ep.016 開戦前夜

 ライと別れてから、数週間が過ぎた。停戦条約が無効になるまであと1日を切っていた。


 ナタリアはリンツェルンに最も近い都市であるスカルディアに来ていた。正確にはスカルディア要塞、リンツェルン攻略の本拠地となる場所だった。リンツェルンとスカルディアの間には湾があり、青い海で隔てられている。最短距離はもちろん航路だが、陸路にはあの鉄道が存在する。今となっては帝国領と共和国領を繋ぐ唯一の鉄道だった。


 要塞の窓から赤茶色の髪がふわりとなびく。暗がりの中の柔らかい風とは裏腹に、基地は緊張感に包まれていた。共和国の重要な交易都市を確保することには大きな意味がある。帝国は停戦が切れるのと同時にリンツェルンに侵攻する予定なのだ。


 そうして奪って取り返されて、とイタチごっこ。今までの記録は語っている。この争いは際限なく繰り返されるのだ、と。


 軍靴の音が殺風景な廊下に反響する。ナタリアは一人、窓の外を眺めることをやめない。ここに来るのは巡回の兵士くらいだろう。殺気も感じない。気にかける理由は無かった。


「……っ!?」


 若い青年兵士は歩みを止めた。窓の外を憂いを帯びた表情で眺める美しい少女の姿に見惚れる。荒んだ空気には場違いなほどにナタリアの美貌は異彩を放つ。


「あ、あの!」


 青年の目には、何かの間違いでここに現れた天使が佇んでいるように写っていた。こんな綺麗な少女が軍人ではある筈がない。


「あなたは、こんな場所に――」


 ナタリアは振り返る。抜き身の刃のように鋭い眼光が彼を射抜いた。


「わたしに何か用ですか? 巡回任務はわたしに与えられたものではないのですが」


 人間味の薄い仕草で首を傾げる。青年は少女が見た目の通りの天使ではないことにやっと気づく。やがて青年は少女の胸に輝く階級章が自身の階級よりも高いことを知った。


「し、失礼致しました、准尉殿」


 慌てて敬礼をした青年の肩にかけた銃剣がずり落ちる。ナタリアは空っぽの琥珀の瞳で青年を一瞥し、外に視線を戻す。


「わたしに会ったことは忘れた方が良いと思います。巡回が任務でしたら、任務の遂行を続けるべきです」


 抑揚のほとんどない淡々とした口調は、青年が少女に興味を持つことへの拒絶を示していた。うんともすんとも言えなくなった巡回兵の青年はのろのろと歩き始める。しばらく歩いて振り返った先に、地上に舞い降りた天使のような少女の姿はもう無かった。


 ガラスのない窓から飛び出したナタリアは、軽やかに屋根に降り立つ。曇りの空の下の世界は月明かりも星明かりもなく真っ暗だ。遠い向こうに見える光はリンツェルンの街明かりだった。


 帝国が停戦が切れたと同時にリンツェルン攻略を画策していることは、既に共和国に勘付かれているだろう。


 この黒い海を超えた向こうにライがいる。


 ただそう考えるだけでナタリアの心臓は不思議な音を立てる。チラチラと揺れる海面に映った光は、ナタリアのよく利く夜目に眩しく写った。


 ナタリアは本来、この戦いには参加する必要もおろか命令も無い。だが、たった一つ掴めた情報はライがここにいるであろうことを指し示していた。


 ライ・ミドラス。共和国の《死神》は共和国軍の特殊諜報部隊に所属している。特殊な能力を持つ人間を集めた部隊であり、帝国のガンマに匹敵するだろうと帝国では認識されていた。


「……早く」


 ボソリと口から言葉がこぼれた。開戦と共に単独でライを探す、それがナタリアがここに来た理由だ。


 明日、おそらく全てが終わる。


 ナタリアが壊れて終わりになるか、ライが死んで終わりになるか。


 ナタリアにはどちらでも良い。人形は何も望まない。暗殺人形として任務を遂行することのみが存在意義だ。


 下からの風が吹いた。女性士官用のスカートがはためく。太ももに巻かれた黒いベルトが白い肌に浮き上がるように見えた。


 腰のホルスターに納められた二丁の拳銃と弾倉、髪に仕込んだ細身のナイフ、そして服の内部に隠し持つ毒や暗器の数々。暗殺人形として育てられたナタリアにはその重さは気にもならない。


 この身体は人を殺す兵器なれば。


 鉄道は既に封鎖されて、運行を停止した。しかし、あの街は人の足で向かうには遠すぎる距離にある。鉄道を動かせば、大砲で撃ち抜かれる可能性がよっぽど高い。なので、早朝に出立し、停戦が切れる午後3時までにリンツェルンに乗り込む。ナタリアもその部隊の一つに混ざることになっていた。


 もう眠らなくてはいけない。これ以上起きていることは明日の任務に支障をきたす恐れがある。


 ナタリアは要塞の中に入ると、寝ることが出来そうな場所を探した。暗殺人形に眠る場所は用意されていない。基地はもう眠りに着いていた。気配を消して、多くの兵士たちが雑魚寝する場所を避けた一つ上のフロアに向かう。


 外が見える柱の横にナタリアはそっと腰を下ろした。ひやりとした硬いコンクリートの感触が伝わり、ナタリアは微かに身体を震わせる。このままでは身体が冷えてしまうと気づき、ナタリアは寝床探しの途中で持ち出した毛布に包まった。ごわごわとした毛羽立った毛布はお世辞にも綺麗とは言い難い。それでも、無いよりはずっとマシだ。


 座ったまま背中を柱に預け、ナタリアは長いまつ毛を動かした。琥珀色の瞳はそうして眠りに着く。


 わずかに晴れた雲の隙間から半分の月が顔を出す。傾いて沈みかける月は目を閉じた少女の顔を柔らかく照らしていた。

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