ep.036 息をしてる

 午前二時〇〇分、帝国領リンツェルンへの共和国の進攻が開始された。数ヶ月前の戦闘で鉄道は破壊されたため、歩兵の輸送は戦車で行われた。実戦投入されて日の浅い新型戦車は従来の戦車よりも速度が速く、帝国の予測よりも早い戦闘の開始となった。戦火は瞬く間に美しい港街を飲み込み、悲鳴は銃声と怒号の嵐に掻き消される。たすけて、と燃える身体を引きずって追い縋る人々を軍服の少女は無表情で見下ろした。帝国と共和国の兵士たちが駆け回り、蹂躙し、血みどろの争いをすぐ隣で繰り広げているのにも関わらず、赤茶の髪の少女はそんなものは一つも目に入っていないような顔をして足を進める。探しているのはただ一人、銀の髪と藍の瞳の青年だけなのだから。


「……ここにもいない」


 無意識にナタリアは呟いていた。本当にライはこんな場所にいるのだろうか。横を見ると、ちょうど初めてライに夕暮れの海を見せてもらった場所が銃撃によって脆く崩れて壊れていくところだった。見覚えのある景色が崩壊していく。さっき通り過ぎたアルバの家(?)はばらばらの材木の山と化して燃えていた。胸が虚ろになる心地がして、ナタリアは眉を寄せる。ただ知っている景色が死んでいくだけと分かっている。この痛みの理由をライなら知っているだろうか。


 彷徨い続けてナタリアは街の外れ、最後にライと別れた場所に辿り着く。戦火を背にし、ナタリアは暗く狭い坑道に足を踏み入れた。音を立てるなどというヘマはしない。いつも通り無音を引き連れたまま、今にも消えそうな電灯の下を駆ける。


「ナタリア、久しぶり」


 骨が転がっていてるのを見て足を止めたナタリアの目の前で、藍色の瞳がとろけるように微笑んだ。言葉を返さず、ナタリアは即座に地面を思い切り蹴った。転がってナタリアの鋭い蹴りを避けたライの手で拳銃が閃く。ナタリアは咄嗟に身体を反らし鼻先を掠めた銃弾をやり過ごした。間髪入れずにナタリアの拳銃が火を吹く。


 ──一発目。


 弾丸はライの脳天の代わりにその頬を浅く裂き、壁にのめり込む。じゃきりと音を立てたライの拳銃をナタリアの足が空気を切り裂くように彼方へと飛ばす。


 ──二発目。


 心臓へ向かって撃った二発目の弾丸はライのナイフで軌道が反らされ、その肩口を抉った。


「っ!」


 顔を一瞬しかめたライだったが、体勢を低くしてナタリアの懐に踏み込みに来る。反射的に跳躍したナタリアを通り越し、ライの手は飛ばされていた拳銃を掬い上げた。髪を結わえたリボンの端が動きを変えるよりも早く、銃口はナタリアの心臓の斜め上へと向けられる。


 ──三発目。


 まばたきをする時間だけ僅かに早く銃弾が飛ぶ。横に動いたライの足から血が噴き出した。苦痛に顔を歪める姿を無表情に見つめながら、ナタリアは手を一閃させる。ごとりとライの拳銃の銃身が半分になって落ちた。刃物を用いずに物体を切断する技、それは最後までライが習得することのできなかったものであり、アリアが得意とするものだ。しかし、ナタリアが実戦でこれを使うのは初めてだった。引き出したのは、紛れもなくライの強さ。ライが頬から流れ出た血を拭う。ナタリアは無言で懐に飛び込みながら引き金を引いた。


 ──四発目。


 壁に叩きつけられたライが血を吐き出す。どくどくと鮮血が腹部から流れ出し、血溜まりが広がっていく。ずるりとライは崩れ落ちた。座り込むような形で青年は動かない足をかばう。その藍色の瞳が琥珀の瞳を探し出して、なぜか笑んだ。


 その瞬間ナタリアは気づいてしまう。四度ものだということに。

 まだ生きている。まだ、息をしている。これは間違っている。

 唇を引き結び、ナタリアはライの額に銃口を突きつけた。


「これで終わりです」


「そう、みたい、だな」


 切れ切れにライは言う。それでも、ライの綺麗な瞳は微笑んだままだった。


「でも、君に会えて良かった」


 その優しい声の残響が消える前に、暗殺人形は引き金を引いた。

















































 火薬が弾ける独特の音は響かなかった。


「なぜ──!?」


 ナタリアの手が震える。ありえない。ガンマ最高の狙撃手が整備した拳銃だ。撃てないなんてことは起きるはずがない。


「わ、わたしは、暗殺人形です。あなたを殺します、任務は遂行しなければ──。なぜ、わたしはあなたを撃てないのですか? なぜ」


 手を鈍らせたのが心であるとまだナタリアには理解できない。そして、本当に五発目は不発弾だったことにすら気づけないのも心のせいだと理解できない。こころは暗殺人形には必要ないと、アリアに切り捨てられたものだから、そして空っぽのナタリアにはなかったものだから。


