ep.020 翼を失くした鳥
落ちていく。
風がうなる音がナタリアの鼓膜を叩く。砕けた岩の破片がナタリアの身体へと降り注いで、破けた軍服の裾は風にはためく。ナタリアはライの身体に回した手に力を入れる。
視界が暗転した。
激しく地面に叩きつけられる衝撃で、ナタリアの肺から空気が吐き出される。痺れてしまった身体の感覚はおぼろげだった。身体の損傷が分からない。手が無意識に誰かの温もりを探す。それでナタリアは自分の手が動くことを知った。
「……ら、い」
頭を辛うじて持ち上げ、銀髪の青年の姿を求めた。ざぱん、と動かない足が冷水を被る。鈍い不快感にナタリアは眉をピクリと動かした。おそらく折れてしまった足を引きずり、這うようにして視界に映る、くすんだ紺に近づく。
紅が琥珀の瞳を塗り潰す。
どくんと心臓が嫌な音を立てた。銀髪の青年の左腕は岩に潰され、広がるのは鮮血のみ。星くずのような銀髪は広がった血溜まりで端が紅く染まっている。端正な顔は青ざめ、浅い呼吸の音が側で聞こえていた。
ナタリアは胸を押さえる。
状況が理解できなかった。ライが大怪我をして倒れている、それは分かる。分かるはずなのに、ナタリアは絶対に正しいはずの視覚を疑う。誰を殺しても、刻まれた死体を見ても、こんな、地面に空いた黒々とした穴に落ちていくような感覚を覚えたことはなかった。
指先が冷たくなるこの感情が動揺で、そして恐怖だということをナタリアは知らない。
ナタリアは息を呑み込んだ。わずかでも揺らいだ心を殺す。暗殺人形は人ではない。感情を持たず、意思を持たないただ殺すためだけの人形。ナタリアは自身の頭に深く戒めを刻んで、いつも通りの人形に戻る。空っぽでガラスのように綺麗な琥珀色の瞳が、ライを静かに見つめた。
「さようなら、《死神》」
呟き、服に仕込んでいた小型銃はライのこめかみに添えられる。白い指先は震えることなく引き金に触れた。優しく、苦しまずに殺せるように。
発砲音が高く響いた。
引き金を引くより先に、ナタリアの銃が空を飛ぶ。くるくると銀色の銃は弧を描き、群青の海に吸い込まれて行った。
まるで気配がしなかった。
それがナタリアには恐ろしい。暗殺人形にも読めない気配、十分に脅威だった。もちろん、動くことができれば対処は容易にできる。だが、今のナタリアはライほどでないにしても重傷といって良い状態だった。足は折れ、全身は岩のかすめた跡と切り傷でぼろぼろ。後ろでまとめていた髪の毛は解け、乱れていた。
「ライを助けてくれたことには感謝はするけど、そこまでは許せないかなー、ナタリアちゃん」
眩しい金髪に空色の瞳をした青年が立っていた。その手に握られた拳銃からは細く硝煙が立ち昇る。笑顔を作る顔からは冷ややかな殺気が放たれていた。
「……あなたは、ライの……」
確か、ライにアルバと呼ばれていた青年だったはずだ。ナタリアはゆっくりとまばたきをする。ライを殺すには、こちらを殺す方が先だ。浜辺の細かな砂を踏み、アルバは銃口をナタリアに向けたまま歩いて来る。頭上からは、未だに続く戦闘の音が響いていた。
ナタリアの手がぴくりと動く。折れている足は片足だけ。ならば、一瞬だけ身体を支えられれば、刃はアルバの懐に届くだろう。
「エルザ、頼む」
「ええ、言われなくても」
ナタリアの瞳が微かに大きくなった。何かが空気を切り裂いて撃ち出される。チクリとした感覚の後、ナタリアの意識はそこで途絶えた。
「……この子が、帝国の《死天使》なのね」
長い髪の女は、糸が切れた人形のように眠りに落ちた少女を見下ろす。ブロンドの髪が風に揺れた。
「ああ、そして珍しくライがご執心の、な」
「ライが……。それは珍しいわね。でも、この子がガンマなら当然なのかも」
「エルザ、ライの様子を見てくれ」
アルバはブロンドの髪をした女を呼んだ。エルザ・レーゲンシュタット、それが彼女の名前だった。ライやアルバと同じ共和国軍特殊諜報部隊所属の軍人だ。身分上は医務尉官として登録されてはいるが、実際はかなりの猛者。人は見かけに寄らない、というのを見事に体現していた。穏やかな微笑みを湛え、こてりと首を傾げる仕草が彼女にはよく似合いそうだ。
とはいえ、医務官でありながら絶望的な戦場から必ずたったひとりで帰ってくる、エルザはそういう逸話の持ち主だった。
「……命の方は、このまま帰って処置すれば助かるわ。でも、左腕はだめね。切り落とします」
ライの身体を検分していたエルザは頰にかかった髪を払う。ライが微かに
「そっか……、まだ利き腕じゃなかっただけマシだな。でも、ライの予想は的中したわけだ。ウチの軍はライとナタリアちゃんをぶつけて抹殺しようとしている……、と」
アルバは言いながら、ライの腕を地面に縫い止める岩を動かす。あまり傷を見ないように何となく目を逸らし、アルバはライを背負った。
「……ええ。こちらの《死天使》の子、いえ、ナタリア、というのよね? 彼女は右足が折れてるし、頭を含めて全身に深い切り傷があるわ。……あの崖からあんな風に落ちて、命があるのはきっと二人が暗殺人形だからね」
暗殺人形は感情を持たず、痛みを感じないのだという。もちろん、嘘に決まっている。本人がどう思っているにせよ、暗殺人形は人間だ。痛みを無視して動けるのは、そうあれと望まれて育てられたから。戦場で生きて死ね、そう言われて生まれたから。
「ナタリアがライを助けなければ、ライはたぶん死んでた」
ぼそりとアルバは呟く。エルザは軽く顎を動かす。
「暗殺人形にしては不可解な行動。ライと出会って言葉を交わして、《死天使》も少し変わった、そういうことなのかもしれないわね」
ナタリアを見るエルザの目が細められる。わずかな間その顔を見つめると、やがてエルザはナタリアを抱き上げた。
「帰りましょう。早く手当てをしないと」
ああ、とアルバは返事をして、血溜まりに背を向ける。エルザと共に歩き出して、アルバはふと尋ねた。
「……良いのか?」
何のことを言っているのか分からないような問いかけは、正しくエルザに認識された。潮の匂いが強くなる。戦闘音は続く。どちらかが倒れて動けなくなるまで。
「ええ。ここで《死天使》を殺せば、白銀翼徽章くらいはもらえるかもしれないけれど、私はそんな物に興味はない。それよりも、この子が何を知って何を選ぶのか、それの方がずっと気になるわ」
あとライに怒られるじゃない、とエルザはおっとりとした微笑みを見せた。そんなことを笑って言えるのは、特殊諜報部隊でもエルザくらいだ。
「アルバは?」
エルザの灰色の目は興味津々に見開かれ、アルバは唇の端を釣り上げる。
「俺も同じ答えだって、分かってて聞いてるだろ、それ」
ふふっと笑い、エルザは肩を震わせる。
戦場の空を、一羽のカモメが物寂しく飛んでいた。その空はきっと、翼が凍てつくほどに寒いだろう。ふわりと地面に惹かれて降下した鳥から白い羽根が散った。流れ弾に翼を撃ち抜かれたのだ。羽根をばらばらとこぼしながら、きりもみをしてカモメは落ちていく。
──翼を失くした鳥は、飛べないのだから。
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