ep.028 蠱毒の夜

「帰ろう」


 エヴァンはぽつりとそう言った。ルイスは頷き、最後に崩れ落ちている死体を眺める。痕跡も残らないように仲間が処理してくれるだろう。

 死んだ街を黙々と歩く。微かに響くのは一人分の足音のみ。隣を歩くエヴァンの足音は聞こえない。どう歩けば音がしないのかは知らないが、少しだけ不気味に思えた。

 エヴァンが率いる反逆軍は拠点をいくつか持っており、エヴァンは意識的に人員を分散させている。もちろんその意図は全滅を避けるためだ。帝国に喧嘩を売るということはつまり、攻められることもあるということ。その際に後退可能な拠点をいくつか用意しておくのも、戦の定石セオリーだ。

 今、エヴァンが戻ろうとしているのは、ソフィリア内の二つ目の拠点、小さな酒場に偽装した場所である。軍に潜り込んでいる協力者に定期連絡を取る時にエヴァンはそこに訪れる。ルイスはそれが誰なのか知らないが、知らない方がきっといいのだろう。


 エヴァンの足が止まった。


「どう──」


 尋ねる前に鼻腔が匂いを捕まえる。ぬるりとした生温い空気が漂っている。全身が怖気立つ、血の匂い。拠点は目の前だ。どこからやって来たのかは明らかだった。


「……くそっ」


 エヴァンが毒付く。


「ルイス、逃げろ。奴らが来た」


 夜に紛れ、命を刈る。それは、存在しない、帝国軍の第三位組織。

 曰く、彼らは死そのものだ、と。

 曰く、彼らの獲物になれば存在ごと消えて無くなる、と。

 そう、地獄で笑う処刑人たちを擁する組織の名をガンマという。


「待てよ、“王様”。死にに行くつもりか!?」


 ルイスは赤髪の少年の腕を掴む。ここで死なれては困る。彼がいなくなるということは、希望が潰えることを意味するのだから。


「なら、俺が──」


 言いかけたルイスをエヴァンは腕をするりと解いて制した。すっと伸ばされた手にルイスは喉元まで出かかっていた言葉が風化して消えていく。


「大丈夫だ。臣下を棄てて、死んだりしない。僕はそのために行くんだ」


 冷めた翠の瞳の奥で光が揺れる。決意を秘めたその目に逆らうことはできない。ルイスが諦めたことを確認すると、監視されている可能があるから夜明けまで周辺で身を潜めろ、とだけ指示してエヴァンは歩き出した。赤髪の少年王の背中は毅然としていて、負けるものなど何一つ無いと信じさせてくれる。──そう思えるように、彼は歩いてくれているのだろう。



 エヴァンは光が落ちた酒場の扉に手を掛ける前に、一度足を止めた。ルイスの姿は闇に溶けた。それを確かめるのが一つ。そして、己の覚悟を確かめるのが二つ。最後に小刻みに震える拳に力を込めて、恐怖を殺した。

 戸を押す。真っ暗闇がポッカリと口を開く。血の匂いが急に強くなり、むせ返りそうだった。


「今夜は良い夜ですね。月が死んで星はその死を嘆く、ひと月に一度の沈黙の夜。──貴方もそう思いませんか?」


 冷え冷えとした玲瓏な声が近づいてくる。女が一歩踏み出すごとにする水音は、見なくても血溜まりを踏み締める音だと分かる。女とエヴァン以外に息をしている者はいないことも。歯を食いしばって身体に力を入れていなければ、悲鳴でも上げて逃げ出してしまいそうだ。もっとも、そんなことをすれば、彼女は容易くエヴァンの命を刈り取るだろう。そしてエヴァンは殺されたことすら認識できないままで。


「久しぶりですね。エヴァン・リーゼンバーグ」


 黒衣に身を包み、顔を黒のベールで隠した女は微笑んだ。


「……お久しぶりです。兄さんは元気ですか?」


 出たのは固い声だった。だが、震えて掠れはしなかったことに僅かながら安堵する。目の端で黒衣の女が武器を持っていないかどうか確認する。この出血量と首の深い切り傷を見れば、臣下たちの死因は頸動脈を切られたことだろうと、容易に推測できる。が、女の手には鋭利な刃物の姿は無く、異様に白い手が黒衣の袖から覗いているだけだった。


