ep.031 魔弾の射手

 ぴちゃんぴちゃん、と水の滴り落ちる音が反響する。鎖錠されていた戸を開いて進んでいけば、暗く冷たい錆びついたセメントの通路が続く。古ぼけた剥き出しの電球が薄ぼんやりと道を照らし出していた。


「もう随分と人は来ていないようね」


 エルザの声がふわんと響く。

 ナタリアは電球を結ぶコードにそっと触れた。袖から出した薄いナイフで切れ込みを入れておく。いつでも全ての光源を潰せるように。入り口は開けたままだから、いつでも帝国兵は突入できることだろう。動く合図だけがまだない。

 コードから手を離した時、刺すような視線を感じた。ナタリアは硝子玉のような瞳を視線の主に向ける。金髪の青年の青いはずの瞳の奥に紅色を見た気がした。


「……っ!」


 乾いた音が空気を揺らし、リュエルが悲鳴を噛み殺す。


「骨……っすか?」


 怪訝な顔をしてルカはしゃがみ込むと、そっと白いものに触れた。ひしゃげたソレは明らかに人間の頭蓋骨だった。


「まだある」


 ライの声でさえも微かに震えた。うず高く積み上げられた骨、骨、骨。髑髏たちは空虚な顔を青白い光に晒していた。ひび割れた床に散らばる数々の鉄器はおそらくここに眠る人々を壊してきたものなのだろう。四肢をもぎ、切り裂き、けれど生かしたまま。散らばる骨に刻まれているのはそういう傷だった。


「実験場っつーわけか」


 骨の山の向こうでアルバは皮肉げに口にした。開け放たれたまま、長い時が経った小部屋には資料とデータが雪崩を起こしていた。端の机に座ったままの骸骨はその主人であることには間違いない。


「殺されたみたいね、この人。……因果応報なのかどうかは、私たちには語る資格はないけれど」


 アルバは微かに頷いた。


「──数えきれないほどの人体実験を共和国はしてきた、そのことの証明ですね」


 ふとリュエルが呟く。


「紙を集めてくれますか? すべて、私が記憶します。後で、解析しましょう」


 言いながら、既にリュエルの意識は資料の記憶へと費やされていた。渡される紙をたたった一瞬眺めて次の紙を取っていく。恐ろしいまでの速さでリュエルは文字通り全てを脳内に叩き込んでいた。


「……終わりました」


 疲れ切ったリュエルの声で、誰かが詰めていた息を吐き出した。


「早く帰りましょーよ。こんな薄暗くてジメジメした所に長居はしたくないっす」


 言い終わりもしない内にルカは既に部屋を後にしていた。もちろん居座りたくないのは皆同じで、続いて部屋を出て行く。死んだ誰かを永遠に置き去りにして。


 電球が明滅する。そして、ぷつんと全ての光源が消えた。闇の中に取り込まれ、何もかもが黒に溶ける。ナタリアはただ、袖のナイフを引き抜き、ライの首を狙う。耳障りな金属音が奏でられた。


「……ナタリア」


 同じようにナイフで攻撃を防いだライの姿にナタリアは眉を顰める。


「気づいていたのですね」


 無機質な声が取るのは確認だった。


「ああ、仕掛けるなら今だ。俺ならそうする」


「二人とも避けろッ!」


 期せずしてアルバが動く。ルカとリュエルを真横へ突き飛ばすと、銃弾が地面に穴を穿った音が響いた。


「う、後ろ!?」


「──違う、前っす。音は二度聞こえた。しかも、一回目は軽い。真っ暗闇で銃を撃って、しかも跳弾まで操るなんていう芸当をやってのけるふざけた野郎はたった一人しかいないっす。そうだろう! 魔弾の射手っ!」


 ルカの叫びが霧散するその前に、ぱちんと光が世界に戻る。そしてルカが口にした通り目の前に黒い軍服を着た青年が降り立った。


「ご名答。良い耳だな、えーっと、美少女くん、ちゃん? そういうシュミなら止めないんだが、目が死んでんのがなー」


 立ち上がったルカが顔色を豹変させる。


「……コレは、ボクの趣味じゃないっすっ! イかれた解釈しやがって、ふざんけなっす!」


 思いがけない剣幕にリュエルも驚いて目を瞬いているというのに、赤髪の青年はどこ吹く風とばかりに首にかけたゴーグルをいじっていた。


「ナタリア、おいで」


「はい」


 呼びかけられ、ナタリアはライと交えていたナイフを下ろした。振り返らずにエルシオの隣へ向かう袖にライは手を伸ばしかけた。けれど、指先が掠める前にナタリアは一歩先へ歩いていた。


「久しぶりだな、ライ」


 ライが焦茶の髪を引っ張ると、銀色の髪がさらりとこぼれた。この目立つ髪ももう隠す必要はない。


「エルシオ」


 赤髪の青年の名を呼ぶ。そのたった一言には色々な思いが詰まっていて、かつてのようながらんどうの言葉ではなかった。エルシオは険しい表情のライをまじまじと見つめ、驚いた顔をした。


「……変わったな、オマエ」


 もう人形じゃないんだな、という呟きを隣にいたナタリアだけが聞いていた。ナタリアには、言葉に込められた感慨までは理解できなかったけれど。


「何が、目的だ?」


 ハッ、とエルシオはライの問いを鼻で笑う。


「ホントはわかってんだろ。オレたちはオマエらを生きて帰すつもりはない。当然、ノコノコと首引っ提げて罠に飛び込む鴨がいたら撃つだろ」


 ライの手に拳銃が現れた。虚空から出てきたかのような滑らかな動きに合わせて、ナタリアもまた即座に拳銃を握る。


「ナタリア、ほっとけ。オレたちの役目は終わった」


 エルシオはくるりとライたちに背を向け、通路へと去っていく。ナタリアは無意識に立ち去る前にライを見ていた。これで最後になるのなら──。


 無理矢理視線を引き剥がす。後ろへ残す思いなど、暗殺人形には要らないのだ。


 ***


「楽しかったか? ライといるの」


 ナタリアは紺青の空を見上げ、それからエルシオの顔を見た。瞬きをひとつ、そして首を傾げる。


「たのしかった? 理解不能です。わたしには心はありません。ですから、わたしに感情を尋ねるのは無駄な行為です。わたしには、そのようなものは必要ありません。わたしは暗殺人形です」


 言葉を重ねすぎたことにナタリアは気づかない。エルシオはフッと唇を緩めた。


「そっか」


「エルシオ大尉は、なぜ殺さなかったのですか? あの奇襲は跳弾させなければ、確実に三人は殺せたはずです」


 少し不機嫌そうにエルシオは返事をする。


「別にオレが受けた命令は直接脳髄吹き飛ばせってやつじゃねぇし。だったらそれでいいだろ」


「ガンマらしくない思考です」


 エルシオの顔から表情が抜け落ちた。しかし、次には酷薄な笑みが現れて全てを覆い隠す。


「オレはアイツらに利用価値を見た。なら、取っておくのが筋だろ?」


「包囲させ、退路を断って良かったのですか?」


「それで死んだらそれまでさ。それなら、アイツらはオレの求めるレベルに達していなかった、というだけだからな」


 そうですか、とナタリアは呟く。エルシオの考えはまるで分からなかった。そもそも、暗殺人形に人の心が理解できるわけもない。それで、良いのだ。それで。

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