ep.043 天秤

 ──帝国、帝都ソフィリア暗部。


 ルカ・エンデ──ネズミは治安局の黒服に身を包み、こつこつと軍靴を鳴らして歩いていた。

 記録係を引き渡しに来たが、局長であるリオン・イスタルテは眉をぴくりと動かしただけだった。ネズミが記録係を持ち帰ったのが意外だったらしい。けれど、彼の関心はそこにはない。いずれ蹴落とすため、見据えているのは黒衣の女ただひとりだった。

 反対に、イエリーという名の女性秘書官の目は、ネズミを穢らわしいと言わんばかりに冷ややかな色をしていた。その侮蔑の色にネズミは自分がそういう汚い人間、それとも獣、だったことを思い出す。はみ出しもので作られたツギハギの部隊とは違う。仕方がない、当然だ、とネズミは思う──いや、なぜそんなことを考えた? 他人など気にしたことはなかったはずだ。クソッ、と口の中で毒づいて、ネズミは視線を足元に移した。

 そんなネズミの動揺を知ってか知らずしてか、リオンはせせら嗤いを口に乗せ、一つネズミに任務を与えた。


 ガンマ最高の狙撃手、《魔弾の射手》エルシオ・リーゼンバーグの暗殺、という特別イカれた任務を。

 それから、地下牢の人間は皆好きに殺していい。褒美だから、と。


 ネズミの足取りはどんどん乱暴なものになってくる。カツカツと叩きつけるように歩みを刻み、地下牢へ向かう。自分が何に対して怒りを覚えているのか分からないのが癇に障る。


 軋む牢の扉を蹴り開け、間抜けな顔をして固まった“非帝国臣民”の首を切り飛ばす。勢いよく噴き出した鮮血が雨のように降り注ぐ。生ぬるい液体を一身に浴びながら、甲高い悲鳴を上げる人間を一人ずつなぶるようにして命を刈り取る。ケタケタと嗤いながらナイフを突き刺し、蹴り飛ばす。喉笛を掻き切って、叫び声さえ許さない絶望を。

 彼らに罪があったかと問われたら、きっと無かったのだろう。いずれ内から食い破るとしても、帝国の忠犬たらんとする治安局には、帝国に反する声を絶ち、反乱分子を粛清する義務がある。だから、反帝国を叫んだが最後、治安局に捕らえられて、弁護人のいない裁判にかけられ、“非帝国臣民”のレッテルを貼り付けられた人間はしかる後に処刑される。


 醜く這いずり回る肉塊がなくなっても、ネズミの中の怒りは消えなかった。血みどろのナイフを薄明かりにかざして自分の顔を見れば、初めは確かに嗤っていたはずなのに、いつの間にか口は閉ざされて憮然とした顔をしていた。


 何がつまらない?

 何がこんなにも気に食わない?


 答えが出ない。苛立たしくて、ネズミはナイフを力一杯血溜まりに叩きつけた。跳ね上がった血がネズミの顔を汚す。生ぬるい空気に息が詰まりそうだった。


「それは、オマエが既に居場所を決めちまったからじゃねーのか?」


 軽くて気負いのない声が牢の中に落ちた。普段のネズミならばすぐに気が付くはずなのに、全く察知できていなかったことにネズミは驚愕する。と、同時に沸騰していた頭が冷えた。ネズミはぐいと頬の血を拭い、暗がりで笑みを浮かべる赤髪の青年を見た。蛍火のような翠色の瞳が細められた。


「はあ? 何言ってるんすか。ボクはネズミっす、居場所なんてどこにもない。血に飢えたバケモノ、それでいいっす」


「へえ、ならなんでオマエは今苛立っている? 今までのオマエなら、それで満足していただろう」


「……何が言いたいんすか。あんた、ボクがあんたの暗殺を命じられたの知ってるっすか? そんな相手の前にノコノコと顔出して、殺されたいんすか?」


 ネズミは新しく取り出したナイフをかざし、エルシオへと歩を進めた。エルシオはぴくりとも動かなかった。


「でも、オマエ心当たりがあるんじゃないか? 今、ガンマの暗殺命令が下った理由。明らかに捨て駒だろ? いらなくなったから処分する。ついでにガンマを一匹道連れにできたらラッキー、あのいけすかねぇ男がそう考えてることも分かってんだろ。オマエが共和国に送られたのもそれが理由だしな」


