ep.044 撃鉄

 仮面の軍人との交戦を経て、地下水路から脱出した頃には、藍色に染まった空は砕いた宝石を散りばめていた。


 アルバは「任務完了、よっしゃー!」と叫んだと思えば、「女の子と遊んでくる!」と元気に言い残して姿を消した。エルザはやれやれという顔をして肩を竦め、今はウイスキーを煽っている。以前耳にしたが、エルザは酒豪なのだそうだ。そして、ライは報告に行くと言って出ていってしまった。すっかり手持ち無沙汰になったナタリアは屋根の上に出て、こうして空を見上げていた。


 ふぅ、と何気なく息を吐き出した。呼吸をするのは暗殺人形──いや今はもう壊れているから違うのかもしれないけれど──にも必要なことだ。なのに、今はナタリアが息を吸って吐く度に、身体の奥で何かが軋む。ライに向かって絞り出したように、少しずつ変わっていく自分自身がナタリアは怖かった。


 膝を抱え、夜の空を見て。りー、りー、と虫が小さな声で鳴いているのを聞く。夜空に向かって、ナタリアは指先を伸ばしたが、白い華奢な指先が伸びきる前に引っ込めた。


「……どうしてやめたの?」


 ナタリアは先と同じ、膝を抱えた体勢のまま呟いた。


「わか、りません。ですが、わたしには、あの光が眩しすぎるように思えたのです」


「眩しすぎる、か。俺には君が何を感じているのか分からない。でも、それが分かったらいいのに」


 気配なく現れ、静かにナタリアの隣に腰を下ろしたライはそう言った。銀色の髪が風をはらんで揺れる。眩しいのはあなたたちなのだ、と口にすることはできなかった。


「わたしには、なぜ皆さんがふたりを探すことに必死なのか、理解できません。失踪したというのなら、裏切った可能性が非常に大きいです。ならば、取り戻すのではなく、取るべき行動はふたりの抹殺ではないのですか?」


 死人は喋らない。永遠の沈黙へとその口を縫い留めてしまえばいい。それは一度戦場を共にすれども同じこと。ナタリアが戦場に駆り出される時、命を落とすのは決して敵だけではない。《死天使》を見た者もまた、命を狩られる。……もしも、その凄絶な戦場の最前線、《死天使》の舞う絶死の地獄を生き延びることができたのならば。


「……」


 ライの藍色の瞳は彷徨う。ナタリアの言葉がライにはとてもよく理解できてしまう。戦争の道理が殺るか殺られるかの二択でできていることを骨の髄まで叩き込まれているのだから。けれど。


「なかま、っていう言葉が俺は好きなんだ」


 そう言ってライは笑んだ。無意識にナタリアは胸を押さえる。


「な、か、ま」


 一音ずつ、借り物の言の葉を口にする。わからない。それが何かとても綺麗で大切なものだとは理解できるのに、ふわふわとしてどうしても掴めなかった。


「……命令をわたしは棄てました。色々なものやことを知りたいと思いました。けれど、……わたしには──」


 星を見て呟く。


「──人間がわかりません」


 星のように、きらきらと美しく瞬いて遥かに遠い。ナタリアにとって人間はそういう存在だ。空っぽなナタリアが触れてしまえば、火傷をしてしまいそう。


「難しいよな……。でも、とりあえずリュエルとルカが心配だ。無事でいて欲しい」


 ライが目を伏せるのを見て、ナタリアはふとリュエルの澄んだ湖のような瞳を思い出す。きらきらと揺らめく色合いをもう一度見たいと思った。


 ……それなら、無事を願うのはそういうことなのだろう。




 翌日。

 重苦しい空気が特殊諜報部隊の部屋に流れていた。いつになく真剣な表情のアルバとエルザがテーブルを挟んで向かい合っている。


「これ以上踏み込むべきじゃねえ。ここから先は、自分の墓穴をセルフサービスで掘りに行くようなもんだぞ」


「ええ、そうよ。けれど、私たちは特務部隊に目を付けられた。なら、とことん掘るべきよ。ここが攻め時でしょう?」


「だから、危ないって言ってんだろ! 使徒化計画なんて探るのやめてさ、リュエルとルカ探した方が良いって!」


「それで、二人の居場所は見つかったわけ? 昨日の夜、女の子たちとまた遊んでたじゃない!」


「──っ、それは関係ないだろ!」


 はあ、とライが溜息をつく。朝からずっとこの調子だ。使徒化計画と特務部隊について踏み込むべきだと主張するエルザと、危ないから止めるべきと主張するアルバ。双方一切譲らないため、正直、どちらの作業の停滞中だ。決めるのは彼らだ、とナタリアは思っているが、この進まなさ具合にはもどかしさを感じる。さながら、会議は踊る、というやつか。


「ライ。あなたはどうするのですか?」


「リュエルとルカを探したい気持ちはあるけど、手がかりがない。使徒化計画に踏み込むには手がかりが足りない。どっちもどっちだな……」


 ほのかに湯気が立ち上る紅茶を傾け、ライは呟く。ナタリアはふと思い至って、テーブルに置かれた砂糖壺からひとつ角砂糖をつまんで、紅茶にとぷんと落としてみた。ゆらゆらと揺れた琥珀色の中、砂糖が崩れてゆく。


