ep.040 キコエナイ
共和国軍の軍服に袖を通す。紺に白の差し色の、彼ら曰く“正義”の軍服。のりでパリパリの新品の軍服が、ネズミにはやけに気持ちの悪いものに思えた。なぜ、と問われてもきちんとした答えは持ち合わせていない。ただ、滑稽でたまらなかった。死体漁りから治安局員、治安局員から共和国軍人に──履歴書を正直に書いたら書類を読まされる人間は豆鉄砲を食らったような顔をするだろうか。それとも、よくあることだ、と少し変わった経歴の人物として記憶されるのだろうか。他者からどう思われようと関係ないが、人を殺していただけでこんな所に行き着いてしまったこと自体が不可思議だ。
長い黒髪を一つにまとめて、死んだ目をした少年は廊下を歩いていた。物置きと
「本日より特殊諜報部隊に配属となったルカ・エンデ准尉……っす」
架空の名前を
「ルカ、よろしく」
人形のようだった綺麗な顔が微笑を浮かべる。知らず知らずにルカは息を呑んだ。本当に彼が生きた人間なのだと少しずつ実感が湧いてくる。──情報通りなら、この青年は元帝国の
「……は、はあ」
新しく始まった今までと違う環境は、ルカの目には物珍しく映る。ライ、アルバ、エルザ、リュエル──その誰もが異質だ。異質、としか言いようがない。第一線で活動する精鋭揃いの特殊部隊のはずなのに、常にタノシそうに笑っている。何気ない会話はいつも弾んだリズムを運んで、めくるめく移り変わる景色は決して悲壮感を映さない。ここでは狂気や絶望の匂いがしなかった。ルカの中に深く根を張り巡らせる狂気でさえ、暴れ出す勢いを削がれていく。だんだん、タノシイ、という感情が分からなくなってきた。
タノシイ、とは本当はどういう感情なのだろう。
わずかでも生じた疑問はルカという存在に波紋を落とした。そして、それは卵に入った小さな小さなひびのよう。
***
「──今回の任務は軍事機密を流している武器商人を捕らえろ、とのことだ」
物置きのような特殊諜報部隊の部屋はぼろぼろのテーブルが真ん中にひとつあり、デザインもてんでバラバラの椅子がぐるりと置いてある。エルザがでこぼこの鍋を拾ってきたコンロにかけ、茶葉をドバドバと投入していた。隊長のライはおもむろにテーブルに参考資料を放り出した。
「ルカはここに来てから初めての任務だな。おめでとう」
テーブルに肘をついたアルバは青色の目だけ動かして、ルカに向かってニヤッと笑う。
「なにがおめでとうっすか」
ふん、とそっぽを向くと、ルカの隣に座っていたリュエルがその目線を追いかけてきた。きらきらとした水色の瞳が細められる。
「おめでとうだよ! だって、ルカが私たちの仲間になって初めての任務だよ? 私はすごく嬉しいよ」
「は? あんたには関係ないっすね」
「関係あるもん!」
言い返そうとしたその時、目の前にことりとティーカップが置かれた。睨むように見上げると、エルザはにっこりと微笑んだ。
「ルカ? お茶はどうかしら?」
「いらないっす」
「ルカ? お茶はどうかしら?」
「いらないっす」
エルザの笑みがどんどん深くなっていき、凄みが増す。
「ルカ? お茶は──」
「──あー、もう、わかったっす! 飲めばいいんすよね!?」
「ルカだめー!」
ルカはティーカップに手を伸ばし、唐突に慌て始めたリュエルを横目に紅茶を思いっきりあおった。
「あぢぢぢぢっ!? 辛っ!?」
喉のひりつくような痛みに半分涙目になって、根性で
「はい、水」
目の前に差し出されたグラスをひったくる。一気飲みをしてから、ルカは視線だけで誰が水をくれたのかを探った。銀縁の眼鏡を押し上げたリュエルが不意にルカの方を見る。
「……水、ありがとうっす」
ボソリと呟くとリュエルは花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「とにかく、作戦概要を説明するから聞いてほしい」
ライはどこか疲れた声でそう言った。
ケタケタと嗤う声がする。いつの間にか、ルカの身体は鮮血にまみれて真っ赤な濡れネズミになっていた。馴染み深い鉄錆の匂いが鼻腔を突く。ナイフは鈍色に染まって、悪魔のような顔をして嗤う少年の横顔をぼんやりと映している。
「捕らえろ、っつー命令だったんだけど」
アルバが肩をすくめた。
「まあ、なんとか取引の証拠は手に入ったから、他の悪事の
「そうね、早く帰って報告する方が先ね」
密偵としては失格の行動を取ってしまったと遅れて気がついたが、予想外にもライたちの反応は薄いものだった。多くの人間の命を狩っている暗殺人形や、数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の兵士である彼らには、今更どうということもないのだろうか。何でもないように彼らは顔色一つ変えなかった。
ふと、血まみれの手でぺたりと顔に触れる。ちゃんと笑っている自分に安堵した。
大丈夫、これがタノシイという感情だ。何も間違っていない。そして、この
さっさと背を向けて帰っていくライたちを見送り、ルカは呻き声を微かにもらす人間にナイフを振り上げた。
「だめだよ、ルカ。殺しちゃだめ」
「なんでっすか?」
普段ののほほんとした表情とは打って変わって、
毅然とした顔をしたリュエルがルカの目を見据えていた。こんな顔をする人間だったとはつゆほども思わなかった。