 まー、オレがガンマの中で一番弱いっていうのがオレが選ばれた理由だろうけどな。そう言ってエルシオは何がおかしいのか、笑った。


「……うるさいっすね。サッサとそのよく回る舌を掻き切ってやるっす」


 ネズミが突き出したナイフをエルシオは軍服の袖をわずかに犠牲にして避ける。


「ふん、弱いっていうのは本当みたいっすね。狙撃手のクセにこの距離に現れるとかバカなんすか?」


「オマエ、このままこうやって死ぬのか?」


 エルシオの目に熱がこもる。まるで、遠い遠い何かを追い求めるような飢えた目だ。その強い輝きにネズミは一瞬ナイフを止めた。


「死ぬんすよ、何者でも無いまま!」


「それがオマエの望みか?」


「そうっすよ!」


 ナイフがキンッと音を立てて地面に落ちた。エルシオの後ろに回した手の中で、真上を向いた銃口が細く硝煙を棚引かせていた。


「ウソだな」


「嘘なわけないじゃないっすか!」


「だったら、なぜ、今ナイフから手を離した?」


 口を開いたけれど、ネズミの唇からは何の音も出てこなかった。


「この命令を果たしても、無駄だと分かってるからだろ? だってオマエ、命を奪う理由を無くしたんだから」


 今度はエルシオが距離を詰める番だった。ハハッと乾いた笑いがネズミの口からこぼれ落ちる。


「──理由、か。そうっすか、ボクが、人殺しに愉しさを見出せなくなったってことっすか。バカバカしい」


 口ではそう言った。だが、穿たれてしまったネズミの核は既にひび割れていた。せめてもの抵抗にネズミは光のない黒い瞳でエルシオを睨みつける。エルシオの余裕くさった顔が憎らしくて堪らない。


 「──なあ、オレたちと手を組まないか?」


 はあ?、と間抜けな声が漏れた。


「ガンマと組むってことっすか? 意味不明なんすけど」


 「ネズミ、いや、ルカ・エンデ。オマエはリュエル・ミレットを取り返したい。で、オマエにオレの暗殺任務が下ったってことは、治安局はウチに喧嘩売ってるってことだ。アリア様は治安局を潰す気だし、オマエの目的も達成できるんじゃないのか?」


 エルシオがアリアの名を出した、ということはその言葉に嘘はないのだろう。帝国暗部では、アリアの名は死の囁きであり、絶対の価値を持つ。安易に口にして良いものでは無い。正直、リオン・イスタルテでは届かない。キツネと称されるくらいには狡猾な男だ。しかし、アリアは王だ。帝国の夜は全て美しい女の皮を被った怪物のものだった。


 「──でも、悪くないっす。あんたを切り刻むより、あんたらに乗った方が面白い。あと、別にあんな女どうでもいいっす。ムカつくし、アホだし、お人好しだし」


 エルシオが目に見えてニヤニヤと笑い始めた。


「なんすか、ニヤニヤと。ウザいっす」


「いやー、愛だなーって」


 ルカは思わずつかつかと歩み寄ってエルシオの足を踏みつける。間抜けにぴょんぴょんするエルシオを見て溜飲を下げた。


「そういえば、なんでボクにこの話を持ちかけたんすか? ガンマだけで簡単に治安局なんて潰せると思うんすけど」


「ああ、そりゃ、オマエが昔アリア様にスカウトされたことがあったからだと思う。ネジの飛び具合が好かれたんじゃね? オレは今の面構えの方が好きだけど」


「うるさいっす。……で、こっからどうするんすか。治安局のやつらを皆殺しにするとか?」


「いや、オマエはとりあえずリュエル・ミレットを追え。ついでに治安局の動きを逐次報告してくれると助かる」


 思っていたよりも単純で良かった。ドブネズミとして生きてきたルカは考えるのが苦手だ。だから任務は単純であればあるほど良い。血まみれの手をズボンに擦り付け、血溜まりに転がっていたナイフも拾い上げた。


「りょーかいっす。──ところで、あんたは何を求めてるんすか?」


 さっきからずっと気になっていた。赤髪の下で光る翠の瞳は何かを渇望する目をしている。それも、黒い渇望だ。同じ穴のムジナ、ということなのか、ルカには何となくそう見えた。エルシオは唇を歪めてみせる。今この瞬間、初めてルカは彼の素顔を見たような気がした。


「──復讐を」


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