「使徒化計画でしたら、まだガンマに殺された人間のリストが残っています。ですから、エルザ中尉の提案は理にかなっているように思えます」


 ナタリアは視線を紅茶に落とす。赤茶の髪を持つ冷たい美貌の少女が水面でまばたきをした。


「……ですが、その、お二人がいないと、音が足りないのです」


 リュエルの笑い声とルカの噛みつく声がないのは、少しだけ物足りない。このガラクタ部屋のような場所も妙に空白が目に付く。


「そっか。そうだな、俺もそう思うよ」


 ふっとライは微笑んだ。


「あー! もう! ラチが明かないわ!」


 エルザはヤケクソ気味に立ち上がって、部屋の隅に置かれている白黒テレビの電源を入れた。ザザザザッと画面にノイズが混ざりつつも、少しずつ音と映像が鮮明になってくる。


『──が、今回の選挙も──対抗馬の──氏は』


 むしゃくしゃとした感情をどうにか発散しようとソファに飛び込んだエルザが、気だるげにムクリと起き上がった。


「そういえば、そろそろ大統領選挙なのね」


 共和国の元首である大統領は国民投票による直接選挙で選出される。帝国からの亡命者扱いのライには当然ながら選挙権はない。そのため政治に興味を持つこともなければ、理解しているとは言いがたい。帝国に至っては皇室による強固な専制体制が築かれているからなおさらだ。


「今の大統領は、ディエゴ・マクハティン。彼は確か連続で三期選出されている、と俺は記憶しているけど、合ってるか?」


 頬杖をついて外を見て、話聞いてませんを装っているアルバに問いを投げかけたところ、投げやりな返答が帰ってきた。


「合ってるー。どーせ、コイツがまた大統領やるんだろ」


「もう結果が分かっている、ということですか? 選挙は来月なのでは?」


「そだよ。マクハティンは人気取り上手いからな。なんて言うか、民心を操るのが得意な感じがする」


 ディエゴ・マクハティンは共和国の歴史に突如現れた人物だ。人好きのする温和な顔と人柄は多くの人々の心を掴み、ぽっと出の男に地位と権力を与えることになった。彼は、終わりの見えない帝国との戦争を正義の聖戦と高らかに叫び、暗澹としていた国民の心に火をつけた。それと同時に、本来なら戦争両立することは難しいはずの社会福祉にも多大な力を入れ、国民の生活を豊かなものにした。表面的には。だが、人々が彼から離れられなくなったのは必然のことだっただろう。その上、一部では彼が反対派を粛清して回っているとも囁かれている。そして、それがおそらく限りなく正しいということも。


「それなら選挙をする意味がないんじゃないか?」


 素朴な疑問を覚え、ライは呟く。


「意味はあるわ。だって、共和国は民主国家だもの。民主国家において、元首は国民の意志で定めるもの。だから、この当たりくじしか箱に入ってないみたいなインチキがまかり通ってるわけ」


「腐敗してんなー、うちの国。帝国と変わらん」


 その時、ナタリアはアルバの瞳に冷徹な光が宿るのを見た。限界まで研いだ刃のような激情を秘めた目だと、見る人によっては思うだろうか。


『──きゃああああああああああぁぁぁっ!』


 不意におんぼろテレビが揺れた。ちがう、激しく揺れたのは画像の方だ。


『は、発砲ですっ! 今、マクハティン氏に向けて弾丸が──!』


 オロオロしているアナウンサーから画面が切り替わり、数秒前に時は遡る。高らかな発砲音と明らかに演説中の男の頭部を捉えた弾道。そして、何かが弾の軌道を逸らした。白黒の映像では、動体視力の優れた暗殺人形でも詳しいことは分からない。


「……どういうこと? あの角度なら、たとえ僅かにズレたとしてもマクハティンを捉えたはずよ!」


 エルザには弾丸を逸らしたものがあったことに気がつかなかったらしい。ナタリアが答えようと口を開くよりも早く、アルバが声を発した。


「弾丸、だろうな。マクハティンに護衛が付いていないわけがない」


「ですが、弾丸に弾丸を当てるなど、エルシオ大尉以外にできる人間が──」


 エルシオは射撃の天才だ。人並外れた能力を持つ暗殺人形であれど、弾に弾をぶつけるのは容易なことではない。だが、あの射手は突発的な状況でやってのけた。つまり、エルシオと同等の能力を持っている可能性があるということだ。まさか、そんなはずはない、とナタリアは断じる。


「──いや、待てよ。特務なら、あり得るのかもしれないな」


 ライの言葉はナタリアの判断を覆す。暗殺人形に迫る身体能力を持ち、現在流通しているものよりも遥かに高い性能を誇る銃を支給された仮面の部隊なら、そういう人間がいてもおかしくはない。


「奴らなら、やるだろうな」


「ええ、やるわね」


 アルバとエルザの呼吸は、喧嘩していたのが嘘のように完璧に揃っていた。もちろん、エルザはソファでクッションを抱きかかえたまま、アルバは頬杖をついたまま、それぞれ正反対の方向を向いてはいたのだが。


「大統領が関わっているとなれば、慎重にならないといけないな……。アルバ、ここはやはり使徒を優先させるべきじゃないのか? 暗殺リストはあるわけだし。もしかしたら、ルカとリュエルが関係しているかもしれない」


 腕を組んで、ライはアルバの顔を見た。すると、アルバは口を尖らせ、不服そうな顔をする。


「やだやだやだー、俺行かなーい」


「あなた何歳なの! 駄々こねない! 行くわよ! 痕跡が残ってる内に!」


「あー、あー、きーこーえーなーいー!」


 窓際で駄々をこねるアルバの耳をエルザが鷲掴みにして、ぶんぶん振り回した。痛いのだろうか、とナタリアは思案する。アルバが涙目で叫んでいるから、たぶんきっと、だいぶ痛いのだろう、なんて。

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