ep.026 雛鳥

「ナタリアさん、足はもう大丈夫なんですか?」


 下ろしたての共和国軍の軍服を着たナタリアにリュエルは尋ねる。棚に綴じられた紙束を淀みない動作で差していく作業。ナタリアもリュエルもスピードを落とすことはない。保管室に資料の仕分けをライに命じられ、二人でこの息の詰まりそうな、背の高い棚に囲まれた空間にいるのだった。


「はい。傷の治りは早いものですから」


「冷静なエルザ中尉が卒倒しそうになっていたのは、そういうことだったんですね。やっと分かりました!」


 リュエルは水色の瞳を丸くしてそう言った。きらきらとした瞳がナタリアには少しだけ眩しくて、まばたきをする。


「これで終わりーっと」


 とたぱた、と音を立てて立ち並んだ棚の向こうにリュエルが消えていく。迷いなく、探すことなく彼女は書類の指定箇所に向かう。


「……全て、覚えているのですか?」


 戻ってきたリュエルにナタリアは問いかけた。ぱちんと音がして、電灯の橙色の光が瞬いてふっと消える。鋼鉄の扉をナタリアが押し開け、リュエルは礼を言った。


「──ありがとうございます。どうして気づいたんですか? 私が配置を覚えていることに」


「あなたの動作には迷いがありませんでした。あの場所にある棚と何千とある項目を完全に覚えることは、わたしにもかなりの時間を要すると思われます。誰にでもできるものなのでしょうか?」


 暗い茶色の髪と水色の瞳、それから光を弾く銀色の縁の眼鏡。琥珀の瞳で彼女の顔をじっと見つめる。暗殺人形を超えた能力を持つ人間はたくさんいるのだろうか。リュエルはまばたきもせずに自分を観察する視線がくすぐったくなって、照れ笑いと一緒に目を逸らす。


「えっと、私の特技がものを記憶することだから、たぶん覚えられる人はほとんどいないと思います」


「そうなのですね。では、リュエル少尉はどのくらいの量をどのくらいの時間で覚えることができるのですか?」


 ナタリアはさらに訊いてみる。暗殺人形にできないことを、もう少し知りたくなった。


「そうですね……。私の記憶能力は映像記憶能力というもので、あらゆることを映像として記憶します。なので、全てを一瞬で、という言い方が正しいのかも」


「全てを一瞬……」


 思わずナタリアはその言葉を繰り返していた。


「それは──」


 何かを口にしようとして、肝心の言葉が見つからない。音の出ないままの唇を引き結び、俯く。


「すみません。わたしには、あなたにどういう言葉を掛けたいのか、わかりません。……あなたの能力が“きれい”、と言いたかったのです」


 リュエルの軍靴が止まる。ナタリアの足もその動きに合わせて止まった。


「意外で、目を大きくする感じ、って分かりますか?」


 ナタリアは首を傾げた。


「それが“驚く”っていう感情です。たぶん、ナタリアさんは私の能力に驚いて、何かを言いたかったんだと思います」


 照れ臭そうに眼鏡を押し上げ、半分顔を隠すようにしてリュエルは言う。


「たぶん、“すごい”って。私が自分で言うのも何ですけどね」


「……“すごい”。リュエル少尉は“すごい”です」


 ナタリアは教わった言葉を慎重に声に出し、借り物のような発音をする。その言葉が自分のものにならなくても、少しだけふわりとした気分になった。


「リュエル少尉は、色々なことを知っているのですね」


 虚を突かれたようにリュエルが目を見開く。はにかんだ微笑みを浮かべると、リュエルは踊り出しそうな足を抑えて歩き出す。


「嬉しいです、そう言ってもらえると。でも、私以外のみなさんもすごいんですよ」


 ライ少佐はとても強いこと、アルバ大尉の動きに気づくことはライにもできないこと、エルザ中尉の医術の腕は死神さえもぶっ飛ばすこと、ルカ准尉はどれだけ小さな音でも聞き逃さないこと。

 死神をぶっ飛ばす、とはどういうことか分からないけれど、ライがぶっ飛ばされる所を想像してみる。きっと、たぶん、そういうことなのだろう。


 朝の澄み切った青天のような瞳は、仲間の話をしている時はずっときらきらしていた。ライたちがリュエルにとっては“すごい”なのだ。だが、特にライについて語る時の彼女の瞳には、朝の空というよりも夕焼けみたいな温度があった。


「リュエル少尉は、ライのことが“すき”なのですか?」


 ふと、聞きかじった言葉を呟く。意味が分からなかったから。リュエルなら答えてくれるのかもしれない。


「は、はぅ!? ど、ど、ど、ど、ど、どうして、それをっ!?」


 ぷすぷすとリュエルの顔が沸騰して、壊れたような、なんだかおかしな動きをし始める。


「アルバ大尉が言っているのを耳にしました。よくわからなかったので、違うのかもしれませんが」


 よくわからなかった、という言葉を聞いてリュエルは胸を撫で下ろす。しかし、少しだけ眉を下げて、寂しそうにナタリアから目を逸らした。


「……私の気持ちは、少佐には言わないでください。きっと、少佐を困らせてしまうから」


 ナタリアの求めていた答えとは違ったけれど、“悲しい”顔をするリュエルにとってはとても大切なことなのだ、と認識する。


「了解です。あなたの“すき”は機密情報だと理解しました」


 ナタリアは敬礼した。リュエルは困ったように笑って、


「うん、お願い」


 と、そう答えた。


「あ、センパイいたっす!」


 突然、黒髪の少年が廊下の奥からひょっこりと顔を出した。ナタリアの方をちらりと視線が通り過ぎ、リュエルの隣でルカは立ち止まる。遅れて躍った長い黒髪はナタリアには当たらなかった。


「隊長が呼んでるっすよ。ナタリアさんも」


 それだけ言うと、ルカはボーッとしているリュエルの背中を押して歩き出した。


「ちょっ、ちょっと!? ルカ、ナタリアさんに失礼だよ。ナタリアさんだって、私たちの仲間なんだから」


 ナタリアには届かないようにリュエルは背後のルカに小声で注意をする。


「隊長たちはナタリアさんの正体を知っているみたいっすけど、ボクらは知らないっす。隊長たちは何かを隠してるっす。──でも、ボクの予想が当たっているのだとしたら、ナタリアさんは帝国軍の《死天使ヘルエンジェル》っす」


 低い声でルカは言うと、頭を大きく動かさないわずかな動作で、少し離れた後ろを無表情で歩くナタリアを一瞥いちべつする。


 人として異常なほどに整った顔と形、何の感情も映すことのない静まり返った琥珀の瞳、そしてさらさらとした赤茶の髪。あまりにも完璧すぎて、本当に息をしているのかも分からなくなる。そう、彼女は人形のようだった。とびきり綺麗な天使の人形──。


「ボクには、ナタリアさんが信用できないっす」


「──どうしてそんな、ナタリアさんは悪い子じゃないよ?」


 まだ納得がいかないリュエルは怪訝にルカに聞き返す。廊下の静けさは二人には気にならない。二人分軍靴の音が小声で交わされる言葉を隠していた。


「そういうとこっすよ、センパイ。センパイは生まれたばっかのひなみたいに人をホイホイ信用する。でも、ここはそういう場所じゃないっす。もう少し用心しないとダメっすよ」


「私が考えなしのあんぽんたんみたいじゃない……」


 ルカがククッと笑い声をもらす。


「──だからそう言ってるんすよ?」


「もうー!」


 ぽかぽかとルカの肩をリュエルは叩く。その顔がどことなく笑っているようで、離れた所でナタリアはまばたきをした。

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