ep.019 群青に堕ちる死神

 共和国作戦本部は騒然としていた。戦場から僅かに離れた小高い山からは、信じられないような光景が見えていた。無謀にも兵士たちの中に飛び込んだたった一人の帝国兵が、幾人もの共和国兵を殺し、屍の山を築き上げる様が。


 あり得ないことだ。戦場では数が個を上回る。いくら強い兵士であろうとも、銃弾の飛び交う戦場を蹂躙じゅうりんするなど不可能だ。もしも可能であるとしたら、それはもはや人間ではなくバケモノか殺戮兵器だった。


「通信っ、暗号の解読に成功しましたっ!」


 テントで帝国の通信を傍受していた通信兵がひっくり返った声を上げる。


「敵は、h、e、l、l……、へ、ヘルエンジェルですっ!」


 ざわりと空気が変わった。作戦遂行を任された左官たちは、呼吸困難に陥るように苦しく息を吐いて沈黙する。テントの端で目を閉じていたライは一人だけ涼しい顔で目を開けた。夜の空を閉じ込めた藍の瞳が細められる。やはりナタリアはここにいた。微かに胸が高鳴るのは、ナタリアに会えたことへの喜びか、それともナタリアとの殺し合いが楽しいからか。


 どちらでも構わない。


 この調子ならライが戦場に駆り出されるのも時間の問題だろう。階級は近いものの、軍内部でのライの地位は低い。帝国の裏切り者であり、その上かつて多くの共和国兵を殺した暗殺人形だからである。


「──《死神》だ。あれを使う」


 初めから決めていたように、間を置かずに決定は下った。


「ライ・ミドラス少佐、貴官に任務だ。《死天使》を殺せ。なお、崖の方に誘導し、我が軍の活路を開け」


「は、了解いたしました」


 ライの表情が消える。敬礼をすると、すぐさまテントを出た。軍服の下に隠された数々の暗器の重さに意識を向け、最後に銃を確認する。ナタリアと戦うなら、大きい銃は邪魔にしかならない。暗殺人形として才覚はナタリアの方が上だ。ライとナタリアを分けるのは、一重にその経験の量。何も考えずに戦えば、殺されているのはライの方だろう。


 崖の方に誘導せよ、か。


 ライは命令を頭の中で確かめ直す。その命令は読めていた。崖の方に誘導して《死天使》諸共に《死神》を葬る、それが彼らの本当の目的だ。暗殺人形はこの世にたったふたつだけ。壊してしまえば、帝国の脅威も共和国内部の脅威も一緒に消える。


 もちろん、こんなところで死ぬ気はさらさらない。そして、ナタリアも殺させはしない。


 暗殺人形でも何かを美しいと思って良いのだと、教えたいから。


 砲弾に吹き飛ばされ、焼け落ちた青い花と兵士の死骸が転がる平原に《死神》は降り立つ。


 死を運ぶためでなく、何かをこの手に掴み取るために。



 ***



 ナタリアはふと顔を上げた。銀色の髪がどこかで揺れたような気がして。


 共和国側の陣地から風のように走り出す人影があった。銀色の髪をした青年は海側の帝国兵たちの方に向かっている。


 あの髪、あの姿を見間違えるはずがない。標的ターゲットをナタリアは捕捉する。おそらくはナタリアと同じように、帝国兵を殺して戦況を立て直す作戦。


 耳元で銃弾が唸った。ナタリアは支給品の銃を抱えたまま、走り出す。銀色の《死神》が帝国兵を殺すよりも先に、辿り着くように。彼を殺すのは、ナタリアだ。


 死体を飛び越え、ナタリアの視界にようやくライの端正な顔が映る。ライは帝国兵ではなく、ナタリアを見て微笑んだ。ナタリアは足を踏ん張って勢いを殺す。足が地面を削り、土煙を上げた。それと同時に支給品の銃を棄てる。流れるような動きで手にしたのは拳銃。慣性さえも無視してナタリアはライに向かって走った。


「ライ、あなたに会いに来ました。約束通り、私があなたを殺します」


 《死天使》は無表情で口にする。《死神》は冷たい笑みで返す。


「そう簡単にはいかないぞ、ナタリア」


「知っています」


 ライの拳銃が火を噴く。放たれた弾丸はナタリアの髪のリボンの端を吹き飛ばす。ナタリアは目を見開き、鋭く銃を突き出した。ライの腹部を捉えたかのように思えた銃弾は、軽く添えられたナイフで軌道が変えられる。ナタリアは下の方からの攻撃の気配を感じ取って、背後に跳んだ。一拍遅れてライの軍靴がナタリアの足のあった場所を薙ぎ払う。


 ナタリアは深く踏み込んだ。ライと目が合う。ほんの一瞬に時間をありったけ詰め込んだかのような、長い一瞬。されど藍の瞳と琥珀の瞳は何も語らない。


 ナタリアの軍靴が跳ね上がる。黒いブーツの先の仕込み刃がライの腕を捉えた感触がした。丈夫に作られた軍服が裂ける。だが、薄い刃は腕に刺さらずに避けられた。


「ライ、なぜわたしを殺しに来ないのですか? あなたは何を、気にしているのですか?」


 ライが前に戦った通りなら、さっきの仕込み刃の攻撃はあっさりと躱されていたはずだった。ライの動作に異常はなく、怪我をしているようにも見えない。むしろ、ライはナタリアでない何かをずっと気にしている。遠くの方に意識を向けて、こちらで手を抜いているようにも映った。


 ナタリアの唇が微かに歪む。


 ライが自分ではない誰かを気にして、全力で殺しに来ないのだとすれば、それはとても嫌なことだ。胸の中がもやもやとした何かで満たされて、掻きむしりたくなる。


「俺は君を殺したくない」


 ライは自身の顎に向かう銃口を後ろに跳んで避けた。


「そんなことは知りません。ですが、それでもなぜ、他の何かを気にしているのですか?」


 ナタリアは真っ直ぐに地面を蹴って、離された距離を刹那に詰める。


 ライは息を呑んだ。銃の引き金が引かれたにも関わらず、ナタリアの身体を引き寄せる。銃弾がライの腕を貫通した。不自然に跳ね上がるその左腕からは、鮮血が噴き出す。


「っ!」


 ライは痛みに顔を歪めた。思考が漂白されるほどの痛みを歯を食い張って押し殺し、ナタリアの背中を押す。そして、告げた。


「ナタリア、飛べ」


「ライ、何を──」


 ライはナタリアと共に崖から飛ぶ。その僅か後、何発もの砲弾が炸裂した。切り立った崖が砕けて崩れて、深い群青の海へと落ちてゆく。ゆっくりと流れていく視界の中、ナタリアは灰の空を見た。


 力を失くした青年の身体が、ナタリアの目に映った。


 思わず手を伸ばす。


 ライの身体を引き寄せて、ナタリアは崩れた岩を蹴った。

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