 静寂に拳銃が落ちる重い音が波紋を落とす。ナタリアはおもむろに冷えた手をライの首に伸ばした。ぎりぎりと、きりきりと、締めて締めて締めて締めてしめて。


 なのにどうして、ライの目は死んでくれないのだろう。どうしてライはまだ温かいのだろう。


「なぜ、ですか」


 吐き出すように呟いた。


「君は、どうしたい?」


 そう尋ねたのはライだったのか、それとも幻聴だったのか。けれど、ナタリアは首を振って答えを出すのを拒絶する。


「わたしは暗殺人形なのです。そうでなければならないのです。共和国の死神を殺すのがわたしの任務です。武器は何も考えません。何も感じません。思ってはいけないのです」


 ナタリアは自分が震えていることにさえ気づいていなかった。


「君は俺を殺したい?」


 はい、と口にしかけて言いさした。ずるい質問だ。だって、答えるには選ばなくてはいけない。自分の心に従って。エルシオの言葉の意味がやっと分かったような気がした。

 道を失くして途方に暮れる子どもさながらの怯えた顔で震える少女をライは引き寄せ、壊れ物に触れるように大切に抱きしめる。


「ナタリア」


 びくりと少女の肩が跳ねた。


「もう一度、聞くよ。君は俺を殺したい?」


 ナタリアはライの腕の中で沈黙する。答えられない。答えてしまったが最後、ナタリアは暗殺人形ではなくなってしまう。


「君が選ぶんだ。命令は君の全てじゃない。本当は分かっているんだろう? もう君は──」


「言わないでください。わたしは、他に生き方を知りません。命令を忠実に遂行し、任務に失敗すれば壊れることだけが、唯一わたしを定義するものです。命令を失えば、わたしはガラクタなのです」


 定義を述べるだけのことが今は息苦しい。本音ほんとうはそんなものではない、と気づき始めてしまったから、食いしばった歯の隙間から言葉を絞り出した。


「……わたしがどんどん知らないわたしになっていくのがこわいのです」


 ライが息を呑んだ。言ってしまってからナタリアは瞳を彷徨わせ、自分自身にも分からない何かを探す。ライの義手でない右手がそっとナタリアの頬に触れた。慎重に言葉を選んでライは言う。


「それが、君が君になるってことだから。君が変わろうとしているから、怖いんだ。君がガラクタになるわけじゃない。むしろ、きっと君はもっと綺麗になると思う。俺はそんな君を見てみたい」


 長いこと、二人は黙ったままでいた。ライの鼓動と息遣いだけがナタリアに聞こえる全てだった。

 暗殺人形は人ではないと教えられた。けれど、鼓動も呼吸もあるのなら、一体何が人と違うというのか。


「ライ」


 ふと呼んでみる。何、と返事はすぐにあった。


「……命令を捨てたわたしは、何のために息をすればいいのですか?」


「何のために、か。まだきちんとした答えは見つけていないんだ。それでも、戦争のない世界が見てみたい。それまでは生きていたい」


 藍色の瞳が輝く。きれいだ、とナタリアは思った。


「わたしにも、見れますか?」


「もちろん。君に見せたい」


 ライとならそんな世界を見てみたい、なんて思った自分は壊れているだろうか。口を開きかけて閉ざすことを繰り返し、やがてナタリアはエルシオの言葉を思い出す。


 ──心にだけは嘘をつくな。


 だから、掠れた声で口にする。


「あなたが見せてくれるのでしたら、わたしも見てみたいです。……わたしは、あなたを、殺したくない。それに、もっと、色々なことを知りたい」


 とびきりの笑顔を銀髪の青年は見せた。いつか自分もあんな風に笑ってみたい。一度望んでしまえば、望みは増えていく一方だ。こわくて、苦しくて、けれど不思議と寒くはない。胸の奥から湧き上がるこの衝動すべてを、こころと言うのだろう。

 はっ、と息がこぼれた。それはひとりの少女が吐き出した最初の呼吸。まだ、何も分からない無垢な赤子と同じだけれど、人形では決してない。


「ナタリア、ありがとう」


 ライの手から力が抜ける。血溜まりに倒れていく身体をナタリアは引き止めた。


「……ライ、ライ?」


 土気色の顔を見てナタリアは冷水を被ったような嫌な感覚に包まれる。血まみれの自分の両手が初めておそろしく思えた。このままライの心臓が動かなくなってしまったら、殺したのはナタリアだ。命令通りに殺したことになるのだ。

 ……けれどライのいる世界を選んだから──


「しなないで」


 ──そう、願った。

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