ep.035 賭け
ナタリアは琥珀色の硝子玉のような瞳で藍色の空を見ていた。冷たい風が身を切るが、ナタリアは何も感じていなかった。
「ナタリア、聞いたか?」
エルシオの声に振り返る。
「何を、ですか?」
無機質な人間味のない声で問う。
「また、いや、今度は大規模な戦闘がリンツェルンで行なわれるらしい」
「それがわたしと何の関係が?」
「たぶん、ライが来る。違うな、ライはそこできっとオマエを待ってる」
一瞬、けれどエルシオが認識できるだけには十分な時間、ナタリアの呼吸が止まった。ライがあれくらいで命を落とすとは思えなかったが、まだ息をして動いていてその上三度目の機会が得られるとは思わなかった。暗殺を二度、帝国最凶であるはずの暗殺人形が失敗した相手。そして死神という名が似合う綺麗な人。
ナタリアの意識はふと、一日前に戻っていた。
壁に叩きつけられ、ナタリアは受け身を取るのが精一杯だった。痛みは暗殺人形には痺れとして認識される。戦闘に支障が出るか否かが傷の判断基準だ。本当なら立ち止まって叫んでしまうような傷さえも暗殺人形を止めることはできない。
軋む身体を無理矢理亀裂の入った壁から引き剥がす。パラパラとコンクリートの白い破片が床に落ちた。目の前ではアリアがベールの下で嗤っていた。ナタリアに不条理な暴力を向けた彼女はなぜかとても愉しそうだった。
「また、殺せなかったのですか? また、手を抜いたのですか?」
自分の中に答えを探す。アリアは全てを見抜いていた。まだ一度もライを殺そうとしたことがない。そして、そのことに気がついてしまったナタリアは愕然とする。暗殺人形の自分が無意識に命令と矛盾した行動をとっていたなんて、壊れているとしか言えない。顔に手を当てる。自分が今無表情でいられているかどうかさえもはや分からなかった。壊れたライももしかしたら今のナタリアと同じように──。そこまで考えかけ、ぶちりと思考を断ち切った。
「……」
「怒っているのではありません。空っぽの貴女が不合理な行動をしたことに私はとても興味を持ちました。けれど、その頭蓋に刻みなさい。命令を遂行することのできなくなった貴女は、ガラクタ同然だということを」
アリアはナタリアの頭を優しく撫でる。ライの温かい手とは真逆のひどく冷たい指先が、陶磁器のようなナタリアの頬を滑って離れた。ナタリアはアリアの言葉に微かに肩を震わせる。暗殺人形と自らを定義してきたナタリアにとって、それ以外の何かになるのは受け入れ難いことだった。
「……わかっています」
そう口にしただけなのに、身を切るような鋭い痛みが身体を走った。
ゆっくりとまばたきをしてエルシオに意識を引き戻す。エルシオの翠色の瞳は何もかもを見透かしたようにナタリアを静かに見つめている。アリアに言われたことさえもどこか勘付いているのかもしれない。妙な所でとても聡いエルシオだから。
「……これが最後の機会です。今度こそわたしはライを殺してみせます。ですから、あなたがわたしに構う必要もありません」
踵を返して即座に街に移動しようとしたナタリアをエルシオが遮った。
「別に邪魔しに来たわけじゃない。拳銃を貸してくれ」
訳がわからないままナタリアは愛用の拳銃を手渡す。武器を簡単に手放すなど無防備な、と普通は考えるだろうが、暗殺人形に限ってそれはない。そもそもナタリアが一番得意とするのは徒手空拳による戦闘だ。
「何か……?」
「少し、歪んでんな。直しとく」
拳銃なんて撃てればいいからナタリアにはわからないが、狙撃手のエルシオにはほんのわずかなズレであっても見つけることができるのだろう。
「──装填できるのは五発。しかも、これは弾倉を簡単に入れ替えることのできる種類じゃねえから、撃てるのは五発だけ」
間を開けずに戻ってきたエルシオは確認を取るようにそう言って、ナタリアの手に拳銃を載せた。ズシリといつも通りの重みが心地よく手に伝わってくる。
「はい、ですが十分です。五発以内に仕留められなかったことはありません。そして、ライであってもそれは同じです」
今までライと交わした戦闘でナタリアは、認めたくないことではあるが、ライの心臓やこめかみといった急所を狙って撃たなかった。けれど、もう次はない。もう終わらせる。
「ああ、オマエよりも強いのはアリア様だけだ。オマエが負けるとは思わない。だけど、その先は選択だ」
「どういう、ことですか」
「きっとオマエは選ばなくちゃいけない、そうなる時が来るってこと。オレはオマエがどんな選択をしようがそれを尊重する。だが、一つだけ」
エルシオの手がポンとナタリアの肩に載った。みじろぎ一つしないナタリアにエルシオはいつになく真剣に言う。
「心にだけは嘘をつくな」
「こころ……」
そっと胸に手を当てる。
心はどこにあるのだろう。いつだって冷静な判断を邪魔する奇怪なもの。見えもしないし、触れもしない。けれど、確かにあるのだと人を見ていると思うのだ。……そして暗殺人形には、ないはずのものだった。
「理解できません。わたしは暗殺人形ですから」
眉を下げ、エルシオは微笑む。
「オマエはたぶんもう違う」
「そんなはずは──」
途中で言葉が途切れて消えた。否定し切らなければならないのに、声が出ない。拳を握り締め、ナタリアはエルシオに背を向けた。
「……わたしは暗殺人形、ナタリア・イネインです。命令を最後まで忠実に遂行します。わたしはそれだけの存在です。そしてそれだけがわたしの存在意義です」
まるで己に言い聞かせるように呟く。星は弱く瞬き、冷たい風は静かに赤茶の髪を揺らしている。天使のように美しい少女は宵闇に身体を踊らせた。
残されたエルシオはふっと息をついた。
これは賭けだ。しかし、勝算は十分。ナタリアが暗殺人形のままなら叶わないだろうが、もうとっくに彼女は壊れ始めている。
「コイツは貸しだぜ、ライ」
遠くにいる壊れた暗殺人形に向かってエルシオは届かないと知りながら口にした。
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