ep.038 告別
ルカは隣を歩くリュエルにおもむろに視線をやった。おかっぱよりは少しだけ長い茶色の髪、光を受けて煌めく銀縁の眼鏡の奥では明るい水色の瞳が輝いている。その姿が無骨な軍施設の中を照らし出しているように思えるのは、はたしてルカだけだろうか。
「記録係」
呼びかけると、可愛らしい若い女の姿は一変する。瞳が凪ぎ、静寂に身体を沈めてどこか淋しそうな目をした女が振り返った。
「何ですか?」
「雑談しよ」
ルカがニヤッと笑うと、反対に記録係はキョトンとした。
「私と雑談ですか? 変な人ですね。お断りします」
「そこをなんとかっす」
「嫌です」
スパッと切り捨てられるが、めげずに挑戦すること十三回。やっと記録係は諦めの溜息をついた。満足してルカは大きく頷く。
「記録係はいつから軍にいるんすか?」
「生まれた時から。けれど、記憶を引き継いで存在しているので、詳しくは分かりませんが」
「すごいっす。そんなに長く軍にいて気が狂わなかった所も含めて。ボクは軍歴は短いっすからね」
記録係は何気なく電灯の明かりを見上げて目を細めた。夜の基地の廊下を歩く人は他にはいない。今頃はみな、自室にでも引きこもっているか、どこぞの美女と酒にふけっているかするのだろう。現実をきちんと見て、なおかつ理解している人間は一体どれくらいいるのか、甚だ疑問だ。
「
記録係は自分の頭を人差し指でつついてみせる。
「──に保管している私を守るには最適だと判断されたのでしょう。仮に私の本当の機能を知ったとしても、彼らは少佐が私を利用することを考える人ではないと理解しています。ルカ・エンデ准尉、それはあなたもお分かりの通りです」
「確かにそうっすね。ナタリアさんもそうっすけど、暗殺人形は人間としていびつな育て方をされている。その在り方を打破した今も心自体はまだ幼いままっす。……利用するのはあまりにも簡単っす。ふうん、それで共和国の虎の子であるあんたがこんなとこに出てきたわけっすね。で、それはさておきセンパイはなんで少佐のことが好きなんすか?」
「なぜ急に?」
わざとらしくルカは片目をつぶった。
「ボクがセンパイのことが好きだから」
記録係の顔が一瞬朱に染まる。冷静なデータ管理装置としてはふさわしくない、と己を律して記録係は深い溜息とともに表情を消した。何も聞かなかったかのように無表情でルカを見る。その耳がまだ赤いことにルカは気づいたが、あえて気づかないフリをした。
「……
「ま、そんなもんっすね。昔、誰かに言われたことがあるっす。誰かを深く愛したら殺してしまいなさい、溺れるほどに愛したらその命すら自分の物にすればいいのだから──と。ボクは今のところあんたを殺したいと思わないっすから、これは愛ではないんだろうっすけど」
かつて赤茶色の髪をした美しい女は、へばりつくような澱んだ闇の中で血まみれのルカに微笑みながら、そんなことを言った。
「殺人鬼に相応しい文句ですね。血に飢えたあなたにぴったりです」
記録係がルカを見る目は凍てついている。ぞくりとルカの背中に沸き立つような震えが走った。尖った八重歯を見せて、ルカはニタリと笑う。
「久しぶりに聞いたっす。最近はあんま殺してないっすよ?」
「けれど、この部隊に来たばかりのあなたは修羅でした。止めなければ、嗤いながらずっと殺し続けたでしょう。その殺人には何の理由もなく」
ルカは目を閉じて、過去を振り返ってみる。昔の自分なら回想なんてしなかった。いつだって今しかなくて、過去も未来も存在しなかった。
「そーっすね。あんたはボクの本質が変わっていないことを知ってる。そして、これからもきっと変わらないっす」
記録係は頷いて、いつの間にか目の前に現れたドアノブに手を掛ける。情報管理部の機密文書管理室はこの奥だった。ルカが壁のスイッチを押すと、ぱちんぱちんと手前から奥へと順繰りに明かりが灯っていく。紙であふれかえる棚が途切れることなく続いていく姿は、色々なものが降り積もってどうにもならなくなった共和国自身のようだ。戦争をまだ塗り重ねるのか、という問いは見過ごされたままここにいる。それとも気づいたらこんな所に押し込められてしまったのかもしれない。
古い書類の匂いは奥から漂う。しかし、記録係とルカの目当てはもう少し手前の棚にあるはずだ。
「どうしたんすか、記録係?」
突然足を止めた記録係を不思議に思い、ルカは振り返った。
「ルカ・エンデ准尉。前に私が尋ねたことを覚えていますか?」
もちろん。お前は誰だ、とルカの核心を突いた問いだった。
「え? なんかあったっすか?」
とぼけてみせると記録係は大根役者を見たかのように呆れた顔をした。
「覚えているくせに。あれからしばらく考えてみました」
銀縁の眼鏡が燈赤色を帯びた光を跳ね返す。明るい水色の瞳はルカの黒い瞳を見据えていた。
「あなたは帝国の密偵ですね?」
ルカの顔にあった笑みが深まる。
「何でっすか? ボクみたいな殺人鬼は密偵から一番かけ離れた存在だと思うっすけど?」
「だからこそ、です。この部隊にはそういう人間が集められていますし、みな本当の自分は別の所に隠している。私が記録係であるのと同じように。ならば、あなたの本当はどこにありますか?」
ルカは低い灰色の天井を仰いだ。薄ぼんやりとしたオレンジ色の光がなぜだかとても眩しく見えた。
「あーあ、これで終わりかぁ。結構、楽しかったっすよ」
記録係が反応するよりも速く、ルカは彼女の細い腰を引き寄せ、優しく口づける。記録係は目を見開いて硬直していた。これはきっとお別れの口づけ。もう二度と、会わないという誓いのしるしだ。これで最後になるなら、何か一つくらい奪ってもいいだろう、なんて。
壊れ物に触るような優しい手つきでルカは記録係の背中をなでる。ふっと華奢な女の身体から力が抜けた。
「あんたが記録係でさえなければ良かったのに」
呟いて、ルカは意識を失くした女を抱いて情報管理部を後にした。軽やかに長い黒髪を翻した青年の姿を見た者は誰もいない。不自然に小さく開いたままの扉だけが深夜の来訪者の存在を言葉無く物語っていた。
──その後、ライたちがルカとリュエルの失踪に気付いたのは夜が更ける時刻に近づいてからのことだった。
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