ep.017 青の花の先に

 ナタリアは銃をひとつ捨てた。黒光りする鋼鉄の道具は冷たいコンクリートの上を滑る。きっともうここには戻らないから。


 拳銃の代わりに、屈んで支給品の銃を拾い上げた。ずしりと重い感触が腕にかかる。ナタリアは軽く銃を構え、動作を確認した。銃の不具合はないか、そして自分自身に不具合がないか。銃は問題なく動く。ナタリアの身体もまた然りだ。


 日が登る前の早朝の澄んだ空気は肌に染みる。ふう、と息を吐けば白い雲がひとつ生まれた。自分の配属された部隊を探し、ナタリアは辺りを見渡す。たくさんのカンテラの明かりがちらちらと瞬き、早朝の暗闇は隅に追いやられていた。黒い帝国の軍服に身を包んだ男たちは白い息を吐きながら、銃を抱えて座っている。ナタリアの華奢で美しい姿は嫌でも目立つ。見上げる視線も気にせず、ナタリアはただ顔色を変えずに歩いた。


「ナタリア・イネインです。本部より配属されました」


 事前に貰った資料に載っていた顔に向かって頭を機械的に下げる。中年の男はにこりと笑ってナタリアに手を差し出した。


「かの有名な《死天使》殿と戦場を共にできるとは、光栄です」


 ざわりと周囲も身動ぎをする。熟練の兵士でさえ動揺を隠すことができなかったのだ。帝国軍で《死天使》は、共和国の《死神》と並んで伝説的な存在であり、戦場の女神とまで囁かれる。事実、《死天使》が投入された戦場で敗北は一度もない。


 ナタリアは差し出された手に視線を落とす。白い手袋に包まれた手はナタリアのものよりも大きく、大人と子供ほどの差がありそうだった。


「気遣いは必要ありません。存分にお使いください」


 ちらりと目の前の手を一瞥し、ナタリアは中尉の横を通り過ぎる。男は空虚な感覚のする右手を下ろす。その顔に浮かべられた笑みは凍りついていた。上官をぞんざいに扱ったかのような行動に兵士たちは困惑した後、ナタリアに厳しい視線を送った。


 空が白み始め、濃紺の端が紫色に変わり始めた頃。重い音を立てて兵は立ち上がる。銃器の鳴らす金属の擦れ合う音、軍靴が硬い土を踏み締める音。静かな暁には戦争の音がよく響いた。


 ナタリアは指示された通り、小隊の後方で隊列に加わる。大柄で鍛え上げられた身体つきの男たちの中では前が見えない。せいぜい肩の隙間から数メートル先を見るのがやっとだ。歩く分には問題はないが、視界が遮られていることに暗殺人形として居心地の悪さを感じた。


「では、出発する。目標地点での他隊との合流は一四三〇ひとよんさんまる。遅れずについて来い」


 陸軍中尉の声が離れた場所から聞こえる。返事は声ではなく頷くことで行われた。ここから先は隠密行動と大差ないものになる。唯一の懸念は平原を越える際ではあるが、基本リンツェルンへの道は森だ。気取られずに近づくにはちょうど良い。


 まだ空には星が瞬いている。やがて消えゆく光は藍の空に縫い付けられ、地上を見下ろしていた。銃を抱えて歩き出したナタリアは空を見るのを止めた。


「君、寒くないかな? 君みたいな女の子が戦うなんて……」


 隣で足を運ぶ若い青年はナタリアに声をかける。確かに他の兵士に比べればコートを着ていないナタリアは寒そうに写るだろう。


「寒くはありません。高温、低温下で活動する訓練は受けています。そして、わたしは人間ではありません。わたしは暗殺人形です。あなたが気にかける必要はありません」


 空っぽの琥珀色の瞳に見つめられ、心優しい青年は硬直する。所在なさげに視線を宙に彷徨わせ、青年は口をつぐんだ。


 どんな部隊でも彼のような優しい人間はいる。そして、そういう人間は概して生き残れない。ほとんどの場合、命を落とす。一瞬の判断が生死を分ける戦場で、優しさは命取りになる。彼もきっと死ぬのだろう。


 鬱蒼とした森林を延々と歩き続ける。日が昇り暗闇ほどの圧迫感はなくなったが、今度は変わらない景色にうんざりしてくる。小休止を挟みながら進み、目的地にはかなり近づいたように思えた。


 チチチチ……、と名前も知らない鳥が鳴く。ザッザッと土を踏む音が途絶えた。


 木々が重なり合う向こうから漏れ出す光は、帝国領と共和国領の間に横たわる平原からのものだ。


「ここから先は慎重に行動しろ。嫌でも敵の監視にさらされる可能性がある」


 風に乗って指示が聞こえた。ナタリアは隣の青年が頷くのを見た。


「隊長……! あれはっ!?」


 悲鳴を噛み殺したような声が上がる。森の開けた先を見るために、兵士たちは距離を詰めた。


 それは青い花が咲き乱れる平原だった。深く紫に近い色の花は海風を受けて涼やかに揺れている。汽車から見た花畑、幻想的な風景の向こう側で黒い砲塔が陽光を跳ね返すのをナタリアの瞳は捉えた。


 やはり、待ち伏せされていたか。ライが動いているのなら、当然といっても良い結果だ。作戦を立案した参謀は共和国を舐めすぎている。


「……撃ちますか?」


 兵士の一人が問う。既に銃を構えた兵士たちは敵兵の照準を始めている。


「聞け。各員銃を下ろせ。まだ停戦条約は切れていない。今こちらから手を出すのはまずい」


 統率の取れた動きで銃が下ろされる。隊長は通信機を作動させ、本部へ指示を仰いだようだ。ナタリアは目を細め、紺地に白いラインの入った軍服の群れを眺める。しかし、目が良いナタリアでも目立つライの姿を見つけられないところを見れば、前線にはいないのだろう。


「あなたはどこにいますか?」


 まるで恋人を探すかのように青の花の先を見つめるナタリアは、銃を抱えた腕に微かに力を込める。死んだ冷たい鉄の温度がした。



 ***



 ライは青い花を眺める。森の中に帝国軍がいることは知っている。まだ停戦が切れていない今、接近し攻撃を仕掛けることはできないが、向こうへ行きたいという衝動に負けそうな自分に苦笑した。


 ナタリアはあの中にいる。


 ほとんど確信だ。戦闘が始まればすぐにでも探しに行こう、とまで思う。ライがここにいるのは不測の事態に対応するためで、ナタリアに会うためではないのだけれど。


 こんな風に暗殺者が戦場に投入されること自体おかしいことだった。たった一人の人間が戦況を左右できるわけがない。だが、ライは壊れていても暗殺人形。一人の暗殺人形は簡単に部隊を殺し尽くせる。戦況を変えることだって当然できる、いや、できるようにつくられた。そして共和国はそれを知っている。かつてガンマに潜り込んだ密偵がその情報を持ち込んだのだ。


 うず高い丘の作戦本部から森を見る。帝国軍と共和国軍の数の差はかなりのものだ。まともに戦えば、帝国に勝利はない。共和国軍本部は本気で帝国をここで叩くつもりで、その心境を帝国は甘く見た。しかし、ナタリアがいるのならば話は別。静観していれば、共和国軍は崩される。


 ごう、と強い潮の香りのする風が吹く。青い花弁が空に散った。

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