ep.021 がらんどうの部屋の中

 ナタリアが目を開けたのは、白い部屋の中だった。殺風景で、がらんどうの、ナタリアの心みたいな空っぽな部屋。そこには白いベッドがふたつ並んでいた。銀枠の窓から差し込む光はなく、暗闇の空が垣間見える。まだ夜、それとももう夜だ、と言えばいいのだろうか。


 寝ていたせいか、ぱさぱさと乾いてしまった口を小さく動かして息を吐く。そして、ナタリアはゆっくりと身体を起こした。心地良い手触りの分厚い布団が滑り落ち、ナタリアの身体はひんやりとした空気にさらされる。ズキリと頭が鈍い痛みを訴えて、ナタリアは手を頭に当てた。


 その動作に違和感があった。


 手を下ろしてみると、腕には包帯が巻かれていて、どうやら全身が包帯でぐるぐる巻きにされているらしいと気がつく。身体を動かすたびに鈍痛が走る右脚は、回復まで時間がかかりそうだった。


「──」


 口を意味もなく開く。何も発せられなかった口を閉じて、ナタリアはやっと自分が誰かの名前を呟こうとしていたことに思い当たる。


 浜を紅く染めていた、壊れた暗殺人形の青年はどこにいるのだろう。


 ふと、隣に目をやった。右側の白いベッドで眠る端正な顔立ちの青年。その銀髪にナタリアの目は吸い寄せられる。同時に自分の今の存在意義を思い出した。簡素な服には武器はなく、暗器を忍ばせていた髪は解かれ軽い。しかし、武器がなくとも人は殺せる。


 するりとナタリアはベッドを降りた。折れていない片足に体重をかけ、壁を支えにライに近づく。冷たい琥珀の瞳が眠る青年に注がれた。


 手を、ナタリアはライの首にピタリと向ける。そして、勢いよく、あらゆる重みを載せて手を振り下ろした。ナタリアの指先はいとも容易く人の肉を貫く。無防備に寝ているライであっても例外ではない。しかし、その手はライの首に届くことはなかった。


 ぎぃん、と鈍い音が跡を引いて消える。ナタリアは目を見開いた。銀色の手がナタリアの手を受け止め、容易く勢いを殺してみせる。


「──ナタリア」


 閉ざされていた藍の瞳が開く。吸い込まれてしまいそうな深い色は静かな星月夜を思わせる。


「──ライ、その、手は……」


 ゆっくりと手が解かれる。硬く冷えた鋼鉄の感触がナタリアの手から消えた。ライは白い服の袖を肩口までまくる。ナタリアの目を入ったのは、ほとんど肩まである銀色の義手の姿だった。しかし、ライは器用に指先を動かしてみせる。


「こんなこともできるんだ。武器も仕込めるし、きっと慣れれば意外と便利だろうな」


 ライはふっと笑って、目を見開いて固まったままのナタリアの頭を銀色ではない右手で撫でた。不思議と強張っていた身体から余計な力が抜けていく。


「ここは、どこですか。一体何日過ぎたのですか」


 気の緩みを感じ、ナタリアは心掛けて機械的に問いかけた。ライの前では身体の機能が狂ってしまう。それはきっと悟られてはいけないことだ。


「ここは共和国軍基地だよ。俺の仲間が俺たちの治療をしてくれた。そしておそらく、あの日から数日経った、と思う」


 数日──。ガンマにはどのように伝わったことだろう。状況を考えれば、戦死扱いか。しかし、もちろんナタリアには関係ない。じっとライの顔を見つめて、宣言する。


「そうですか。ですが、わたしは任務を決して放棄しません」


 暗殺人形にとって、存在意義である任務遂行を放棄することはできない。それは敵の本部であっても同じことだ。たとえライがそれを望んでも、ナタリアから命令は奪えない。


「……まあ、そうだよな。君はガンマの暗殺人形だ。俺も暗殺人形だった時は、そうだった。何も感じない、何も考えない、命令だけを忠実に遂行する人の形をした機械──」


 ライの目はナタリアの胸の奥を見透かしているようだった。吸っている空気は変わらないはずなのに、ナタリアは息苦しさを感じる。


「それなら、あなたはなぜ、暗殺人形であることをやめたのですか。暗殺人形として育てられたのなら、そもそもその事実から逃れることはできないはずです」


「なぜ、か。確かに今の君には理解できないだろうな」


 誰へと宛てたわけでもない呟きが二人だけの 部屋に落ちて、消えた。


「ところで、座ったらどうだ? その足、折れてるんじゃないか?」


 不意にライはナタリアが壁を支えに立っていることに意識を向けて、自分の隣をぽんぽん叩く。少しほこりが舞った。


「あなたがそう言うのでしたら」


 ナタリアは後ろに退がると、自分が寝ていたベッドにライの方を向いて腰を下ろした。この部屋は壁が厚いようで、外の音はほとんど聞こえない。共和国兵と会うことはないようだったから、むしろナタリアにはそれで良かった。それに、隔絶された場所でライといることをナタリアはなぜだか不快だとは思わなかったのだ。


「まずは、君に礼を言わないといけないな」


 何かしただろうか。即座に思いつかず、ナタリアが返したのはまばたきだけだった。


「俺を助けてくれてありがとう、ナタリア」


 銀髪で藍の瞳をした死神は微笑んだ。温かい心のカケラに触れたような錯覚に囚われる。じんわりとした温もりをナタリアは気づかないフリをして殺した。だが、誰かにこうして礼を言われたことは初めてだった。


「わたしは、何も、していません」


 言葉がうまく出てこない。ライが片腕を失くしたのは、ナタリアのせいだ。怒りをぶつけられるのならまだしも、感謝なんて、もっと理解できない。ライから目を逸らし、ナタリアは沈黙した。


「それじゃあ、俺が暗殺人形として在ることをやめた理由を少し話そうか」


 ナタリアが情報を処理できずに混乱していることをライは見抜き、話を変える。ナタリアは顔を上げた。


「わたしには、理解できないのではないですか?」


 ライの行動と言葉が食い違っているような気がして、思わず問いを口にした。ライは眉を下げて微かな笑みを浮かべる。笑っているようで、哀しんでいるような、そんな顔。どんな感情を意味するのか、わからないのがもどかしかった。


「でも、君は知りたい。そうだろう?」


「……なぜ」


「君の目がそう言ってるから」


 ナタリアは自分の顔をぺたぺたと触ってみる。もちろん口はひとつだけだ。ましてや目が声を発するなんてありえない。


「目は喋りません。気のせいです」


 くしゃっとライの顔の真ん中にシワが寄った。不審に思ってそのままライをじっと見つめる。すると、ライは声を上げて笑い始めた。……それは楽しそうに。


 ナタリアはただ、空っぽな瞳で青年を眺めていた。がらんどうの琥珀色は何色にも染まらずに、天使と見紛うほどに綺麗な顔は何の感情も浮かべることはなく──


 暗殺人形には笑うという機能はなかった。

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