ep.025 特殊諜報部隊

 「入るわよ」


 こんこん、というくぐもったノック音とほぼ同時に白い扉が横にスッと動いた。金髪というには色の暗い髪をした女は軍靴の音を微かに立てて、ナタリアと意識のないライの側までやって来る。ナタリアには辛うじて軍服の白と紺だけが見て取れた。


「……無理をするなとあれだけ言ったのに、困った患者ね」


「それよりも、フッ、どうやら俺はセクハラ現場を目撃してしまったようだな……。ライを軍警に突き出し……くそ、羨まし──ッ!?」


 鈍い音が聞こえた。この音だと、すね辺りを思い切り蹴られたのだろうか。沈黙のまま悶える気配がした。


「本音が漏れているようね? それと、言っておくけれど、ライにもナタリアにもセクハラという概念は存在してないと思うわ」


 女はナタリアの名を知っている。ナタリアは彼女を敵と認識しようとしたが、ライに対する親しみのある言葉遣いと、もう一人の声がアルバであることを理解し、認識を変えた。女はおそらくライの、特殊部隊の隊員なのだろう。ライの身体を持ち上げるようアルバに女が言う。アルバは、この年になって男をお姫様抱っこかよ、とかよく分からないことをボヤきながら、手慣れた動きでライをひょいと抱えて隣に寝かせた。


「大丈夫? ナタリア」


 女はライの下敷きになって潰されていたナタリアに白手袋をはめた手を伸ばす。ナタリアはその手を取らず、起き上がった。手を拒んでも女が気を悪くした様子はなかったが、立ちあがろうとすると笑顔の凄みが増し、彼女に軽く手を乗せられた肩が動かなくなる。


「患者は絶対安静よ? 身体は大事にしないといけないわ」


「……わかりました」


 ナタリアは立ち上がることを断念する。女の笑顔に温度が戻ったことになぜだか胸の辺りが楽になった。


「ライから話は聞いているわ。ようこそ、共和国軍、特殊諜報部隊へ。私はエルザ・レーゲンシュタット中尉です。それで、こちらの色ボケ頭は──」


「──アルバ・カストル。階級は大尉だ。改めて、よろしくな、ナタリアちゃん」


 眩しい金髪の青年はニヤッと笑って手を突き出す。ナタリアは首を傾げる。口元にかかっていた赤茶の髪が滑り落ちた。


「この手を、わたしはどうすればいいのですか?」


 右手を差し出したまま、アルバは反対の手で髪をくしゃりとやる。この顔は、困っている顔だろうか。琥珀の瞳でしばらく彼の空色の瞳が開くのを待つ。


「……そっか、んじゃ、俺の手を右手で軽く握ってみろ」


 言われた通りにそっと右手で差し出された手を握る。潰してはいけないようだから、そうっと。アルバは満足そうにさっきと同じニヤッとした笑みを見せた。


「これが握手ってやつだ」


「これが握手……」


 異質な温もりの残る手を見つめて呟く。


「名前と行為の意味は理解していたつもりですが、不思議なものですね。なぜこのような手を触れ合わせるだけの行為が、重要視されるのか理解ができません」


 複雑そうな表情をアルバとエルザが浮かべるのを見て、ナタリアは口をつぐんだ。今の言葉は適切ではなかったようだった。ナタリアは空っぽの瞳を伏せる。人と関わるのは苦手だ。人は複雑すぎて人形には理解ができないものだから。


「お前ら見てんだろー。隠れてないで出てこいよ」


 不意に、硬直した空気を変えようとしたのか、アルバが扉に向かって声をかけた。確かにナタリアもチラチラと扉の小さな窓からの視線を感じていた。エルザは扉を滑らせる。寄りかかっていたらしく、突然支えがなくなった軍服の二人がどさどさと白い床に転がった。


