ep.024 我が儘
目を閉じて、ライは長く息を吐き出した。ナタリアは長いまつ毛を揺らす。琥珀の瞳はそれでも空っぽだった。
「ガンマに入り込めるほどの密偵が共和国には、いたのですね。わたしは、そのレグルスという方を知りませんが……」
ライは小さく頷く。
「君は特別だから。軍の最奥で鎖に繋がれている君を俺は見たことがある」
痛々しく顔をしかめるライを見ながら、ナタリアはただ首を傾げた。確かに、ライが帝国から逃げ出した年を境にナタリアはガンマに配属された。それまでは暗い場所で、手足に枷をはめられて息をするのが、名前のない暗殺人形の役目だった。
「兵器の扱いとしては適切なのではないですか? 暗殺人形は最高機密兵器です」
「君はまだ、何も知らないだけだ。軍事法でも、人はそんなふうに扱ってはいけないことになってる」
「わたしは人形です。人と同じように考えるのは間違っています」
頑なに人ではないと主張するナタリアに、ライは息を吐いた。銀髪をくしゃりと右手で掻き上げてゆっくりと立ち上がると、白い清潔な床をライは靴も履かずに歩いてくる。ナタリアはびくりと身体を強張らせた。
「ナタリア、これから君はどうしたい?」
ライの顔が斜め下からナタリアの顔を見上げていた。綺麗な藍の瞳がじっと見つめている。リンツェルンで出会った時と変わらない色と輝きでそこにある。手を伸ばせば、滑らかな髪に触れることだってできるだろう。
「わたしの任務が変わらないことを、あなたは知っているはずです。なぜ、何度もそんな分かりきった質問ばかりをするのですか?」
流れるような動きで、ナタリアの手をライの右手が取った。ナタリアよりも一回り大きくてがっしりした手から温もりが伝わってくる。ライの少し乱れた呼吸の音だけが聞こえていた。
「俺は、君の任務じゃなくて、君の意思を聞いてるんだ。君は俺を殺さなければならない。──そして、俺も君を殺さなければならない」
「ならば、わたしを殺してください。わたしは、任務を放棄することはできません。それ以外の選択肢を持っていません。知りません、わからない、わからないのです」
わからないのです、ともう一度呟く。目を伏せてナタリアは手から力を抜いた。ライの手から滑り落ちそうになった華奢な手をライは捕まえ直す。
「うん、良いんだ、それで。俺も、ガンマを出て、世界を見て、心を探して、やっと分かってきた」
かちゃん、と銀色の左手がナタリアの髪を優しくかき混ぜる。人の手の感触とは明らかに異質なひやりとした冷たさが伝わってきて、どこか心地良い冷気にナタリアはじっと身体を動かさないようにしていた。
「ここに居ないか? 少なくとも、君の傷が治りきるまでは」
おもむろにライが口を開く。
「共和国に……?」
意外な言葉にナタリアは首を傾げた。帝国兵を自らの懐に招き入れる行為は、どう考えても合理的ではない。銀髪の青年が何を考えているのかを推し量ることは不可能だった。ただ分かるのは、ライの真っ直ぐな瞳に嘘はないことだけ。偽りを口にする人間の目は濁ることをナタリアは知っていた。
「ああ、共和国軍というか、俺の特殊諜報部隊に」
ナタリアの視線が泳ぐ。知らない材質でできた白い壁、ライが寝ていた可動式ベッド、あとは何もない部屋。帝国で目にするものよりも、進んだ技術を
「じゃあ、こうしよう」
ナタリアの目に再びライの顔が映った。ほんの一瞬の躊躇いの後に、ライは言う。
「ナタリア、俺の左腕になってくれないか? 君は俺に借りがあるはずだ。だから、しばらくで良い、ここで片腕を失くした俺の力になって欲しい」
「──卑怯です」
ぼそりとそんな言葉が口をついた。確かに、ライは簡単にナタリアを殺すことができたはずなのに、殺さなかった。それを今引き合いに出すのはとてもずるい。人と取引することにからっきしのナタリアにだってそのくらい分かる。その不信感を知ってか、ライは続けて断言した。
「卑怯でもいい。俺は君にもっと色んなものを見せたい。ただそれだけの
ライは荒く息を吐いて立ち上がる。ナタリアは夜空のような瞳から目を逸らせず、顔を上げた。
「共和国に忠誠を誓う必要はない。この部隊にいてくれるだけで良いんだ。ここには君に命令できる人間はいない。──もちろん、後で俺を殺すというのならそれでいい。いずれ帝国の密偵となるにしても構わない」
「それはあなたには不利でしかありません。わたしは命令があれば、あなた方の情報を帝国に流す可能性がありますから」
ライの口が弧を描く。冷たくその瞳が細められ、発された声には自嘲の響きが混ざっていた。
「君は命令されたことしか行えないようにできている。それにアリア様のことだ、報告は俺を殺したという報告以外いらないとでも言ったんだろう?」
琥珀色の瞳が揺れた。微かな動きはそれだけで答えになる。
「なぜ……?」
ライは冷たく微笑む。温度のない虚ろな笑い。死神はたぶんこうやって笑うのだろう。明るく笑う時の顔も、死神のように笑う顔もどちらもライにはよく似合う。
「俺だって、アリア様の下で何年も任務をこなしていたんだ、当然分かるさ。あの方がどれだけ恐ろしいかということも」
「それで──」とライはナタリアに顔を近づける。青白い顔は彼が相当な無理をしていることを訴えていた。
「君はどうする? ここに居てくれるか?」
ナタリアは瞬きをした。微動だにせず思考という名の条件の比較を行う。しんと沈黙が降りる。ライは静かにナタリアの答えを待っていた。ナタリアの髪が一房、耳から滑り落ちる。一拍遅れて、唇を言葉の形に動かした。
「──わかりました。しばらくは、あなたの側にいることにします。……それで、良いですか?」
藍色の空が広がった、ように思えた。銀髪の青年は嬉しそうに笑みをこぼす。触って温度を感じることができるのなら、きっとそれは温かいもののはずだ。ナタリアにはない綺麗な何か、自覚した途端に胸の中がひどく寒いように感じた。
「そう言ってくれると、嬉しい。俺も頑張った甲斐があった……な……」
ライの身体がぐらりと揺れた。力が抜けてしまった青年の身体はベッドに座っていたナタリアの方に倒れてくる。足が折れているナタリアも予想外の重みに耐えきれず、そのまま後ろに倒れ込んだ。結っていない赤茶の髪に銀髪が混ざる。
「……ライ? どうしたのですか?」
返事がない。ナタリアは指を恐る恐る動かして、ライの顔に触れた。ナタリアの手が氷のように思えるほど、とても熱い。眉間にシワを刻んで、ライは意識を失くしていた。包帯でぐるぐる巻きのナタリアではどうすることもできなくて、そっと手をライの額に乗せてじっとしていた。
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