ep.015 忘却命令
ナタリアは機密文書の保管庫の鍵を丁寧に閉めた。目ぼしい情報は無し。ライ・ミドラスは相変わらずよく分からない人間だ。
「ナタリア」
後ろから声を掛けられた。もちろん、初めからその気配に気がついていたから驚かない。ナタリアは赤髪の青年の方に振り返った。
「わたしに何か用ですか?」
瞬きをして問いかけると、エルシオは頷く。
「ま、大した用でもねぇんだけどな。とりあえず、気になることがあんだよ」
言い終わらない内にエルシオは歩き出した。ついて来い、という意味だと解釈して、ナタリアはライと同じくらいの広さの背中を追いかける。
「どこに行くのですか?」
「んー、誰にも話を聞かれなさそうな場所」
短い会話の後は沈黙が訪れる。2人とも音の立ちやすい軍靴を履いていても、恐ろしいほどに無音だった。エルシオはずんずん先に進み、ナタリアは置いていかれそうになる。無言の背中に、トゲトゲとした雰囲気を覚えた。
エルシオがやっと足を止めたのは、外の見張り台の側だった。まだ戦争は再開していないから、今の見張り台はただの見晴らしの良い場所だ。
ナタリアはふと空を見上げる。もう空は藍に染まり、星が静かに瞬いていた。月はライと初めて会った日から欠け落ちて、細い三日月が弱い光を放っている。
ここには海がない。夜に魔物のようにうねる黒い広い水の平原も、黄昏に複雑に色を変える美しい街並みもない。あるのは、沈んだ街とどこまでも続く草原だ。あの街とここの景色は全く違った。だが、空の色は変わらない。この空はライの瞳の奥と同じ色をしていた。
「オマエ、アイツに会ったのか?」
エルシオはナタリアの目を翠色の瞳で覗き込んだ。顔が近い。思わず後ろに退げた足が壁にぶつかった。
「あいつ、とは誰のことですか?」
「ライ。ライ・ミドラスのことだ」
「なぜそれをあなたが知っているのですか?」
誰にも話していない。たとえエルシオでも知ることはできないはずだった。
「アリア様に聞いた。共和国の《死神》は誰か、ってな」
「それで、アリア様はお答えになったのですね」
ナタリアは確認する。エルシオは小さく頷いて見せた。
「なら、ちょうど良かったです。わたしもライのことを知りたかったので」
ライ、と口にした途端、エルシオは目を剥いた。ふらっと頭が揺れる。
「エルシオ大尉、どうかしましたか?」
「……あんにゃろ、ナタリアに名前で呼ばせるとか100年
ぶつぶつという呟きが何らかの不満を示しているのは分かるのだが、詳細は聞き取れない。つまり、気にすることではないのだろう。
「うーむ、で、オマエはライについて聞きたい、と?」
しばらくして話が戻る。エルシオは腕を組み、ナタリアの隣の壁にもたれかかった。
「はい。あの人はエルシオ大尉のことも知っていました。資料を調べてから、大尉に訊く予定でした」
「ふむふむふむ、……ま、いいけど。オレが知る範囲で教えてやるよ」
「ありがとうございます」
エルシオは遠くの方を見ながら話し始める。
「ライはガンマの暗殺人形で、オレと同い年なんだ。アイツはホントに強かったぜ。任務を失敗したことも無かったな。オマエと互角かそれ以上だな、ありゃ」
「わたしはライに勝てませんでした。ですが、あの人はわたしを殺さなかったのです。わたしにはそれが理解できません」
エルシオの目が大きくなった。驚き、とはまた違う感情だ。
「アイツは、壊れてんだよ。初めてオレと会った時、ライはオマエみたいに心を持たない人形と変わらなかった。でも、オレも何があったかは詳しく知らねぇけど、裏切り者を殺した後にアイツは突然姿を消した」
翠色の瞳は月を映す。揺らぐことはなく、冷徹な印象を受ける。やはり暗殺者とはそういうものなのだ。
「まさか、共和国でオレたちの敵をやってるとはな……」
「大尉。戦争がない世界とは、どんな世界なのですか?」
それが一番訊きたかったことだった。ライは言った、誰も殺さなくてもいい世界を見たくはないか、と。そして、人を殺めることは悪いことなのだ、と。ナタリアには真実がわからない。
ナタリアの問いを聞いたエルシオの顔色が変わる。鋭く尖った視線はナタリア自身というよりも、その奥、ナタリアにそんな話をしたライを射抜こうとしているようだった。
「……戦争は終わらねぇ。そんな仮定は初めから無意味だ。そんな世界は絶対に来ない」
低い声でエルシオは言い切った。そう言われてしまえば、そうなのかもしれない。長きに渡って続いている戦争を終わらせるという方が、ずっと愚かなのかもしれない。
「そうですか。あと、もう一つ教えてください。人を殺めることは、悪いことなのですか?」
エルシオの動揺は目を見開く動作として現れる。鋭い視線を向ける余裕も吹き飛んで、ナタリアを見つめた。やがて唇を引き結んだエルシオは、ナタリアの逃げ場を塞ぐように両手を壁に当てる。
「……オマエは知らなくていい。そのまま、アイツとの会話は全部忘れろ。オマエは今の暗殺人形でいるのが一番良い」
――全てを知れば、人になった少女はきっと重ねた罪に傷ついてしまうだろうから。
「ですが、ライのことを知らなければ、わたしはあの人を殺せる気がしないのです」
「オマエなら大丈夫だ。絶対に」
エルシオは振り払われる覚悟で頭の重みをナタリアの肩に預けた。だが、ナタリアは微動だにしない。ただ無表情で体温が伝わるがままになっている。
「オマエは変わらなくて良い。そのままで、綺麗だから」
囁いて、エルシオはもう少し欲張る。ナタリアの肩から頭を離して、赤茶色の髪に手を伸ばす。
「いででででっ!」
ナタリアはエルシオの手を絶妙に捻り上げる。伸ばされる手は何をするか分からないものだ。エルシオにその気が無くとも、これ以上はナタリアには耐えられない。暗殺人形は殺すことしかできないから、エルシオでも殺してしまうかもしれなかった。
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