「うーんと、め、メガネ……」


 深い茶色の髪を肩で切り揃えた若い女は、倒れたまま、飛んでいった銀縁の眼鏡をペタペタと探し始める。


「イテテ……、中尉ひどいっすよ。ボクら邪魔しないように外にいたんっすよ?」


 頭を押さえながらエルザを見上げ、長い黒髪を後ろの低い位置で束ねた少年は口を尖らせた。


「ちなみに、どこから見ていたのかしら?」


 悩むまでもなく、少年は立ち上がりつつ即答する。


「最初からっす! 正確には、中尉と大尉が入っていく所からで、隊長がなんか女の子を押し倒したとかなんとかかんとか……」


「少佐、女の子、お、お、おおおお……!?」


 眼鏡をかけ直していた女、というよりはまだ少女に近い彼女は、真っ赤になって意味の読み取れない声を発した。少年は、意識が遠のきかけて後ろにひっくり返りそうな女の手を捕まえる。


「センパイ、大丈夫っすか? あれ、おかしーなー。そろそろ落ち着いたと思ったんすけどね」


「明らかにあなたのせいでしょう……」


 エルザの呆れが混じった声が微かに響く。ガンマでは見ない、人の交流だった。こんな人間たちとライは過ごしてきたのだ、とナタリアは賑やかな隊員たちを眺めていた。なぜ彼らが言う必要の無いことを口にして多くの表情を見せるのか、ナタリアには分からない。


 ここには分からないことがたくさんある。


 それが、ライがここにナタリアを連れてきた理由なのかもしれなかった。


「──あ、そうっす! 新しく隊に入った美少女に挨拶しないとっす」


 黒髪の少年はぐるりと部屋を見渡し、やがてナタリアと目が会う。一瞬目を大きく見張り、少年はナタリアの前に立った。少し遅れて銀縁眼鏡の女もドタバタと目の前に並ぶ。


「特殊諜報部隊所属、ルカ・エンデ准尉っす。……あんまり背は高くないっすけど、二十っす。センパイって呼んでくれてもイイっすよ!」


「わ、私は、リュエル・ミレットです! えっと、一応少尉です!」


 階級が全員高いのは、彼らが特殊部隊の隊員だからだろう。ガンマでも、多くは尉官以上だ。通常の軍組織からは外れた位置付けであるため、高い階級である方が何かと便利である上、その特殊性を示している。どちらかと言えば、称号のようなものだった。


 にかっと笑うルカと落ち着きのないリュエルに向かってナタリアは口を開く。


「立ち上がって名乗ることができないのをお許しください。わたしは、帝国軍所属、ナタリア・イネイン准尉です」


 立ちあがろうにも、エルザに止められてしまうので、代わりに目線を合わせて敬礼する。


「よろしくお願いします──うーんと、何と呼べば良いですか?」


 先程よりもだいぶ落ち着きを取り戻したリュエルが首を傾げて尋ねた。ナタリアはリュエルの方に顔を向ける。


「好きなように呼んでください。わたしの名前は、識別コードでしかありませんから」


 識別コード、という言葉にリュエルは瞬きをした。ナタリアは瞬きをせずに水色の瞳を見つめ続ける。それは紛れもなく事実だ。


「確かに……、名前は識別コードかもしれないけれど、ねえ? アルバ」


 エルザは再びあの困ったような顔を作る。アルバは返事を求められてもしばらく応えず、腕を組んでいた。


「──識別コードか」


「アルバ?」


「あ、いや、何でもないさ」


 アルバは首を振って、一生懸命質問を考えていたリュエルの方に視線を向けた。


「……そっか。じゃあ、ナタリアさんは何歳なの?」


「わかりません。申し訳ありません」


 機械的に返事をする。過去に意識を向けると、じゃら……という重い鎖の音が聞こえたような気がした。ナタリアの中にある記憶は暗い場所から始まっている。何も見えない暗闇にたった独りで、両手と両足を冷たくて重い枷に縛られて。


 ライの部隊に入った今も、その身体を繋ぐ鎖の先は帝国にあった。この鎖はナタリアが暗殺人形である限り、外れることはないのだろう。

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