「ええ。エルシオはきちんと働いてくれていますよ。共和国の皆さんには、《魔弾の射手デア・フライシュッツ》なんて呼ばれているみたいです」


 女は愉しそうに、唄うようにそう言った。ベールの下の瞳がすうっとエヴァンの翠色を覗き込む。ぞくりと背筋が凍る。今はまだ、アリアがエヴァンに興味を持っているから殺されていないだけ。興味を失くしてしまえば、同時に命まで失うことになる。


「貴方の呼称は《茨の王スピーナレクス》。臣下たちは貴方を王と仰ぐのでしょう? なればこそ、この名は貴方に相応しい」


 エヴァンは薄く嗤った。


「ええ、その通りです」


 いばらは罪の象徴。それは死してなお付き纏う罪科を背負うことへの覚悟。そして、それは既に犯した罪の証。


「──三七九人。たった三日間で貴方たちが殺した我が軍の軍人の数です。しかも、その内十名は高級士官。ベータとガンマの目を掻い潜り計画的に実行された犯行は鮮やかで、私も震えが止まりませんでした。まさか、その犯人が十代の少年二人のみであったなんて……」


 アリアは艶かしく恍惚のため息を吐く。


 七年前、階級が高く、軍を多少なりとも動かすことのできる者は、正確無比の狙撃によってその脳天を吹き飛ばされた。大半は散布された猛毒によって眠るように死んでいった。その有り様は、まるで冥府が口を開けて人間を呑み込んだかのようで。


治安局ベータ私たちガンマから三日間、逃げ続けながらの犯行は見事でした。治安局と競っていました、どちらが先に貴方たちを捕らえることができるのかを」


 私たちの方が早かったのですよ、とアリアはくすりと笑ってそう言った。


「ともかく、五体満足の貴方の姿が見れて安心しました」


 なぜ、と呟く。エヴァンにアリアが興味を持つ理由がやはりよく分からない。七年前の事件が根底にあったとして、だがそれは過去でしかない。この女は自分に何を求めているのだろうか。七年前に捕らえられたあの日、なぜ自分たちを殺さなかったのか。


 くつくつという音が聞こえた。それは黒衣の女が嗤う声。ベールの下の目はエヴァンの翠の瞳を見透かしているようだった。


「──復讐を、するのでしょう? 貴方たちから全てを奪った帝国わたしたちに」


 そこまで分かっていながら、なぜ愉快そうに嗤うのか。


「私を愉しませてください。その酔狂な復讐を、命懸けで。私は貴方を面白い駒だと思った。殺さない理由は、ただそれだけ。もっとも、これからも生き残れるのなら、ですが」


 ──狂っている。

 目の前で肩を艶めかしく震わせる女は、間違いなく狂っている。だが、この狂った女が遊戯盤の差し手であるのもまた間違いではない。


「戦争は終わりません。いえ、終わらせません。ですから、遠慮なく帝国を討ちにきなさい。そうでなければ、この戦争は終わらないでしょうから」


「──楽園とやらは、目指さないのですか?」


 この戦争の目的は、ここではないどこかを目指すことだったはずだ。しかし、アリアの言葉からは戦争をしたいという狂気しか読み取れない。


「楽園、そんなものがあると思って?」


 エヴァンの口はその問いの答えを紡ぐことができなかった。元より答えを持ち合わせてもいない。全部失くしたエヴァンの身体が動くのは、煮えたぎるような憎悪で駆動しているからだ。

 帝国を倒したら、倒したらその後は──? そのまま燃え尽きて灰のように崩れ消えるのだろうか。それでも構わない。だって帝国を終わらせた後の未来なんて、要らないし、望めない。