「むやみに命を奪うのは良くないよ。私もたくさん人が死んでいく所を見てきたけど、何度見ても慣れないの。だって、その人にだって人生があるんだよ? 敵とか、味方とか、犯罪者とか、そう言った記号で処理していいものじゃない。人を
目の前の銀縁眼鏡の女が得体の知れない異質な物体に見えた。最初から最後まで、徹頭徹尾理解できない。まるで知らない言語を聞かされているみたいだ。わからない言葉はルカの中をただ通り過ぎていく。
「よくわからないっす。人生? ボクには興味ないっすね。どうしてここで呻いている人間の人生を背負ってあげなきゃいけないんすか? ボクはただ楽しみたいだけなのに」
ルカは手の中でナイフを
「……それは、楽しいという感情じゃない」
「なら、なんでボクは人殺しでしか笑顔になれないんすか? 楽しいから笑うんすよね?」
リュエルからの返事はなかった。つまらない、と思いながら、ナイフを無造作に投げる。面白いくらい簡単に倒れた人間の心臓に突き刺さった。暗がりで真紅の花が咲く。断末魔の叫びを上げて、男は呆気なく事切れた。
「──それでも、だめ。殺さなきゃいけない時があることは否定しないけど、でも今回は殺す必要がなかったはず。それに殺すのなら、そんな痛めつけるようなやり方はやめて」
分かり合えないと示したのになお食い下がるリュエルに、ルカの目は細められる。まるで獲物を見定める猛禽のように爪──ナイフを突き立てる場所と方法を頭の中で瞬時に弾き出す。
「……この部隊に所属していることに感謝しろっす」
唸るように呟いて、ルカはナイフを死体から引っこ抜くと血溜まりに背を向けた。ここでリュエルを殺したら、ライとアルバに首をカッ飛ばされる。あの二人には敵わない。それに、まだそれを簡単に受け入れられるほど、タノシんでいない。
けれど、ルカの手を止めた理由の中には得体の知れない存在への興味があったこともまた事実だった。今まで、ルカに説教をした人はいなかった。命を奪うことが悪に分類されるのだと教えた人もいなかった。命への責任だとか、命の価値だとか、砂糖菓子みたいに甘くて脆い幻想を真面目に語った少女はとても滑稽だった。どうせそんなもの、口にすれば容易く溶けて消えてしまうのに。
「あんたは何でこの部隊にいるんすか? 何もできないくせに」
血のついたナイフを振って血を落とし、ルカはまた何回目ともしれない“お説教”をしに来たリュエルに問いかけた。
その日は三日月がとてもきれいな夜だった。三日月の降らす淡い光は欠け落ちたトタンの屋根から漏れている。か細い月明かりが照らし出すのは紅い花が咲き乱れる凄絶。どこまでも続くと錯覚してしまいそうなほどの死体と銀珠のカーペット。地獄をナイフで作ってみせたのは言うまでもなくルカだった。
今日は任務のない日だったから、まさかリュエルが追ってくるとは思わなかった。それに、彼女に自分の居場所を割り出されることも想定外だ。光のない黒い瞳で睨み、リュエルを牽制した。しかし、えへへ、と彼女は頭をかいて呑気に笑う。貶されているのがわからないのか、と苛立ちがつのった。
「少し、記憶力が良いからかな…?」
「はあ?」
「私は見たものを全て記憶しておけるんだ。ただそれだけ。でも、そのおかげで今日、ルカがどこに向かうかわかったよ」
「……なるほど。それなら確かにあんたには価値があるんだろうっすね」
全ての記憶が可能なら、機密文書を持ち出さずに機密情報を持ち出すことができる。その意味と価値は学のないルカにもわかる。ルカ自身には何の価値もないことも。
「あんたは良いっすね」
口にするつもりのなかった羨望の言葉が転がり出る。ルカは誤魔化すように上を見上げた。パタパタとどす黒い色をした雫がルカの顔にこぼれ落ちる。行き場をなくして廃工場で身を寄せ合っていた、文字通り名前のない人々だったものは、あちこちで
「ルカ……?」
一歩踏み出されたリュエルの足が血の海に波紋を生む。静かに波打った水面は月明かりで輝きを灯す。
「ルカ、大丈夫?」
ルカは口を動かした。呟きは誰の耳にも入らない。
「ルカ?」
もう一歩近づいてリュエルは水色の瞳をルカに向ける。肩を震わせ、ルカは叫んだ。
「──ふざけんなっす! 何が“大丈夫?”っすか! ボクには、あんたが、理解できない!」
リュエルが困ったように微笑むのを見て、余計に腹が立った。
殺してしまおうか。ここでこいつらと一緒くたにバラバラにして血の海に沈めてしまおうか。
それはなんてタノシクて、甘美で、……つまらないのだろう。
つまらない?
なぜそんな言葉が脳裏にひらめいたのかわからなかった。ふと気づく。ケタケタという音が聞こえない。聞こえない。いつも、耳の側で聞こえていた音が、しない。
「ルカ」
柔らかい声が耳の側で響いた。それは痛くなくて、陽だまりでそよぐ風のような音だった。偽りの名前すら心地よいと思えるほどに。
「帰ろう?」
目の前で朝の澄んだ空の色をした瞳が瞬いた。そして、血まみれで独りで嗤っていたはずの少年は、差し出された手を取ってしまった。自分にはその資格がないと、知りながら。いつか、腐り落ちて死んでいくものかもしれないけれど、この手は拒みたくなかった。
──だって、ずっと温かいものが欲しかったから。
「……センパイって、呼んでもいいっすか?」
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