唇は凶悪な笑みを刻んだ。


「そのためにそいつを大統領の護衛にねじ込んだっていうわけですか。大統領の護衛は特務の仕事ですよね、たしか」


 甘ちょろい夢を壊して、本当の敵を示してやる。共和国の腐敗はある一人が確実にその一端を占めていることを見せつける。これは賭けに近いけれど、自然に共和国自体を敵視する人間を作る第一手だ。彼が特殊な才能を持つのなら、最小の手間で最高のカードを手に入れることになるかもしれない。


「まずはあやつの運試しじゃな。特務がうじゃうじゃと情報統制に躍起になっておる場所からの生還。それを突破したのなら、妾はやつを盤上に載せる」


「なるほど。まさに運も実力の内、ってなわけですか。武芸を磨いてきた私としてはあまり認めたくない尺度ですが、ええ、とても面白いと思います。ソフィアもそうなんでしょう? まだ見たことのないものを見れるかもしれない、と」


「うむ。暗殺人形やら何やらと戦闘技能の卓越した者を見ることは多いが、天に愛された人間を見るのは初めてじゃ」


 愉しそうに肩を揺らしてみせたが、その表情はすぐに消え失せた。彼が天に愛されているのなら、ソフィアはきっと、天に見放されたのだろう。しんと冷めきった声で彼女は続ける。


「……なあ、キリク。この国は、救うに値すると思うか?」


 金色の瞳には感情の色はなく、地獄の底を覗いているような虚無感を揺蕩わせていた。キリクの顔が微かに強ばる。ソフィアは問いに答えを求めているわけではない。そんな答え、とうに出している。だから、ソフィアはこの椅子に座っている。そうでなければ、この幼い少女はその運命を悟った時に、命を自ら絶っていたことだろう。


「ソフィア」


 立ち上がって、キリクは幼女の側へ向かう。手を伸ばそうとしたら、パシンと乾いた音がした。虚ろな瞳がキリクを見上げる。


「触れるでない。そなたは妾を生かすための装置じゃろう。妾はそなたを信じている。じゃが、それは《首狩りディミオス》としてのそなたじゃ。妾の心を、ゆるしたわけではない」


 それなら、そんな震えた声で泣きそうな顔をするな、とキリクは怒鳴ってしまいたかった。何度も唇をゆがめて、その度に言葉を探した。首を刈り取る残虐な暗殺者だった自分が、強がりと嘘が得意な少女を慰める言葉に窮しているだなんて、とんだお笑い草だ。研ぎ澄まされた刃はいつの間にか、どうやらすっかり錆びついてしまったようだった。


「……別に、心を許してくれなくてもかまいません。ですが、その……、あなたが泣かれたり落ち込まれていたり虚無っていたりするのを見たくはありません。だから、これは私のエゴから来るものなんで、付き合ってくれると嬉しいです」


 返事を待たずに問答無用でキリクは腕を広げる。目を見開いたソフィアを、壊してしまわないように抱きしめた。強張っていた幼い少女の身体から力が抜ける。静かな嗚咽が静寂に満ちていた部屋の空気を乱した。


「キリ、ク、妾は憎いのじゃ。妾の足を砕いて、心臓に火薬を埋めて、この脳を使おうと群がる輩が憎い」


 ええ、とキリクは相槌を打った。


「いやなのじゃ、何もかも。じゃが、妾は何も成せずに終わるのもいやなのじゃ」


「はい」


「……そなたに話してもどうしようもないことばかりじゃな」


 弱々しい自嘲の笑いが落ちた。


「ソフィアはちゃんと頑張ってます。私も最後まであなたを守ります。ですから、どうか泣かないでください」


 ──あなたはとても、可愛いんですから。


「い゛た゛た゛た゛っ」


 ギリギリと全力でつねられて、キリクの脇腹が悲鳴を上げている。思わず浮かせた腕からソフィアはするりと抜け出し、口を尖らせた。


「馬鹿なことを言うな阿呆。妾を誰と心得る? 妾は無慈悲な魔女じゃ。か、可愛いという言葉なぞ、妾には要らぬ!」


「調子、戻ってきましたね。——さてと、私は魔女様の領地に踏み入った不遜な輩を掃除して来ます。では、そこで応援しててください」


 そう言ってキリクは微笑んでソフィアの柔らかい絹糸の髪を撫でる。腕組みをしてそっぽを向いたソフィアが、「こんなやつ、サッサとくたばればよいのじゃ」、などとぶつくさこぼしているのを尻目に部屋を出た。


 共和国最高の頭脳である《智恵の魔女ミネルヴァ》の居城は共和国軍総本部の奥深くに存在する。総本部そのものは共和国の首都、フライハイトに位置する。フライハイト——自由を自称するにはこの国は濁り過ぎている、とキリクは思うのだが。ソフィアの執務室に話を戻すと、この区域はその重要度に対応する形で厳重なセキュリティが組まれている。侵入者の情報は自動でソフィアのもとに表示されるようになっている、というわけだ。軍の暗部が持つ科学技術は外よりも少なくとも一世紀ほど進んでいる。それはおそらく帝国も同じだろう。しかし、どちらも実戦にその技術を持ち出すことはない。なぜならば、どちらがどれだけ進んでいるか分からないからだ。それに、帝国が動かない限り共和国は動くつもりがないだろうから。


 足音を殺し、キリクは侵入者の位置を探る。刀の柄に手をかけた時、からからと車いすの車輪が回る音に手を止めた。


「なぜこちらへ!? 危ないでしょう!」


 追い返そうと動いたキリクをソフィアは鋭い視線で制す。ソフィアは通路の角から姿を現した仮面の男へと目を向けた。


「随分とまあ、大胆じゃな。貴様が第七位使徒の使いか。話を聞こう。ついてくるがいい」


 男が小さく頷くのを確認し、キリクに車いすを動かすよう目くばせをした。動き出した車いすの後を仮面の男が音もなく歩いてくる。キリクは警戒をしたまま、男を伴って執務室へとソフィアを連れ帰った。


「感謝します」


 そう言って頭を下げる男にはわずかも意識を向けず、ソフィアはキリクが紅茶を用意する手慣れた動作をぼうと見つめる。角砂糖をどかどかと熱い液体に入れながら、口を開いた。


「第七は慎重派だと思っていたのじゃが、そうでもなかったか」


 紅茶を口に含み、ソフィアは喉を潤す。かちゃんと陶器同士がぶつかる音がいやに響いた。


「——それとも、やつにはもう時間がないのか」

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