 まして、誰もが幸せになれる世界なんて、描けない。


「ええ、ええ。貴方にその幻想ゆめは抱けない。誰もが優しく在れる世界など、ありはしない」


 アリアの冷たい手がエヴァンの頰を撫ぜる。十歩も離れていたのに、距離を詰められたのは刹那のこと。


「どんなに豊かでも、どんなに幸福でも、どんなに仁政を敷いても、争いは無くならない。何故、何故、何故?」


 鳥がさえずるように、女はエヴァンの耳元で囁く。


「何故なら人は争うことでしか、殺し合うことでしか生きられない醜悪な化け物だから」


 硬直して動けないエヴァンを追い越して、アリアは血溜まりを踏み付けていく。響く音の感覚はあまりにも鮮烈だった。真実それは、エヴァン自身が築き上げてきた屍の山を踏み付けて立ったこの場所と同じだ。救いさえ無いほどに、重ねた罪はエヴァンの身体を丹念に縛り付ける。


「理想すらも望めないこの場所は、罪の楽園ディストピアとでも呼ぶのでしょうか」


 月の無い空を見上げて、アリアは呟く。


「──貴方がここまでやって来る日を待っています」


 奈落で女は嗤う。帝国は彼女の蠱毒だ。帝国の闇を統べるアリアにとってはエヴァンも互いに噛みつきながら蠢く蟲の一匹にすぎないのだろう。しかし、それならば全て喰らい尽くすだけだ。決して、立ち止まる理由にはなり得ない。


「待て──」


 アリアを追って外に出ると、夜の女王の姿はもうなかった。夜のとばりに落ちる静寂に包まれ、先程まで殺していた恐怖が蘇ってきた。動悸が早く、呼吸が浅くなる。胃から迫り上がって来るものを吐き出してしまわないよう、拳を握りしめて耐える。今自分は真っ青な顔をしているのだろう、そう考えると、暗闇の中に一人で良かったと思った。ガンマの総帥の黒衣が目の裏から離れず、震えが止まらない。哄笑の残響がうるさい。


「……僕は」


 このまま進んでしまったら、いずれあんな怪物になるのだろうか。

 幾度もの覚悟を刻んだ。

 幾度も仲間を見捨てた。

 幾度も人を殺めた。

 それでもまだ、怪物に堕ち切るのが怖いというのか。


 衝撃が頭を殴りつけた。エヴァンの身体は彼方からの攻撃になす術も無く崩れ落ちていく。揺さぶられた脳が意識を手放そうとする。


 くそ、まだ、僕は、戦わなきゃいけないのに──


 新月の闇夜に身体ごと呑まれていく。ぬるりとした気持ちの悪いものが目に入って、視界が漆黒に閉ざされた。


「に、いさん……」




 ふ、と詰めていた息を黒い軍服を纏う青年は吐き出した。標的ターゲットは遠く、通常の人間なら夜目も効かず、そもそもまともに認識できない距離。


「よく躊躇いなく撃てるものですね。貴方の大切な弟でしょうに」


 嘲るような声音で、女は赤髪と鋭い翠の瞳を持つ青年に言葉を投げた。


「躊躇えば外す、それだけです」


 エルシオは無造作にゴーグルをむしり取る。先程まで鮮明に視えていた街は、深い黒に沈んで見える。


「ソレの調子はどうですか? せっかくの試し撃ちですから、遠慮なく要望は言ってくださいね」


「暗視ゴーグル、とやらは申し分ない性能です。とても、よく視えました。ところで、これは直接軍に支給はしないのですか?」


 女の唇がつり上がった。骨の奥まで凍りつかんばかりの凶悪な、しかしどこまでも美しい笑みだった。


「しません。あまりにも進んでしまった武器で自らを滅ぼしては、喜劇にもなり得ないほどにつまらないでしょう?」


「……そういうものですか」


 ええ、と満足げに頷くと、黒衣の女は姿を消した。エルシオはどっと噴き出した冷たい汗を拭い、狙撃銃を担ぐ。闇の中で倒れたエヴァンには僅かたりとも注意を払わずに、冷徹な顔の青年もまた夜の中に溶けて消えた。

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